第135話『おゆ、再沸騰』
「…………おゆ」
「はい?」
「それ」
ゆうこは目の前でぽつんと立ち尽くすおゆの足元を見据え、かすかに目を細めた。
指し示す先にあるのは、白く豊かな湯気の立つ湯飲み。
「何飲んでる?」
「…………」
ピタリ。
おゆの動きが、世界の歯車が噛み合わなくなったかのように完全に停止した。
隣でグラスを傾けていたほかてんが止まる。
豪快に肉にかじりついていたサクの手が止まる。
冷静に杯を拭いていたクルスの指先が止まる。
さらには、祭りの後片付けに追われていた近くの職人たちまでもが、まるで時を止められたかのように一斉に硬直した。
静寂。
あまりにも不自然な沈黙が、夜の広場を支配する。
「…………」
おゆが。
おそるおそる、自分の手元にある湯飲みへと視線を落とす。
そこから立ち上るのは、紛うことなき白き蒸気。
「…………」
ごくり。
張り詰めた空気を切り裂くように、ほかてんの喉が大きく鳴った。
「おゆさん……?」
冷や汗を流しながら呟くほかてんを無視して、おゆが。
ゆっくりと、まるで錆びついた機械のように首を上げる。
「誰だぁぁぁぁぁ!!」
夜空を切り裂くような絶叫。
「やっぱお湯ぅぅぅぅぅぅ!!」
ゆうこの怒号がそれに重なる。
「祭りの日にお湯出した野郎はどいつだぁぁぁぁぁ!!」
「逃げろぉぉぉぉ!!」
現実逃避を叫びながら、職人たちが蜘蛛の子を散らすように一斉に駆け出した。
「待てやコラァァァァァ!!」
殺気立ったおゆが、猛然とその後を追う。
「なんで最後までこうなるのよぉぉぉぉ!!」
頭を抱えながら、ゆうこもまた全速力で追いかけていく。
「あはははははっ!」
弾けるようなサクの笑い声が、夜風に乗って遠ざかっていく。
クルスもまた、呆れたように小さく息を吹き出した。
「きゅっ!」
足元では、ちまっとした麹精霊たちまでが面白そうにぴょんぴょんと跳ね回っている。
その夜の焼酎の国は。
祭りの名残を告げる太鼓の音と。
人々の底抜けの笑い声と。
そして、おゆの怒りに満ちた怒声とが。
いつまでも、いつまでも、賑やかに響き渡っていたのだった。
◇
それから、しばらくして。
夜の帳はさらに深く下り、あたりはしっとりとした静寂に包まれ始めていた。
麹精霊祭りの熱気も、ようやく少しずつ、だが確実に落ち着きを見せ始めている。
広場に目を向ければ、そこかしこに祭りの残骸と幸せな光景が広がっていた。
ぐっすりと酔い潰れて地面で眠りこけている職人。
肩をガッチリと組み合いながら、千鳥足で愛唱歌を歌い続ける者たち。
頭の上にぽふっと麹精霊を乗せたまま、微動だにせず幸せそうな寝息を立てている老人。
楽しかったお祭りの深い余韻が、芋ノ里のあちこちに温かい空気となって残っている。
「はぁ〜……っ」
心地よい疲労感の中、ゆうこは背筋を反らせて大きく伸びをした。
関節がこきりと鳴り、全身から緊張が抜けていく。
「飲んだぁ……」
サクもまた、焚き火の温もりを感じながら、満足そうにふうと息を吐き出した。
「バブ酒、本当に美味しかったわね」
「うん、最高だった」
ゆうこも深く頷き、頬をほんのりと赤らめる。
見た目はインパクト抜群の、それこそ巨大な蛇入りの恐ろしい酒。
なまじリアルな蛇の意匠が施されているため、最初は誰もが身構えたものだ。
なのに実際に杯を重ねて飲んでみれば、舌の上で広がる香りは驚くほどに深く、芳醇。
ベースとなっている焼酎本来の力強いキレの中に、ほんのりと薬草の爽やかな余韻が鼻腔をくすぐるように残る。
新しい特産酒の第一弾としては作り手である彼女たち自身が驚くほど、十分すぎるほどの高い完成度を誇っていた。
