第139話『たなかの豆腐屋』
街へ足を踏み入れた瞬間、上空から見下ろしていた光景とは一変して、活気ある生活の匂いが一気に鼻腔を突いた。
「おおお……!」
思わず声が漏れる。
目の前に立ち並ぶ酒屋の棚には、黄金色の琥珀液をたっぷり湛えた大小さまざまなガラス瓶が所狭しと並んでいる。
開け放たれた酒場の木製扉からは、濃厚な麦の香りとアルコールの芳醇なアロマが絶妙に混ざり合い、通りへと溢れ出していた。
石畳の通りでは、屈強な体躯の職人たちが汗を流しながら巨大な木樽をゴロゴロと転がし、そのすぐ脇を磨き上げられたように冷たい清流がさらさらと音を立てて走っている。
歴史ある木製の桶を川面に沈めて勢いよく水を汲み上げる者。
ピカピカに磨かれた蒸留器のある建物へ新鮮な仕込み水を運ぶ者。
樽の焼き加減を確かめながら真剣な眼差しで話し込む職人たちの熱気がすごい。
そして何より。
まだ太陽が真上に昇りきらない昼前だというのに、街のあちこちに設えられた酒場の軒先では、すでにグラスを傾けながら琥珀色のウイスキーを美味しそうに飲み交わす人々の姿があった。
ここでは、酒と水が特別な嗜好品としてではなく、人々の生活そのものに深く溶け込んでいる。
「すごいなぁ……」
ゆうこは感嘆の声を漏らしながら、右を見て、左を見て、また右を見る。
完全に物珍しそうな観光客の顔になっていた。
「あっ、見てサク! あのお店、大きな樽から直接サーバーで注いでる!」
「本当ね、珍しい仕組みだわ」
「こっちは色々な種類の飲み比べセットだって!」
「よくそういう看板ばかり見つけるわね、あなたも好きねえ」
「私の酒に対するアンテナを舐めないでよね!」
「何の自慢よ、それ」
呆れたようにサクが小さく苦笑する。
だが、そんな余裕な態度を見せるサク自身も、道沿いに並ぶ小粋な酒場のテラス席へとちらちらと視線を送っていた。
ゆうこはその小さな矛盾を見逃さない。
「…………」
「何よ、その探るような目は」
「サクだって、本当は今すぐウイスキーを一杯飲みたいんじゃないの」
「…………」
ほんのわずかな沈黙が流れる。
サクは少し気まずそうに目を泳がせたが、やがて諦めたようにふっと笑い、通りの一角にある小綺麗な酒場を指差した。
「……せっかくだし、まず最初の乾杯にウイスキーを飲んでみる?」
「いいね、大賛成!」
迷いのない即答だった。
「って、返事が早すぎるでしょうよ!」
自分から言い出しておきながら、あまりの食いつきの良さにサクが思わず噴き出す。
すると、少し後ろを神妙な面持ちで歩いていたクルスが、呆れたような目を二人に向けてため息をついた。
「到着してから、まだ十分も経っていませんよ……」
ゆうことサクは、ぴたりと動きを止め、顔を見合わせる。
そして、息ぴったりのタイミングで声を揃えた。
「「だから?」」
「…………」
クルスは数秒ほど絶句したあと、ぐっと天を仰ぎ、静かに目を伏せた。
「……いえ、何も言いません。好きにしてください」
完全に諦めの境地だった。
「よしっ! 意見一致!」
ゆうこは上機嫌に右手の拳をぐっと握り締める。
ならば、今すべきことは一つしかない。
「今度こそ、その辺の安酒を一気飲みするんじゃなくて、ちゃんと味わって飲んでやるんだから!」
「その意気よ、今度こそ肝臓を大切にね」
「まったく……一杯だけですからね」
「分かってるってば!」
クルスの現実的な念押しに元気よく笑いながら、ゆうこが酒場へ向かって勢いよく一歩を踏み出そうとした。
