第140話『豆腐の次は、風呂!?』
そして店の脇を流れる水路からは、透明度の高い清らかな水が、細く削られた木樋を通って店の中へと引き込まれている。
ゆうこは何気なく、その水へ目を向けた。
「ここでも水を使ってるんだ」
「そりゃ使うよ」
厨房から、たなかの気さくな声が返ってくる。
「豆腐って、大豆だけじゃ美味しくならないからね」
「へえ」
「美味しい水があって、初めて美味しい豆腐になるの」
そう言いながら、たなかが奥から戻ってきた。
両手には、年季の入った大きな木盆が抱えられている。
その上に並んでいたのは、予想の斜め上をいく皿の数々だった。
「お待たせ!」
どんっ、と威勢よく木盆が卓に置かれる。
「まずは冷ややっこ!」
どんっ、と続く二皿目。
「焼き豆腐!」
どんっ、と三皿目。
「揚げ豆腐!」
どんっ、と四皿目。
「豆腐田楽!」
さらに、追い打ちをかけるように。
ぐつぐつぐつぐつと、底から白い泡を立てて煮える土鍋。
「湯豆腐!」
「多い多い多い!!」
卓の上が、一瞬にして純白の豆料理で埋め尽くされる。
「豆腐屋だからね!」
「限度ってものがあるでしょ!」
ゆうこが必死のツッコミを入れている間にも、たなかは楽しげに小鉢を追加していく。
豆腐。
豆腐。
豆腐。
どこを見渡しても、視界のすべてが豆腐の白に染まっている。
「ここまで白い食卓、初めて見たわ」
サクが若干圧倒されながら、呆れたように呟く。
「豆腐は何にしても美味しいからね!」
たなかは誇らしげに胸を張った。
「さあ、冷めないうちに食べて!」
「いただきます!」
ゆうこはまず、目の前に並んだ出来たての豆腐へと箸を伸ばした。まるで今この瞬間に生まれたばかりのような、真っ白で瑞々しい豆腐だった。
余計なものは一切乗っていない。薬味すらない純白の豆腐を、器の端から一口分だけ優しく切り取る。
木製の箸に伝わってくる、手にしっとりと吸い付くような感触だけで質の高さが分かる。
柔らかい。
それなのに、形が崩れる気配すらない。
期待を胸に、ゆっくりと口元へ運ぶ。
ぱくっ、と一口。
「…………」
あまりの衝撃に、ゆうこの動きがぴたりと止まった。
「どう?」
たなかが期待に満ちた子犬のような顔で覗き込んでくる。
ゆうこはすぐには答えず、ただ静かに目を閉じた。
最初に感じたのは、絹糸よりも滑らかな舌触り。
噛む必要すらないほど柔らかく、体温でとろけるように舌の上でほろりと崩れていく。
その直後。
鼻腔の奥へと抜けていく、大豆本来の優しい甘みと、驚くほど濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
だが、決してしつこくはない。
最後には、湧き水のようにどこか澄んだ後味だけを残して、すっと綺麗に消えていく。
「…………うま」
ゆうこの口から、魂の抜けたような声がようやく漏れた。
そして。
カッ!!
世界が鮮やかに開けるように、両目を見開く。
「なにこれ、めちゃくちゃ美味しい!!」
「でしょ!」
たなかも我が事のように満面の笑みを浮かべる。
「サク! これ食べて!」
「もう食べてるわよ」
「早っ!」
サクも既に自分の箸で一口分を口に運んでいた。
「……美味しい」
珍しく素直な賛辞がこぼれる。
「大豆の味がすごく濃いのに、後味が驚くほど軽いわね」
「そうなの!」
たなかが嬉しそうに身を乗り出す。
自分が褒められた時よりも、自慢の豆腐を褒められた時の方が明らかに嬉しそうなのが微笑ましい。
その横で、クルスも静かに箸を伸ばし、上品に口へ運ぶ。
「確かに、これは絶品ですね」
「でしょでしょ!」
「しゅわ〜♪」
しゅわ丸も嬉しそうに小さく身体を揺らしている。
「気に入った?」
「しゅわ!」
「よかった!」
たなかは満足げに笑った。
その楽しげな笑顔を見ながら、ゆうこは我慢できずにまたもう一口。
やっぱり、何度食べても美味しい。
そしてふと、先ほど店の奥で交わした言葉の余韻を思い出す。
「ねえ、たなか」
「ん?」
「さっき言ってたけど、そんなに水で味って変わるものなの?」
「変わるよ」
今度の返事だけは、驚くほど早かった。
たなかは店内へ引き込まれている木樋の水を指差す。
「大豆も大事。作り方の技術も大事。でも、豆腐って作る工程で大量の水を使うでしょ?」
「うん」
「だから大元の水が変われば、豆腐の仕上がりもちゃんと変わるの」
そう言うと、たなかは木樋から勢いよく流れ落ちる水を、手近にあった小さな器ですくい上げた。
陽光を浴びてきらきらと光る、混じり気のない透き通った水。
迷うことなくそれを一口飲み干し、ふうと満足そうに息を吐く。
「この国の水は、本当に美味しいよ」
「山から流れてくるの?」
「うん。山のずっと奥深くから湧き出た水が、豊かな川や地中のフィルターを通って、この街まで旅をしてくるの」
「へえ……」
感心するゆうこへ、たなかは同じ器に新しい水を汲んで差し出した。
受け取り、恐る恐る一口飲んでみる。
ゴクッ。
驚くほど冷たい。
