第141話『六本木の露天風呂』
「…………」
ゆうこ。
サク。
クルス。
三人そろって、青空の下にその場ですらりと固まる。
吹き抜ける風の冷たさと裏腹に、数秒間の痛いような沈黙が流れた。
ゆうこが、自分の鼻先を指差すように恐る恐る自分を指差す。
「……私たち?」
「そうだ!」
男は顔全体の筋肉を緩め、満面の笑みで力強く頷いてみせる。
「腹いっぱいなんだろ!」
「なんで分かるの!?」
男は自慢げに胸を大きく張る。
そして、この世のすべての面倒や不条理を鮮やかに解決する真理でも語るかのように、声を大にして言い放った。
「そんな時こそ!」
ビシッ!!
空に向かって再び迷いなく親指を立てる。
「風呂だ!!」
「どういう理屈ぅぅぅぅぅ!?」
ゆうこの切羽詰まった絶叫が、昼下がりの通りいっぱいに濁流の如く響き渡る。
だが、目の前の男は、驚くほど微動だにしない。
むしろ「何を当たり前の、宇宙の真理を今さら聞き返しているんだ」とでも言いたげに、腕を組んで深く頷き返す。
「食った?」
「食った」
「腹が膨れた?」
「膨れた」
「動きたくない?」
「めちゃくちゃ動きたくない」
「なら風呂だ!」
「最後だけ全く繋がってないのよ!」
ゆうこが突き出された腹を押さえながら、魂の底からの渾身のツッコミを叩き込む。
その隣でサクが、呆れたように男の全身を頭のてっぺんから足のつま先までじろじろと観察した。
「というか、あなた誰?」
「俺か?」
男は待ってましたと言わんばかりに再び胸を反らす。
「ポンギだ!」
「ポンギ……」
「風呂屋をやってる!」
「でしょうね!」
ここまで異様な熱量で風呂を強引に押しつけてきて、もし万が一にも豆腐屋だったら、その方がよっぽどホラーである。
ポンギはそんなゆうこの冷ややかな反応など気にも留めず、活気ある通りの奥をビシッと鋭く指差した。
「俺の店はすぐそこだ!」
その指の示す先。
情緒ある水路沿いに建つ頑丈な石造りの建物から、ぽこぽこと湧き出るように、もくもくと大量の白い湯気がもうもうと立ち上っている。
建物のすぐ裏手には、豊かな木々に囲まれた風情ある露天風呂らしき一角まで見えた。
そして入口には、年月を感じさせるやけに立派な木製の看板が掲げられている。
そこに力強い筆致で大きく刻まれていた文字は。
《六本木の露天風呂》
「…………」
ゆうこは目を丸くして、その看板をじっと見つめた。
あまりのシュールさに現実逃避をしたくなり、もう一度瞬きをして見る。
何度見ても、やはりそれは同じ文字だった。
《六本木の露天風呂》
「六本木?」
「そうだ!」
ポンギが誇らしげに顎を引く。
「なんで!?」
「店の名前だ!」
「それは見れば分かるわよ!」
どうしてこのファンタジーな異世界のウイスキーの国に、突如として日本の大都会の名前が存在するのか。
ゆうこの元いた世界との根深い因果関係を思わず疑いたくなる名前だったが、目の前のポンギの底抜けに明るい顔を見る限り、そこに深い理由や陰謀があるようには到底見えない。
「いい名前だろ?」
「コメントに激しく困るんだけど!」
「そうか!」
「全然気にしてない!」
ポンギは豪快に腹の底から笑い声を上げる。
サクが首をかしげながら看板を眺め、ゆうこへと小声でささやいた。
「……ねえ、ゆうこ」
「言いたいことは分かる」
「なんで異世界に六本木があるの?」
「私が聞きたいわよ」
二人は揃って、もう一度《六本木》と書かれた看板を見上げる。
間違いない。
どう見ても六本木だ。
「……考えるのやめましょうか」
「賛成」
ただでさえ昼食の豆腐が胃の限界まで詰まっていて、身体が鉛のように重い。
今ここで、なぜ異世界のウイスキーの国に《六本木》が存在するのかなどという難題について考え始めたら、胃より先に脳が限界を迎えそうだった。
すると、会話の隙を突くようにポンギがぐっと顔を近づけてくる。
「で、結局のところ、入るのか?」
「いや、だから今はお腹がいっぱいで身動きが……」
「問題ない!」
「大ありだよ!」
「風呂に入れば全部の悩みはどうにかなる!」
「その風呂への信頼はどこから湧いて出るの!?」
「風呂だからだ!」
「堂々巡りで全く答えになってない!」
ポンギはこれ以上の一切の議論を拒絶するように聞くだけの耳を完全に塞いだ。
そして、そのままくるりと豪快に背中を向ける。
「ついてこい!」
「まだ入るなんて一言も言ってないんだけど!?」