その時だった。
すん。
ゆうこの小さな鼻の頭が、ぴくりと動く。
「…………」
すんすん、と空気を嗅ぎ分けるように鼻を鳴らす。
「……ゆうこ?」
サクが怪訝そうに細い眉を寄せた。
しかしゆうこは答えず、もう一度大きく息を吸い込む。
すぅぅぅぅ……。
酒場から漂うウイスキーの強烈な芳醇さ、香ばしい麦の匂い、焼き上がった肉の香気、樽の木香。
そのすべての刺激的なアロマの中に混じって、どこか懐かしく、鼻腔を優しくくすぐる別の香りが漂ってきた。
それは、ふわりと柔らかく、鼻の奥をくすぐる大豆の優しい甘い香りだった。
ゆうこの瞳が、カッと激しく見開かれる。
「……豆腐」
「え?」
「今、絶対に豆腐の匂いがした」
サクは信じられないといった様子で周囲を見渡す。
「ちょっと、ここがどこだか分かってるの? ウイスキーの国よ?」
「そんなの関係ない!」
「いや大いに関係あるでしょ普通は」
しかし、もうゆうこの耳にはサクのツッコミは届いていなかった。
顔から観光客特有の浮かれた表情が完全に消え去り、代わりに浮かんでいるのは、獲物の足跡を捉えた猟犬のような、異様なまでに真剣な執念の眼差しだった。
すんすん。
「……こっちだ」
「嘘でしょ、匂いだけで分かるの!?」
ゆうこはためらうことなく、ウイスキーの酒場を通り過ぎて細く入り組んだ路地へと飛び込んでいく。
「ちょっと、待ってよゆうこ!」
サクが慌ててその後を追いかける。
クルスも呆れたような深い溜息を一つ吐きながら、静かに足を滑らせて続いた。
「しゅわ〜♪」
しゅわ丸だけは、この展開が面白くて仕方がないといった様子で、ぷよんぷよんと楽しそうについていく。
一本目の細い路地を右に折れる。小さな石橋をリズミカルに渡り、すぐさま二本目の路地を左へ。
さらに冷たい水の流れる水路沿いの小道を奥へ奥へと進む。
歩けば歩くほど、その香りは濃厚さを増していく。
そして――。
「……あった」
ゆうこが、ぴたりと足を止めた。
目の前に現れたのは、水路のせせらぎに寄り添うようにひっそりと佇む、飾り気のない小さな店だった。
華やかな装飾はないが、軒先には清潔感のある白い暖簾が涼しげに風に揺れ、その布の隙間からは真っ白で温かな湯気がふわりふわりと立ち上っている。
店の店頭には、清らかな湧き水をたっぷりと張った大きな木桶が置かれていた。
その冷たい水の中で、真っ白な豆腐がぷるん、と瑞々しい産毛を震わせるように揺れている。
ゆうこの瞳が、感動でキラキラと輝いた。
「本物の豆腐屋だ……!」
「本当に見つけちゃうなんてね……」
サクがやや引きつった笑みを浮かべながら、その看板のない店構えを見上げる。
ゆうこは一瞬の迷いも見せず、スッと暖簾に手を掛けた。そして勢いよく顔を店の中へと突っ込む。
「おーーい、やってるーー!?」
その威勢のいい声に呼応するように、店の奥から間髪入れず、からっとした明るい女性の声が返ってきた。
「やってないよーー!」
「やってないんかーい!」
ゆうこの盛大な絶叫が、狭い店内にパーンと響き渡る。
「いやいやいや! 暖簾出てるし! 目の前に豆腐並んでるし! めちゃくちゃいい匂い充満してるじゃん!」
「あははっ、ごめんごめん、冗談だよ! ちゃんとやってるよ!」
楽しげな笑い声とともに、店の奥から一人の女性がひょっこりと姿を現した。
彼女の両手には、今まさに引き上げられたばかりの、湯気の立つ真っ白な豆腐が乗った木の板が抱えられている。
