第142話『奥義!【湯加減《ゆかげん》】』
ざばっ。
向こう側で勢いよく水音を立てて立ち上がる気配がする。
「四十一・七度」
「細かすぎるでしょ!」
ゆうこが思わず声のトーンを上げて叫ぶ。
「そんなの肌感覚で一発で分かるものなの!?」
「分かるさ!」
迷いのない即答。
「俺の愛するこの風呂の湯加減を舐めるな!」
「あんたの身体の構造は一体どうなっているのよ!」
次の瞬間。
ポンギの表情が変わった。
先ほどまで豪快に笑っていた男が、職人の顔つきで静かに湯船へ片手を差し入れる。
指先が、湯に触れた。
「奥義! 【湯加減】!!」
ちゃぷん。
その瞬間、ポンギの掌を中心に、目には見えない何かが湯船いっぱいへ一気に駆け巡った。
激しい光が放たれたわけでもない。
轟音が響いたわけでもない。
ただ、静かな波紋が幾重にも重なりながら、水面を滑るように広がっていく。
ゆうこは肌を刺すような微細な変化に、すぐさま気づいた。
「……あれ?」
たっぷりと湛えられた湯が、肌の芯からじんわりと、心地よい温かさに包まれていく。
新たに熱湯がドバドバと追加されたわけではない。
新しい湯源から新鮮な水が流れ込んできた気配もない。
それなのに、広大な露天風呂全体の温度が、寸分の狂いもなく全体的にわずかへと上昇している。
四肢を包み込んでいた温かさが、ほんのわずかに、しかし確実に強くなった。
そして、ぴたり。
熱のうねりが、完璧なタイミングでピタッと静止する。
「四十二度、よし」
ポンギの満足しきった力強い声が聞こえてくる。
「…………」
ゆうこは信じられない思いで、自分の掌ですすいだ湯面をじっと見つめた。
「今、一体何をしたのよ」
「今の最高の湯加減に微調整した」
「どうやってそんな離れ業を?」
「俺の固有スキル、その名も【湯加減】だ!」
「名前がそのまんま過ぎてツッコミどころに困る!」
ポンギは岩壁の向こうで、我が意を得たりとばかりに豪快に笑い飛ばす。
「俺はな、自分の肌が触れた水の温度や質を、意のままに自在に変えられるのさ!」
「へえ……それはすごい技術ね」
ゆうこは感心したように目を丸くし、両手でたっぷりと透明な湯をすくってみせる。
確かに、先ほどよりもお湯の当たりが少しだけ引き締まって熱い。
しかも、それは湯船の一部分だけが熱くなっているのではなく、露天風呂の広大な空間全体が均一にしっかりと温められている。
「非常に便利で面白い能力ね」
サクも興味深そうに自分の指先を見つめながら呟いた。
「ねえ、その力で熱湯にもできるの?」
「お望み通り、一瞬で茹で上がるほどの熱湯にもできる!」
「じゃあ冬の氷みたいにキンキンに冷たくも?」
「当然、氷水のように冷やすことも可能だ!」
「それなら、工夫次第で戦闘の武器としても十分に活用できそうね」
そのサクの何気ない一言を聞いた瞬間。
ポンギの野太い声が、先ほどまでの明るさから一転して急に低く冷ややかなものになった。
「……サク」
「なによ、急に真面目な声を出して」
「風呂を、不純な戦いのための道具にするんじゃない」
「そこだけ異常に熱く怒るところなの!?」
男の妙なところに頑固なまでの信念があった。
「風呂というものはな、戦いなどではなく、傷つき疲れた人間を癒やすためにあるんだ!」
ポンギの心の底からの力強い言葉が、湯気越しに響き渡る。
「日々の労働で疲れ果てた奴が足を伸ばして入り、冷え切った身体の芯から温まって、明日を生きる活力を取り戻す!」
ポンギはさらに声を張り上げた。
「それが、風呂というものの真の存在意義だ!!」
「…………」
一瞬、ゆうこは返す言葉を失って、ただ静かに黙り込んだ。
言っている中身の主張自体は、驚くほど真っ当で感動すら覚える内容である。
「それを今、大真面目な顔と全裸の状態で熱く叫んでいるっていうのが、どうにも締まらないのよね……」
「あいつ、一体何を考えているのかしらね」
サクが思わず吹き出し、クスクスと笑い声を漏らす。
その場の空気に押されるように、ゆうこは再び肩までしっかりと深く湯船の中へと沈み込んだ。
「でもまあ……気持ちいいから、すべて許すわ」
目を閉じる。
全身を包み込む柔らかな温かさ。
すべてがちょうどいい。
果てしない長旅のせいで鉛のように凝り固まっていた首や肩の筋肉が、じわじわと心地よくほぐれていくのが分かる。
