第138話『ウイスキーの国』
焼酎の国を旅立ってから、しばらく。
黄金ポコちん龍は、蒸留酒大陸の空を飛び続けていた。
ゴォォォォォッ!!
雲ひとつない秋晴れの青空を力強く切り裂きながら、ポコちん龍はさらなる大陸の奥地へ向かって翼を羽ばたかせている。
その頑丈な背にまたがりながら、ゆうこは、ぼんやりと遠ざかる後方を眺めていた。
もう芋ノ里の姿は完全に消え去っている。
あんなにも広大だった黄金色の畑も、濃厚な焼酎の香りに満ちていた懐かしい里の風景も、見送りに出てくれたほかてんやおゆの姿さえも、今や遥か彼方の霧の中だ。
白衣の右ポケットへと、おそるおそる手を差し入れる。
指先がふわりと捉えたのは、別れ際に麹精霊からもらったあの小さな《麹の欠片》だった。
ひんやりとした命の感触を指の腹で確かめるように、ゆうこはそれをそっと強く握り締める。
「……よし」
小さく、しかししっかりと唇を結んで呟き、前を向く。
別れはすでに済ませてきた。
ならば、いつまでも過去の風景を振り返っているわけにはいかない。
旅は、まだこうして続いているのだから。
「ところでさ」
ゆうこはすぐ隣に座るサクへと顔を向けた。
「次って、いったいどこに向かってるの?」
「知らないわよ」
「知らないの!?」
あまりにも堂々とした即答に、息が詰まる。
サクは長く美しい銀髪を容赦ない高空の風になびかせながら、涼しげに腕を組んで胸を張った。
「だって私、この蒸留酒大陸の地理なんて全然詳しくないもの」
「じゃあなんでそんなに自信満々な顔して座ってるのよ!」
「空を飛んでるのは私じゃないもの」
「なんて最低の理屈!」
その時だった。ポコちん龍の首元近くで風を受けていたクルスが、ゆっくりと振り返る。
「問題ありません」
「クルス!」
ようやく差し伸べられた一筋の希望の光に、ゆうこの表情がぱっと明るく輝く。
「俺にも分かりません」
「お前もかぁぁぁぁ!!」
吹き抜ける空の上へ、絶望的な絶叫が響き渡る。
「しゅわ〜♪」
そんな人間たちの慌ただしいやり取りなど気にも留めず、しゅわ丸だけはポコちん龍の頭の上でぴょんぴょんと飛び跳ね、楽しそうに朝の風を全身で浴びていた。
「もう! 目的地くらいちゃんと決めてから出発しなさいよ!」
「ゆうこだって、よく分からないまま一緒に出発したじゃない」
「ぐっ……」
それは紛れもない正論だった。
ゆうこは悔しそうに、ぷうっと頬を膨らませ、口を尖らせる。
しかし、そんな軽口を叩き合っている間にも、眼下に広がる世界は刻一刻とその姿を変え始めていた。
焼酎の国で見慣れた広大な畑の風景が、いつの間にか嘘のように少なくなっている。
代わりに大地を青々と埋め尽くし始めたのは、どこまでも深い緑の森林と、どこか牧歌的ななだらかな丘陵地帯だった。
さらにその向こうには、濃紺の山々が幾重にも折り重なるように連なっている。
そして何より、驚くべきはその水分量だった。
「……川?」
ゆうこは目を細め、眼下を凝視する。
山々の険しい間から、眩い銀色の筋が何本も力強く伸びていた。
いや、一本や二本ではない。
二本、三本、さらにその先にも。
無数の細い清らかな流れが緑の斜面を縫うようにして駆け下り、やがて轟音を立てる大きな川へと見事に合流していく。
陽光をたっぷりと反射した無数の水面が、まるで散りばめられた宝石の粒のようにきらきらと眩しく輝いていた。
「すごい……」
サクも思わず感嘆の声を漏らし、身を乗り出す。
さらに進むにつれて、景色はさらに鮮やかさを増していく。
森の木々の合間からは白い水飛沫を激しく上げる名もなき滝が落ち、頑丈な岩肌からはコンコンと豊かな湧き水が溢れ出ている。
大地のいたるところを張り巡らされたように清らかな水路が流れ、まるでこの大地そのものが絶え間なく生命の源である水を生み出しているかのようだった。
「水が、圧倒的に多いですね」