その表面はシルクのように艶やかで、彼女が一歩歩くたびに、ぷるん、ぷるん、と弾力を持って柔らかく揺れていた。
「いらっしゃい!」
女性は悪びれる様子もなく、人懐っこい最高の笑顔を浮かべる。
「見慣れない顔だったから、つい面白くてからかってみたのさ」
「初対面の人間に仕掛ける挨拶の難易度が高すぎるでしょ!」
「でも、見事なリアクションだったよ」
「今ここで私のツッコミの採点しないでくれる!?」
そのやり取りを背後で聞きながら、サクが肩を小さく震わせて笑いをこらえている。
「……ねえゆうこ、あなたすっかり初対面の人に遊ばれてるわよ」
「出会ってまだ十秒も経ってないんだけど!?」
クルスは呆れたように小さく息を吐き出す。
「相変わらず、どんな場所でも馴染むスピードが異常に早い方ですね」
「しゅわ♪」
「しゅわ丸までなんだか懐いてるし!」
女性はそんな賑やかな一行の様子を見て、ますます面白そうに目を細めて笑った。
そして、両手にしっかりと持っていた出来たての豆腐を、誇らしげにすっとゆうこの目の前へと差し出す。
「私は、たなか。この街の片隅で、ひっそりと豆腐を作ってる職人だよ」
「たなかさん……!」
「うん、よろしくね!」
そう言って、たなかは湯気の立つ豆腐をさらに近づける。
「ちょうどね、今さっき最高に出来のいいのが仕上がったところなんだ」
ぷるん。
たなかの手のひらの上で、生まれたての豆腐が愛おしそうに小さく震えた。
角は職人の技を示すようにきっちりと立っているのに、全体の表面は絹糸のように滑らかで、水分をたっぷりと含んだ瑞々しさを放っている。
立ち昇る白い湯気の向こうから、思わず喉が鳴るような芳醇で甘い大豆の香りがふわりと鼻をかすめた。
「…………」
ゆうこは言葉を失い、完全に息を呑んだまま、一歩、また一歩と引き寄せられるように前へ歩み出る。
それに合わせて、たなかもクスリと笑いながら一歩下がる。
ゆうこがさらに一歩詰め寄る。
たなかも茶目っ気たっぷりに、さらに一歩下がる。
「……ねえ、ちょっと距離近くない?」
「その豆腐、今すぐ食べていい?」
「目が完全に座っていて怖いんだけど!」
「お願い、今すぐ食べていい!?」
「同じ質問を二回繰り返したよこの人!」
たなかはたまらず声を上げて吹き出すと、店の奥にある使い込まれた木製の卓をアゴでくいっと指し示した。
「もう、分かった分かった! せっかく遠くからウイスキーの国へ来てくれたお客さんだ、遠慮しないで中で食べてってよ」
「やったぁー!」
つい数秒前まで「やってない」と冷たくあしらわれていた人間とは思えないほどの、全身全霊の歓喜の声を上げる。
「それじゃあ、私も便乗していただこうかしら」
サクも当然のような顔をして、すたすたと席へ向かう。
「結局あなたも食べる気満々じゃない!」
「だってもう、香りで美味しそうなのが伝わってくるもの」
「俺も、ご相伴にあずかります」
クルスも静かにそれに続く。
「しゅわ♪」
「みんな食べたかったんかーい!」
たなかは楽しそうに声を上げて笑うと、出来たての眩しい豆腐を大事そうに抱えながら厨房へと戻っていく。
小さな店内は決して広くはない。
年季の入った木製の卓がいくつか並び、壁際にはひんやりとした水を張った木桶が置かれている。
奥の調理場では、大きな鉄の釜から真っ白な湯気が絶え間なくもうもうと立ち上り、その傍らには、仕込みの地下水に浸されたばかりの大豆の入った桶がいくつも行儀よく並んでいた。




