第143話『消えた旨味』
どれほどの時間を、あの白濁とした湯に浸かっていただろうか。
「…………」
ちゃぷん。
湯の揺らぎが、静けさを切り裂く。
ゆうこは肩まで湯に沈んだまま、完全に動かなくなっていた。
のぼせた頬はほんのりとした紅色を帯び、半分閉じた瞳は天井板の木目を通り越して、虚空のどこか遠くを見つめている。
「ゆうこ」
「…………」
「ゆうこ?」
背後から、サクがもう一度低く呼びかける。
「…………ここに住む」
「帰ってきなさい」
「私、六本木に住むんだ……」
「早くも旅の目的を見失わないで」
サクの冷静なツッコミにも、ゆうこは微動だにしない。
生気のない人形のように、ただぷかぷかと湯面に体を預けている。
「だってぇ……」
不意に、ゆうこは湯の中でぐにゃりと身体の力を抜いた。
「豆腐食べてぇ……最高のお風呂入ってぇ……もう今日やることないじゃん……」
「ウイスキーの存在を忘れているわよ」
「…………!」
カッ!!
死んでいたはずのゆうこの目が見開かれ、強烈な光が宿る。
「そうだった!」
ざばぁっ!!
静寂を破る猛烈な水飛沫とともに、勢いよく立ち上がる。
「私たち、ウイスキーの国に来たんだった!」
「思い出すのが遅すぎるわよ!」
この国へ到着してからというもの。
豆腐。
風呂。
豆腐。
風呂。
あまりの快適さに流され、肝心のウイスキーをまだ一滴も口にしていなかった。
「よし!」
ゆうこは湯から上がったびしょ濡れの体で、力強く拳を握り締める。
「お風呂上がったら、今度こそウイスキー飲みに行こう!」
「大賛成!」
サクの返事は驚くほど早かった。
その時、石造りの岩壁の向こうから、ポンギの野太い声が地響きのように響き渡る。
「待てぇぇぇぇ!!」
「なにかしら!?」
「風呂上がりにいきなり酒を飲むな!」
「そこだけやけに生活指導がちゃんとしてるんだ!?」
ゆうこがバスタオルを片手に、思わず素っ頓狂な声を張り上げる。
「まず水を飲め!」
「はい!」
元看護師としての血が騒いだのか、反射的に体が動いて反論の余地がなかった。
◇
湯上がり処の木の香りが心地よい《六本木》の休憩スペース。
一行は並んで腰を下ろしていた。
火照った肌を撫でる夜風が心地よい。
すっかり軽くなった両肩の凝り。
足の裏から消えていく長旅の疲労感。
そして全員の右手には、ポンギから手渡されたずっしりと重い大きな木杯が握られている。
中身は。
「水」
ゆうこが小さく呟く。
「極上の水だ!」
ポンギが胸を張って豪快に笑う。
「いや、見れば分かるけどさ」
「風呂上がりの一杯といえばこれだ! ぐっと飲め!」
「ウイスキーの国なのに、最初の一杯がただの水とは……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、渇ききった喉には逆らえず、ゆうこは木杯へそっと口をつけた。
ごくっ。
「…………おいしい」
ひんやりと冷たい液体が、火照った食道を伝い、胃の腑へと染み込んでいく。
たなかの店で飲んだあの水と同じく、雑味が一切なく、舌をかすめるようなまろやかさがある。
それなのに、喉の奥へスルスルと吸い込まれていく感覚が妙に心地よい。
「この水も、あの北の山から?」
「ああ!」
ポンギが力強く大きく頷く。
「この街に湧き出る水は、すべてあの険しい山々の雪解け水が起源だ」
「へえ……」
「《六本木》の温泉も、まったく同じ地下水脈から湧き出しているのさ」
ポンギは自分の木杯を一気に傾け、喉を鳴らして飲み干した。
「この国じゃ、水こそが最高の宝なんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、ゆうこは少しだけ目を細め、手元の木杯を見つめた。
たなかも、まったく同じようなことを誇らしげに語っていた。
『豆腐には美味い水が不可欠だ』と。
この国の湧き水が一番好きだと、目を輝かせて笑っていた。
そして目の前のポンギもまた、同じ誇りを胸に抱いている。
ウイスキーの国。
けれど、この土地に足を踏み入れてからまだ半日すら経っていないというのに。
ゆうこの胸のうちはすでに、別の名前で染まりつつあった。
――水の国。
そんな新鮮な印象の方が、圧倒的に強くなり始めていた。
「なあ!」
不意に、ポンギが大きな体を乗り出してゆうこたちを見渡す。