クルスが静かに分析するように呟く。
「うん、そうだね」
ゆうこも小さく頷いた。
焼酎の国でも水田や大河はたくさん見てきたが、ここは本質的に何かが違う。
どこを見渡しても水、水、水。山にも、森にも、谷の底にも、潤いが満ちている。
そして、その水の源の近くに。
「あっ、街がある!」
ゆうこは思わず前のめりになり、前方を勢いよく指差した。
険しい山々に囲まれた広大な盆地。
その中央に、圧倒的な規模を誇る美しい街が広がっていた。
重厚な石造りの建物が整然と美しく並び、その街路の間を縫うようにして無数の水路が張り巡らされている。
水路には小さなアーチを描く石橋がいくつも架けられ、底まで透き通った冷たい水が、サラサラと音を立てて絶え間なく街の中を駆け抜けていた。
さらに街の奥を覗き込むと、ひときわ目を引く巨大な建物がいくつも立ち並んでいるのが見える。
空高くそびえ立つ高いレンガ造りの煙突。頑丈な石造りの巨大倉庫。
その軒先には、気の遠くなるような数の木製樽が無造作かつ整然と積み上げられていた。
そして建物の前には、陽光を浴びて銅色に鈍く光る、独特の首長をした巨大な蒸留器の群れ。
それを見た瞬間、ゆうこの目が興奮で激しく輝いた。
「あれって……もしかして!」
――『ふぉっふぉっふぉっ』
ゆうこの眉間に、反射的かつ深々と険しい皺が刻まれる。
「……何の用よ、アルケラ」
――『随分とまた、不満げで嫌そうな声を出すではないか』
「人の大切な酒を勝手に全部飲み干した神様に対しては、これが当然の対応ですけど!」
――『いつまでそんな昔の小さなことを根に持っておるのか』
「一生涯ずっと持ち続けるわよ!」
隣でそのやり取りを聞いていたサクが、小さく肩を揺らして楽しそうに吹き出す。
しかし神アルケラはそんな追及などどこ吹く風とばかりに、どこか気楽な調子で言葉を続けた。
――『まあよい。どうやら、次の目的地へ無事に着いたようじゃな』
「次の地って……ここがそうなの?」
ゆうこは再び眼下に広がる巨大な街並みを見下ろした。
――『うむ』
アルケラはどこか誇らしげに、そして楽しげに告げる。
――『ウイスキーの国じゃ』
「ウイスキー!」
その名前を聞いた瞬間、ゆうこの顔が一気にパッと明るい色彩を取り戻す。
サクも興味深そうに細い目を細め、眼下の街をじっくりと見つめた。
「へえ……。あそこが、噂に聞いたウイスキーの国なのね」
――『この地の酒造りを根底から支えておるのは、他でもない、この豊かな水よ』
そう言われてみれば、これまでの景色がすべて腑に落ちる。
険しい山々からとめどなく流れ落ちる無数の清らかな流れ。
街の隅々まで張り巡らされた生活の水路。
そして、その清らかな水のすぐそばに寄り添うように立ち並ぶ無数の蒸留所たち。
すべてがひとつの美しい風景として見事に繋がっていた。
「なるほどね……」
ゆうこは心底感心したように小さく頷く。
「ウイスキーの国っていうより、まるで水の国みたい」
――『ふぉっふぉっふぉっ。それもまた、あながち間違いではあるまいよ』
アルケラの声が遠ざかるのと同時に、ポコちん龍はふわりと翼を窄め、そのままゆっくりと優雅に高度を下げていった。
重厚な石造りの美しい街並みが、みるみるうちに視界いっぱいに大きくなっていく。
活気ある人々の姿。
荷物を満載して行き交う馬車。
建物の軒先へ山のように積み上げられた芳醇な木の樽。
そして街のあちらこちらからは、まだ昼前だというのに、すでにグラスを片手に陽気に談笑する人々の楽しげな話し声が風に乗って聞こえてくる。
「よしっ!」
ゆうこはこれから始まる新たな冒険に向けて気合を入れ直すように、白衣の襟をきゅっと両手で力強く正した。
「行こう、ウイスキーの国へ!」
今までのゆうこは、ウイスキーを飲むことは知っていても、その酒が生まれるまでのことはほとんど何も知らなかった。
