第134話『おかえり』
それからしばらくして。
芋ノ里の中央広場には、大勢の人々がまるで潮の満ち引きのように集まっていた。
頑固な職人の姿がそこにある。
無邪気にはしゃぐ子どもの姿もある。
皺の刻まれた老人の顔もある。
そして何よりも眩しい、無事に戻ってきた麹精霊たちの小さな影が、幾重にも輪を作っていた。
「きゅっ!」
「きゅきゅっ!」
久しぶりに見る愛らしい小さな姿を囲み、あちこちで花が咲いたような笑い声が上がっている。
そんな賑やかな広場の中央。
ぽっかりと、まるでそこだけが世界の中心であるかのように空けられた空間に。
ゆうこが一人、静かに立っていた。
「…………」
白衣の右ポケットへ、ゆっくりと手を入れる。
その緊張感を含んだ様子を、里中の人々が息を詰まらせて見守っている。
「ほ、本当にここから出てくるのか?」
「ほかてんが言ってたぞ……」
「巨大な蛇が入ってるって……」
「いやいや、どう見ても普通のポケットだろ、そんなわけ――」
ざわざわ、と波打つような囁き声が広場を駆け巡る。
ゆうこは周囲の熱を帯びた視線を見回した。
「念のため言っておくけど」
右手をポケットへ深く突っ込んだまま、彼女は真剣な表情を浮かべる。
「めちゃくちゃ大きいから、みんな下がってね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
ざざざざざっ!!
全員が一斉に、まるで蜘蛛の子を散らすように後退した。
「素直!!」
あまりの早さにゆうこが突っ込む。
さらに、サクが引きつった顔で叫んだ。
「もっと下がった方がいいわよ!」
ざざざざざざざざっ!!
怒涛のような足音が響き渡り、人々の輪がさらに一回り大きくなる。
「信用なさすぎない!?」
「あなたじゃなくて大きさの問題よ!」
「ならいいけどさ!」
ゆうこは小さく息を吐き、気を取り直す。
頭の中で先ほどまで死闘を繰り広げ、収納したばかりの異形の存在を鮮明に思い浮かべる。
冷たい手触りの巨大なガラス瓶。
芳醇な琥珀色の酒。
そして、その液体の中で静かに浸かる、脅威の大蛇の姿。
「よし」
呟いた瞬間。
白衣の右ポケットが、ぽわっ、と神秘的な淡い光を放った。
次の瞬間。
ドォォォォォォォォン!!
腹の底を揺さぶるような爆音が轟く。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
凄まじい風圧とともに、巨大なガラス瓶が広場のど真ん中へ現れた。
地面がごう音とともに激しく揺れる。
衝撃波に足元をすくわれ、人々が次々とひっくり返る。
驚いた麹精霊たちが、ピンボールのように一斉に跳ね上がった。
「きゅぅぅぅ!?」
そして世界が急に音を失ったかのように、広場がぴたりと静まり返った。
「…………」
「…………」
「…………」
言葉を失った全員が、首を大きく反らせて巨大瓶を見上げている。
太陽の光を浴びて、琥珀色にまばゆく輝く酒。
その透き通った液体の中心には、圧倒的な存在感を放つ巨大な大蛇が横たわっている。
ぷかぁ……。
完全に息絶えたまま、琥珀色の酒の中へ静かに沈んでいた。
「…………」
一人の職人が、干からびた喉を鳴らし、恐る恐る口を開く。
「これ……」
「はい」
ゆうこが淡々と答える。
「例の大蛇?」
「はい」
「麹精霊をさらってた?」
「はい」
「…………」
職人は言葉を呑み込み、もう一度、信じられないものを見る目で巨大瓶を凝視する。
「なんで酒になってんの?」
「私も途中からよく分かってません!」
「作った本人が言うなぁぁぁぁ!!」
広場のあちこちから、一斉に鋭いツッコミの声が飛んできた。
その混乱の中、ほかてんが誇らしげに胸を張り、一歩前へ出た。
「これこそ!」
ビシッと巨大瓶を指差す。
「焼酎の国に新しく誕生したぽしゃけ!」
人々がごくりと息を呑む。
ほかてんは満面の笑みを浮かべ、大きく息を吸い込んだ。
「その名も!」
「《バブ酒》!!」
「バブ酒!?」
ざわっ!!