ただ、一つだけ。
現在の状況における重大な問題が残されている。
「…………」
無言になったゆうこが、トボトボと歩きながら広場の中心へと視線を向けた。
そこには、ぽつんと鎮座する巨大なガラス瓶。
その透明な容器の中には。
まだ、信じられないほどの量のバブ酒が波打っていた。
いや。
残っているどころの騒ぎではない。
みんなであんなに騒いで飲み明かしたというのに、かさぶた程度しか減っていないように見える。
「……これ」
ゆうこは引きつった笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「一晩じゃ、どうあがいても絶対飲み切れないね」
隣までついてきたほかてんが、首を大きく曲げて巨大瓶を見上げる。
「これ、あと何年分の量があるんだろ……」
「何年で済むかしら、これじゃ数十年コースよ」
サクが呆れたようにからからと笑う。
クルスもまた、綺麗な青い瞳でその圧倒的な質量を誇る瓶を見上げていた。
「普通にこのまま置いて保存するにしても、場所をかなり取りますね」
「そうなのよねぇ……足の踏み場もないし、邪魔だし……」
ゆうこは胸の前で腕を組み、険しい顔で唸り声を上げる。
そして。
ふと、思考の片隅に一つの名案(あるいは暴挙)が閃いた。
彼女のトレードマークである、真っ白な白衣。
その右側にある、深めのポケット。
物理法則を完全に無視した、謎の異空間。
「…………」
きらり。
ゆうこの口元に、悪だくみをする子供のような不敵な笑みが浮かぶ。
その変化を、サクは見逃さなかった。
「ちょっと、その顔。絶対にろくなこと考えてないでしょ」
「失礼ね、科学的な収納スペースの有効活用よ」
負けじと抗議しながら、ゆうこはトコトコと巨大瓶の前まで歩み寄る。
そしてあろうことか、その規格外の大きさのバブ酒を。
再び、白衣の異空間ポケットへと雑に突っ込んで収納した。
シュポンッ!!
空気を切り裂くような軽快な音とともに、広場を圧迫していた巨大なガラス瓶が、一瞬にして視界から消え去る。
「相変わらず、物理的に意味が分からないな、そのポケットは」
ほかてんが、何もない空間を指差してあきれ返る。
「私だって中身がどうなっているのか意味分かってないから大丈夫よ」
「全然大丈夫じゃないよ! 次元の歪みでも起きてるでしょ!」
周囲のツッコミを華麗にスルーし、ゆうこは誇らしげに自分の白衣の右ポケットを。
ぽん、ぽん、と軽く手で叩いてみせる。
「これで邪魔にならないし、中の鮮度も保たれるし、一石二鳥ってわけ……っ」
その言葉を最後まで紡ぎき許さなかったのは、まさにその瞬間だった。
ゴボボボボボボボボボボボボッッッ!!!!!
大地を揺るがすような、不気味で凄まじい低音がポケットの底から炸裂した。
「「「「「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!?」」」」」
あまりの突然の出来事に、その場にいた全員が跳び上がるように驚愕する。
足元の地面が、まるで地震のようにびりびりと細かく震え出した。
隅に積んであった空の酒樽がガタガタと揺れ動き、屋台の片隅に残っていた皿までがカタカタと騒がしい音を立ててぶつかり合う。
「な、なに事!?」
ほかてんがパニックを起こしながら飛び跳ねる。
「またあの巨大大蛇の襲撃!?」
「違う!!」
ゆうこは冷や汗を全身から噴き出しながら大声で否定した。
なぜなら、これほどまでの震源地は、他でもない。
今まさに自分の手で叩いたばかりの、その白衣のポケットの中から発せられていたからだ。