さっきまで昼食の絶品豆腐でパンパンに膨れ上がっていたお腹の苦しさまで、不思議と和らいでいるような感覚に包まれた。
「…………ん?」
ふと、ゆうこは重たかったまぶたをゆっくりと開いた。
決して自分の気のせいではない。
さっきまでまるで身体中に重い鉛の鎧でも着せられているように重かった四肢が、嘘のように驚くほど軽い。
試しに、湯の中で大きく肩を回してみる。
ぐるり、と滑らかに腕が回る。
どこも痛くない。
あんなに重かった腰も。
張り詰めていた背中も。
ポコちん龍の過酷な空の旅で蓄積されていた疲労という疲労が、まるですべて魔法のように綺麗に消え去っている。
「ねえ、サク」
「どうしたの?」
「なんだか身体がすごく軽くない?」
「……言われてみれば、確かに」
サクも自分のしなやかな肩を自分で動かしてみる。
その整った顔の表情が、驚きによってわずかに変化した。
「本当だわ。さっきまであった倦怠感が嘘みたいに消えている」
岩壁の向こう側の男性エリアからも、クルスの落ち着いた声が届く。
「俺もです。空を飛んでいる最中に溜まった気だるさが、完全に抜けています」
「やっぱり、このお湯のせいだ!」
ゆうこはきらめく湯面を真剣なまなざしで見つめた。
ただの温かいお湯に浸かって筋肉が物理的にほぐれた、というレベルでは絶対に説明がつかないほどの圧倒的な回復感。
その時だった。
「しゅわ〜♪」
のんびりと湯面をぷかぷかと漂っていたはずのスライムのしゅわ丸が。
ぽよんっ!
突然、信じられないほどの弾力で湯の上へと高く跳ね上がった。
「ちょっと、元気になりすぎて暴走しないでよ!」
そのまま勢いよく着水する。
ぽちゃんっ!
盛大な水飛沫が、あろうことかゆうこの顔面へと真っ直ぐ直撃する。
「冷たっ!……って、お湯だけどさ!」
「しゅわ♪」
「こらぁ、調子に乗らないの!」
そのやり取りを聞いて、岩壁の向こうからポンギの勝ち誇ったような満足そうな笑い声が響いてきた。
「どうだ!」
「どうだって言われても……」
ゆうこは顔にペタペタとついた水滴を手で乱暴に拭い去る。
「これもさっきの【湯加減】っていうスキルの効果なの?」
「そうだとも!」
ポンギは一片の迷いもなく胸を張って答える。
「俺がこの手で完璧に整えた湯は、ただの温水なんかじゃない。 旅で限界まで疲弊した肉体のこりをほぐし、弱り切った生命力に活力を戻す最高の霊泉だ!」
「それってもはや『湯加減』の範疇を完全に超えてチート技じゃない!?」
「客にとって良い湯であれば、理屈などどうでもいいのだ!」
「まったく説明になってないわよ!」
再び周囲に明るい笑い声が広がっていく。
ゆうこはもう一度だけ自分の掌で、その透明な湯をそっと掬い上げた。
さらさらと心地よい音を立てて、指の隙間から滑らかに流れ落ちていく。
そして、たなかの言葉をふと思い出す。
"この国の水は、本当に美味しいよ"
街の豆腐を驚くほど美味しく仕立て上げる、この国の清らかな水。
そして、傷ついた旅人の肉体と精神を心の底から癒やす、この奇跡のような温泉。
さらに旅の道中で見かけた街の至るところに建ち並んでいた、琥珀色のウイスキーの蒸留所たち。
「……ほんとに、この国はどこも水で満ちている水の国なんだ」
ゆうこは波立つ湯面を見つめながら、ぽつりと感慨深げに呟いた。
「ん?」
サクが濡れた髪をかき上げながら首を傾げる。
「ううん、何でもない」
ゆうこは小さく柔らかく笑った。
「それにしても、豆腐も最高に美味しいし、このお風呂も言葉が出ないくらいに気持ちいいし」
両腕を温泉の湯の中で大きく広げて、思い切りぐっと伸ばしてみる。
「この異世界への転移、もしかしてめちゃくちゃ当たりだったのかも!」
「しゅわ〜♪」
しゅわ丸も完全に同意するように、ぷるぷると身体を震わせて嬉しそうに飛び跳ねた。
しかし、この時のゆうこたちは、まだ知るよしもなかった。
この国の豊かな暮らしを根底から支え、極上の豆腐を育て、日々の疲れで傷ついた人々の心を癒やし、そして芳醇なウイスキーの味わいを育んできた、かけがえのない水に。
もう間もなく、誰の目にも信じられないような不気味な異変が、静かに忍び寄ろうとしていることを。