「お前たち、あてのない旅人なんだろ?」
「そうだけど」
「今夜の宿はもう決まっているのか?」
「…………」
ゆうこ。
サク。
クルス。
三人の視線が空中で交差する。
そして。
「決めてないわね」
「でしょうね」
クルスがやれやれといった様子で小さく息を吐いた。
「なら、ここに泊まってけ!」
「温泉だけじゃなく、宿泊施設までやってるの!?」
「この建物の二階が宿屋になっている!」
ポンギが親指で天井の上を元気よく指し示す。
「たっぷり風呂に入って、そのままぐっすり眠る! そして朝起きたら!」
両腕を大きく広げ、満面の笑みを浮かべる。
「また朝風呂だ!!」
「温泉しかないのここ!?」
「最高の贅沢だろ!」
「否定しづらいのが腹立つ……!」
結局のところ、ゆうこたちはその夜、そのまま《六本木》の宿場スペースに厄介になることになった。
◇
翌朝。
ちゅん、ちゅん。
窓の外の深い緑から、愛らしい小鳥のさえずりが響いてくる。
足元からは、石畳の脇をさらさらと清らかな水路が流れる音。
朝の柔らかく温かな陽光が、障子越しの宿の部屋に優しく差し込んでいる。
「んん……」
ゆうこは布団の中で心地よさそうに小さく身悶えし、体を丸めた。
昨夜は温泉から上がった後、街の賑やかな酒場へ繰り出し、ついにこの国自慢のウイスキーにありついたのだ。
グラスのなかで揺らめく琥珀色の液体。
鼻腔をくすぐる香ばしい麦の芳香。
オーク樽由来の深みと、スモーキーな余韻。
焼酎や日本酒とはまた違う、力強くも複雑に絡み合う大人な味わい。
その結果として言うまでもなく、サクと一緒についつい飲みすぎてしまったのだった。
「…………」
ゆうこは重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。
「……お水」
かすれた声で呟きながら、枕元へ手探りで腕を伸ばす。
昨夜のうちにポンギが親切に用意してくれた木製の水差し。
木杯へ透明な液体を勢いよく注ぎ、一気に喉へ流し込む。
「ぷはぁ……っ」
乾き切った体に染み渡り、全身の細胞が生き返るような感覚。
そのまま再びふかふかの布団へ倒れ込もうとした、その瞬間だった。
ゆうこの鼻が。
ぴくっ。
と微かに動いた。
「…………」
すん。
もう一度、確かめるように鼻を鳴らす。
すんすん。
「……豆腐の匂いだ」
一瞬で頭が冴え渡り、布団から跳ね起きる。
昨日のあの感動的な味が、脳裏で鮮明に蘇ってきた。
シルクのように滑らかな舌触り。
噛みしめるほどに広がる大豆本来の上質な甘み。
そして、あの圧倒的なまでの濃厚な旨味。
何より、昨日の別れ際に、たなかは確かにこう言っていた。
"明日も朝から仕込んでいるから、いつでもおいで"
ゆうこの瞳が、眠気とともにすっかり消え去り、力強く輝き始める。
「行かなきゃ」
もはや使命感すら漂う足取りで、布団を蹴飛ばした。
◇
それからしばらくして。
「やってるー?」
昨日とまったく同じ調子で、ゆうこが白い暖簾をくぐり、ひょっこりと顔を覗かせる。
すると、湯気の向こうの厨房から、威勢のいい声が飛んできた。
「やってないよー!」
「だから暖簾が出てるって言ってんでしょーーっ!!」
朝っぱらから完璧すぎる漫才のような掛け合いが成立する。
「あはははっ、おはよう!」
たなかが腹を抱えながら、白い前掛けを揺らして厨房から姿を現した。
「いやあ、ごめんごめん。昨日あんなに綺麗にキレのあるツッコミをしてくれたから、ついもう一回やりたくなっちゃってさ」
「私のセリフを味に占めないでよ!」
ゆうこの背中を押すように、サクやクルスたちも次々と店の中へ足を踏み入れる。
「おはよう、たなか」
「おはよう! みんな揃って来てくれたんだね」
「この人が、朝から豆腐の匂いでゾンビみたいにうるさかったので」
クルスがいつものように淡々と言い放つ。
「誰が朝の豆腐ゾンビよ!」
「そこまでは言ってませんけど」
「しゅわ♪」
昨日とまったく変わらない穏やかな朝の風景。
昨日と寸分違わない温かな店構え。
大きな鉄釜からもうもうと立ち上る白い湯気。
ザルの中でたっぷりの湧き水に浸されている大豆たち。
木樋からは、冷たくて透き通った水が絶え間なくさらさらと流れ込んでいる。
「ちょうどいいタイミングに来てくれたね」