「こっちだ!」
「ちゃんと私たちの話を聞いて会話してぇぇぇ!!」
その絶叫がかき消されるように、不意に風向きが変わった。
ふわぁ……。
午後の穏やかな通りを吹き抜けた一陣の風に乗って、ほんのりと硫黄を含んだ温かな湯気が、ゆうこの冷えかけた頬を優しく撫でる。
鼻腔をくすぐるのは、ほのかに心地よい鉱物の香り。
そして、どこか懐かしく柔らかくて清らかな水の匂い。
ゆうこは抗いがたい魅力に引き寄せられるように、思わず《六本木》の奥へと目を向けてしまった。
青々とした木々の隙間からきらめきながら見える野趣あふれる露天風呂。
木漏れ日を反射した透明な湯面が、きらきらと眩しく輝いている。
考えてみれば、長時間のフライトでポコちん龍の背中に揺られ続けたせいで、肩も腰も鉄板のように凝り固まっていた。
そこへさらに、限界すれすれまで豆腐を詰め込んだのだ。
思考は拒絶していても、生き物としての身体は実に正直だった。
「…………」
入りたい。
理性をかなぐり捨てて、今すぐあの湯に飛び込みたい。
隣でサクが、ぐっと覗き込むようにゆうこの複雑な横顔を観察する。
「顔に『めちゃくちゃ入りたい』って書いてあるわよ」
「書いてない」
「ものすごく顔に出てるわよ」
「してない!」
「しゅわ〜♪」
「まさか、しゅわ丸まで!」
少し離れた足元で、丸まった体勢のクルスも露天風呂の湯気を見つめながら呟く。
「まあ、長旅の緊張と疲労の蓄積を取るには、これ以上ない選択肢では?」
「クルスまであっさり陥落した!」
そして、抗う間もなく結局。
それからわずか数分後。
◇
「…………はぁぁぁぁぁぁ」
ゆうこの開いた口から、魂の一片まで溶けていきそうな極上の吐息が漏れる。
肩までたっぷりと贅沢に湯に浸かり、ごつごつした自然の岩へ心地よく背中を預ける。
頭の上には、温泉の定番である小さくきっちり畳まれた白い手拭い。
目の前に広がるのは、どこまでも高い秋の青空。
周囲を取り囲む深い森の緑が、目に優しい。
岩のわずかな隙間からは、絶え間なく新鮮で透明な湯がこんこんと湧き出し、湯面から立ち上る白い湯気が緩やかな風に乗って大空へと溶けていく。
「…………生き返る……最高」
さっきまであんなに拒否していた人間とは思えないほどの、見事な手のひら返しだった。
少し離れた女性用の入浴スペースでは、サクも美しい長い銀髪を湯に濡らさないよう高くまとめ、同じように岩へ身体を預けて目を細めている。
やがて、サクは気持ちよさそうに長く息を吐き、どこか悔しげに呟いた。
「本当に悔しいけれど……ここは天国ね。すごくいいわ」
「でしょ?」
「あなたがそんなに威張るようなことじゃないでしょ」
「私だって別に誘われて来たわけじゃないし」
そのさらに向こうの気配から、可愛らしい声が聞こえてくる。
「しゅわぁぁぁぁ……」
スライムのしゅわ丸が、まるでプールの浮き輪のように湯面にぷかぁ、とすっかり力を抜いて浮かんでいた。
完全に形が崩れて溶けかかっている。
「しゅわ丸、溶けすぎじゃない!?」
「しゅわぁ……♪」
「なんて幸せそうな顔してのんびりしてるのよ」
ゆうこが思わず苦笑いをこぼす。
男女の湯船は頑丈な岩壁できっちりと隔てられているが、向こう側の空間からも、心地よさそうなクルスの低い声が響いてきた。
「確かに、これは旅の疲れを癒やすにはこれ以上ない極上の環境ですね」
「だろぉぉぉ!!」
そして、なぜかその直後、男湯側からポンギの得意げな声まで混じって聞こえてくる。
「ちょっと、ポンギまで一緒に入ってるの!?」
「当たり前だ!」
岩壁の向こうから、天井知らずの豪快な笑い声が跳ね返ってくる。
「風呂屋の主が、極上の風呂に入らなくてどうする!」
「営業中に何サボっているのよ!」
「これが俺にとっての厳正な仕事の一環だ!」
「絶対にごまかしてるでしょ!」
ゆうこの乾いたツッコミが、穏やかな露天風呂の空間に大きく響き渡った。
その和やかな空気を破るように、突然の転機が訪れる。
「むっ」
不意に、岩壁の向こう側でポンギの声色がピリッと真剣なものに変わった。
「……ちょっとぬるいな」
「え?」
ゆうこは心地よさに浸っていた湯の中で、不思議そうに首をかしげる。
今のままでも十分すぎるほど温かい。
むしろ、のんびりと長く浸かるにはこれ以上ないくらいにちょうどいい温度に感じられる。
だが、プロの風呂職人であるポンギの感覚は違ったらしい。