どんな土地の恵みから生まれ、どんな職人たちの手によって造られ、あの美しい琥珀色の酒へと育っていくのか。
今まで知らなかったウイスキーの本当の姿を、自分の目で見てみたい。
そんな純粋な好奇心が、今は何よりも強く胸を満たしていた。
「クルス、降りよう!」
「分かりました」
クルスが信頼を込めて黄金ポコちん龍のぶ厚い首筋へそっと手を添える。
すると、ぐるるるるる……と、喉の奥を鳴らすような低い唸り声とともに、黄金ポコちん龍がゆっくりと巨大な翼を斜めに傾けた。
ぐんっ、と身体が引っ張られるような重力とともに、高度が急速に下がっていく。
それまで遥か遠くの雲の下に見えていた街並みが、急激にそのディテールを増しながら迫ってきた。
重々しい石造りの家々、その隙間を縫うように光る水路、積み上げられた樽、そして白い水蒸気を元気よく吐き出すいくつもの蒸留所の屋根。
街のすぐ脇には、陽光を浴びてきらきらと眩しく輝く豊かな水が、途切れることなく流れていた。
「うわぁ……!」
近づけば近づくほど、そのスケールの大きさに圧倒され、ゆうこの瞳がますます眩しく輝いていく。
さっきまで空の上の安全な場所から眺めていただけの景色の中へ、今まさに自分たちの足で飛び込んでいくのだという高揚感が全身を駆け抜けた。
ゴォォォォォォォッ!!
黄金ポコちん龍が最後の減速とばかりに巨大な翼を力いっぱい大きく広げた。
巻き起こった強烈な風が足元の草原を緑の波のように大きく揺らし、風圧で舞い上がった無数の草葉が、柔らかな陽光を受けてきらきらと金色に輝きながら宙を舞う。
そして――。
ずしんっ、と地響きのような重い音が響く。
街から少し離れたなだらかな草原へ、黄金ポコちん龍の強靭な四肢がしっかりと降り立った。
「ん~~っ、ふぅ……!」
その頑丈な背中から軽やかに地面へと飛び降りたゆうこは、強張った身体をほぐすように両腕を天高くめいっぱい伸ばした。
ポコちん龍の背で凝り固まっていた背中や肩が、ぽきぽきと心地よい音を立ててほぐれていく。
「着いたぁ……!」
靴の底を通じて足の裏に直接伝わってくる、久しぶりの確かな大地の感触。
そして、鼻腔をくすぐる新しい風。
すぅぅぅ……と、ゆうこは胸がはち切れんばかりにたっぷりと空気を吸い込んだ。
肺の奥まで染み入るような、冷たく澄んだ水の匂い。湿った豊かな土の香り。
積み上げられた木樽から漂ってくる、乾いたオークの気高い木の香り。
さらに、その芳醇なアロマの奥底から微かに混じってくる、香ばしい麦芽と熟成された酒の深い香り。
「…………」
それらを全身で味わったゆうこの口元が、ふわりと緩んだ。
「ほんとに、来ちゃったんだな……この場所に」
ゆうこは街の向こうに立ち並ぶ蒸留所を見つめた。
かつて、自分の人生を一度終わらせた琥珀色の酒。
けれど不思議と、今は怖くない。
むしろ知りたかった。
この国でどんな水から生まれ、どんな人たちの手を渡り、一本の酒になっていくのか。
「……楽しみ」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
「しゅわ〜♪」
しゅわ丸も、黄金ポコちん龍の背からぽよんっと軽快に跳ねて、柔らかい草の上へと無事に着地する。
ぷるぷるとその透明な身体を大きく震わせると、生まれて初めて訪れる未知の土地がよほど気になるのか、待ちきれないといった様子で早くも街の方向へ向かってぴょんぴょんと跳ね始めた。
「ちょっと、しゅわ丸! 勝手に行かないで、待ってってば!」
「しゅわ〜♪」
「まったく、あの子は……。完全に観光する気満々ね」
サクが呆れたような、しかしどこか面倒見の良さを隠せない笑顔を浮かべながら、その背中を見つめる。
「いいじゃん、楽しそうだし! 私たちも行こう!」
ゆうこは白衣の裾をパタリと翻し、愛しい相棒の後を追うようにして、ウイスキーの国への一歩を踏み出した。