たなかが嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「今朝仕込んだばかりの一番豆腐が、ちょうど今できあがったところだよ!」
「待ってました……!」
たなかは手際よく厨房へ戻ると、型から外したばかりの出来たての豆腐を包丁で美しく切り分ける。
昨日と同じ。
雪のように真っ白な表面。
絹のように滑らかな質感。
箸で持ち上げると、ぷるぷると瑞々しく柔らかく揺れている。
見た目の美しさには、何ひとつ違いがないように見える。
小皿へ丁寧に盛り付けられ、ゆうこの目の前へ差し出された。
「はい、お待たせ!」
「いただきます!」
待ちきれない様子で、ゆうこは迷わず箸を伸ばす。
昨日と同じように、端から一口大を優しく切り取る。
お箸越しに伝わる柔らかさも同じ。
鼻腔をくすぐる大豆の香りも同じ。
目で見るかぎり、完璧な仕上がりだった。
ゆうこは期待に胸を膨らませながら、それをそっと口へ運んだ。
ぱくっ。
「…………」
優しく咀嚼する。
「…………?」
ゆうこの美しい眉が、ほんのわずかに、しかし確実に中央へ寄った。
納得がいかず、もう一口。
ぱくっ。
「…………」
今度は、舌の上で転がすようにゆっくりと味わう。
大豆の風味は確かにする。
傷んでいるわけでも、もちろん腐っているわけでもない。
舌触りだって昨日と変わらず驚くほど滑らかだ。
間違いなく、これは正真正銘の美味しい豆腐だ。
なのに何かが、決定的に足りない気がする。
「……ねえ、たなか」
ゆうこは箸を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「ん?」
たなかはまだ明るく笑っていた。
だが、ゆうこの真剣な表情を捉えた瞬間。
その顔に浮かんでいた笑みが、嘘のようにすっと消え去った。
「……どうかしたの?」
ゆうこはすぐには答えず、じっと小皿の上の真っ白な豆腐を見つめた。
そして、昨日の夕方に食べたあの強烈な味を、もう一度自分の記憶の中で反芻する。
間違いない。昨日とは何かが違う。
「これ……」
ゆうこは静かに、しかしはっきりと呟いた。
「昨日の豆腐と、味が違う」
「…………!」
その言葉を聞いた瞬間、たなかの表情が完全に凍りついた。
ぴたりと動きが止まる。
異変を察したサクも、無言のまま自分の小皿から豆腐へと箸を伸ばした。
一口サイズを口に運び、目を細める。
「……本当ね、昨日のと違うわ」
「ですよね」
クルスも小さく頷き、腕を組んだ。
昨日まであれほど濃厚に感じられた、大豆の持つ自然な甘み。
口いっぱいに幸福感として広がった圧倒的な旨味。
その味わいの中心だけが、まるで綺麗にどこかへ抜き取られてしまったかのように、あまりにも薄ぼんやりとしている。
「ねえ、材料の配合でも変えたの?」
ゆうこが心配そうに尋ねる。
たなかは力なく首を横に振った。
「変えてないよ」
「大豆の種類は?」
「昨日とまったく同じだよ」
「作り方の手順は?」
「すべて同じ工程でやった」
「じゃあ、水は……?」
その問いに、たなかの視線が、ハッとしたようにゆっくりと木樋の方へ向いた。
さらさらさら……。
昨日と何ひとつ変わらないように見える。
透き通った冷たい水が、変わらず絶え間なく流れ落ちている。
たなかはしばらくの間、その流れる水から目を離せなかった。
やがて、自分の手で作った豆腐が本物かどうか確かめるように、もう一度小さな欠片を口に放り込む。
「…………」
ゆっくりと噛み締める。
そして、静かに飲み込む。
でも、やっぱり何かが違う。
いつもの彼らしい陽気な表情は跡形もなく消え去り、店の中には今まで聞いたことのない重苦しい沈黙が満ちていた。
たなかは自分の手で作ったはずの豆腐を見つめたまま、力なく小さく呟く。
「……美味しくない」
その声には。
誰よりも豆腐を愛し、誰よりも誇りを持って作り続けてきた職人だからこそ痛いほど分かる、はっきりとした戸惑いと恐怖が深く滲み滲んでいた。
「この子……」
たなかの震える指先が、小皿の上の真っ白な豆腐へそっと触れる。
「手順どおりに、ちゃんと作れてるのに……どこにも美味さが宿ってない……」
たなかの消え入りそうな声だけが、妙に静まり返った店内の空気にぽつりと落ちたのだった。