雑味が一切なく、絹のようにするりと喉の奥へ通っていく。
「美味しい……」
「でしょ?」
たなかは誇らしげに胸を張った。
「私は、この水で作った豆腐が世界で一番好きだな」
そして、出来たての豆腐を愛おしそうに見つめながら、小さく付け加える。
「豆腐はね、ごまかしが利かないんだよ。どれだけ腕のいい職人でも、水だけは絶対に隠せないからね」
「水を隠せない?」
「いい水なら、素直に美味しくなる。そうじゃなければ、そのぶんだけそのまま味に出るってこと」
ゆうこは感心したように、目の前の白い豆腐をしみじみと見つめた。
「なんか今のセリフ、すごく職人っぽい」
「なんかって何よ失礼な!」
「さっきまで『やってないよー』とかダラダラしてた人と同一人物とは思えなくてさ」
「そこ、まだ引っ張る!?」
明るい笑い声が、活気のある店内にパッと響き渡る。
そして、そこから始まる怒涛の食い倒れタイム。
数分後。
「たなか!」
「なんだい?」
「冷ややっこ追加!」
「はいよ!」
さらに数分後。
「たなか!」
「今度は何の注文!?」
「田楽追加!」
「まだ食べるの!?」
さらに止まらない。
「揚げ豆腐も!」
「食べすぎじゃない!?」
だが、一度火のついたゆうこたちの食欲の勢いは、もはや誰にも止められない。
豆腐田楽から漂う、香ばしく焼けた甘い味噌の匂い。
外側はキツネ色にこんがり、中はふわりと柔らかな絶妙の焼き豆腐。
表面を香ばしく揚げた揚げ豆腐にかぶりつけば、サクッという音の後に中から熱々の旨味がじゅわっと溢れ出す。
土鍋の湯豆腐は、透き通った湯の中でぷるぷると揺れ動き、口へ運べば先ほどとはまた違う、ほっこりと優しい大豆の甘みが広がっていく。
「……幸せ……」
ゆうこは頬を染め、完全に恍惚とした表情で呟いた。
「そもそも、ウイスキーの国に来たんじゃなかったの?」
サクが呆れたように鋭いツッコミを入れる。
「今はここ、豆腐の国」
「勝手に国を乗っ取らないでよ」
そして、しばらくの激闘の末。
「…………」
すっかり満たされたゆうこは、椅子の背もたれにぐったりともたれかかっていた。
見事に突き出したお腹が、ぽっこりと丸い。
「…………食べすぎた」
「でしょうね」
サクが即座に冷ややかな視線を送る。
そのサクも、いくらか食べたせいか若干苦しそうな顔をしていた。
傍らでクルスは、無言で苦しそうに自分の腹部を押さえている。
そんな中、しゅわ丸だけは別格だった。
「しゅわ〜♪」
相変わらずのテンションで、ぷかぷかと元気よく浮遊している。
「なんで、あんただけそんなに平気なのよ…」
「しゅわ?」
「まあ、可愛いから許すけどさ」
「判定が甘すぎるわよ、まったく」
たなかは綺麗に空っぽになった大量の皿を見渡しつつ、呆れ半分、料理人としての嬉しさ半分といった複雑な表情で腰に手を当てた。
「いやあ、ここまで綺麗に食べてもらえると、作った甲斐があったってもんだね」
「本当に、言葉が出ないくらい美味しかった……」
ゆうこは満腹の腹をポンポンと労るように擦りながら、気合を入れてなんとか立ち上がる。
「ごちそうさま、たなか」
「はい、お粗末さま!」
「また来るからね」
「もちろん大歓迎だよ!」
たなかは気持ちのいい笑顔で手を振った。
「明日も朝から仕込んでるから、いつでもおいで」
「絶対来る!」
ゆうこは満足げに力強く宣言した。
それから四人は、名残惜しそうなたなかに別れを告げて店をあとにする。
古い木の扉を開けて外へ出ると、午後の柔らかな陽射しを受けた水路の水面が、きらきらと眩しく輝いていた。
どこかから漂ってくる芳醇なウイスキーの香り。
足元でずっと心地よく響く、せせらぎの水の音。
石畳の街を行き交う人々の、活気にあふれた賑やかな声。
そんな心地よい五感の刺激に包まれながら、一歩を踏み出そうとする。
「うぅ……」
ゆうこはパンパンに張った腹を両手で抱え込みながら、まるで老人のような極めてスローな歩幅で進んでいた。
「く、苦しい……歩く振動がダイレクトに胃にくる……」
「だから最初からあんなに食べすぎだって言ったでしょうに」
サクも自身の腹を押さえつつ、ゆっくり歩きながらやれやれといった表情を浮かべる。
「だって、あそこの美味しい豆腐が悪いんだもん……」
「豆腐に責任転嫁しないでください。自業自得です」
クルスが最もなトーンで冷静にツッコミを入れる。
「しゅわ♪」
平和な空間に響く暢気な鳴き声。
その時だった。
「おい!!」
突然、静寂を切り裂くような、石畳に反響する低い男の声が飛んできた。
「ん?」
聞き覚えのない声に反応し、ゆうこたちが一斉に足を止めて振り返る。
そこには、通行人の流れを遮るようにして、仁王立ちする一人の男の姿があった。
男は、満腹すぎて今にも道端で倒れそうなゆうこたちを、鋭い眼光でじっと見つめている。
そして、緊迫する空気の中。
男は一切の前置きもせず。
自己紹介すら挟むこともなく。
突如として、力強く天に向かって親指を立ててみせた。
「風呂入ってけ!」