再び広場が大きな揺れに包まれる。
「なんだその名前!」
「聞いたことないぞ、そんな酒!」
「そりゃ今できたからね!」
ゆうこが誇らしそうに胸を張る。
耐えきれなくなった職人たちが、好奇心に駆られて巨大瓶へ我先にと集まり始めた。
「しかし……」
一人の老職人が、皺だらけの顔を近づけ、琥珀色の液体をじっと見つめる。
「見たことのない色じゃな、まるで夕暮れの空のようだ」
「香りも……なんだか、普通の焼酎とは全然違うぞ。甘くて深みがある……」
「待て、中に蛇が入ってるからじゃないのか!?」
「それを考えたら急に飲むのが怖くなってきたぞ!」
ざわめく群衆をよそに、ゆうこ自身も自分の作り出した巨大瓶を見上げた。
確かに自分の手で、この空間に生み出した。
月酔石の底知れない力を借りて。
間違いなく、極上のぽしゃけにはなっているはずだ。
だが、問題が一つだけある。
「…………」
ゆうこは冷や汗を拭いながら呟いた。
「これ……。美味しいのかな」
一瞬にして、広場の空気が凍りついたように静まり返る。
サクが目を丸くして振り返った。
「え?」
クルスもまた、冷ややかな目を向けながら問う。
「味の確認をしてないんですか?」
「だって!」
ゆうこは慌てて巨大瓶を両手で指し示す。
「作った直後、そのままポケットに入れたんだから、まだ一滴も飲んでないわよ!」
「…………」
全員が、一斉に目の前のバブ酒に視線を戻した。
怪しく光る琥珀色の液体。
その中で微動だにしない巨大な蛇。
ぷかぁ……と浮かぶ優雅なシルエット。
「…………」
誰もが足を一歩も動かさない。
「なんで急に誰も彼も静かになるの!?」
ゆうこが焦りの色を隠せずに叫ぶ。
その静寂を切り裂くように、すっ、と一人の人影が動いた。
迷いのない足取りで、一人だけ前へ出た者がいる。
「…………」
それは、おゆだった。
「おゆ?」
ほかてんが驚いたように振り返る。
おゆは周囲の視線を一切気にせず、無言のまま腰に下げていた小さな杯を手に取った。
そして、静かにバブ酒の巨大瓶へと近づいていく。
「ま、待って、おゆちゃん」
ゆうこが慌てて制止しようと手を伸ばす。
「本当に飲む気?」
「酒なんですよね?」
おゆは淡々と言い放つ。
「たぶん……」
「たぶん!?」
おゆは周囲の不安をよそに構わず、巨大瓶の蛇口から、少量のバブ酒を杯へと注いだ。
とく……とく……。
静かな空間に、心地よい液体音が響き渡り、琥珀色の液体が杯の中で揺らめく。
「…………」
固唾を呑んで全員が見守る中、おゆはそっと杯を持ち上げた。
まずは鼻を近づけ、その香りを慎重に確かめる。
そして、躊躇うことなく。
ごくっ。
見事に一口、喉へと流し込んだ。
「…………」
張り詰めた沈黙が広場を支配する。
ゆうこが心臓の音を響かせながら、恐る恐る尋ねた。
「どう……?」
「…………」
おゆの伏せられていた目が、ゆっくりと見開かれる。
「これは……」
「これは何なの!?」
おゆは答えの代わりに、もう一口、今度はしっかりと味わうように飲み干した。
ごくっ。
そして、静かにぽつりと言葉を零す。
「美味しいです」
「普通の感想すぎでしょ!!」
「何を期待していたんですか」
「だっておゆだし!」
「どういう意味ですか、それ」
その呆れたような、しかし温かいやり取りが交わされた瞬間。
広場を包んでいた緊張の糸がプツリと切れ、どっと盛大な笑い声が大きく広がった。
溜まっていた空気が一気に弾け飛び、職人たちも我先にと自分の杯を持ち始める。
「おおい、俺にも一杯くれ!」
「独り占めするな、俺も飲むぞ!」
「ちょっと待て、俺は蛇のどの辺が味に影響しているのか香りを見させろ!」
「そこを研究しなくていいから!」
次々と、魔法のようなバブ酒がそれぞれの杯へたっぷりと注がれていく。
あちこちでグラスがぶつかり合う乾杯の音が響く。
絶えない笑い声。
足元で嬉しそうに飛び跳ねる麹精霊たちの鳴き声。
祭りの太鼓が、再び力強いリズムを刻み始めた。
ドン。
ドドン。
ドン。
それは、途中で予期せぬトラブルと不安に包まれてしまった、麹精霊祭りの本当の続き。
今度は、もう誰も怯える必要はない。
もう二度と、麹精霊が足りなくなることなど心配しなくていいのだ。
芋ノ里。
麦ノ里。
米ノ里。
黒糖ノ里。
そばノ里。
胡麻ノ里。
それぞれの誇り高き故郷へと、麹精霊たちはそれぞれの笑顔とともに帰ってきた。
「きゅっ!」
ほかてんの肩の上。
一匹の小さな麹精霊が、満足げにぴょんと飛び跳ねて嬉しそうに鳴いた。
ほかてんはその愛らしい小さな頭を、大きな手で優しく、大切そうに撫でる。
「おかえり」
「きゅぅ……」
その心温まる光景を、ゆうこは少し離れた場所から、細めた目で穏やかに眺めていた。
サクがいつの間にか隣へ静かに並び、夜空を仰ぐ。
「やっと、終わったわね」
「うん……」
ゆうこは深く息を吐きながら小さく頷いた。
振り返れば、長く険しい道のりだった。
焼酎の国へ足を踏み入れ、見たこともない様々な里を巡り歩いた。
たくさんの個性豊かな麹精霊たちと出会い、その数が不自然に減っているという不穏な事実を知った。
わずかな痕跡を必死に追いかけ、行き着いた最果ての地で、強大な大蛇と命がけで戦った。
そして今こうして、誰もが心からの笑顔で精霊たちを迎え入れている。
「……本当によかった」
ゆうこが誰に聞こえることもなく、しみじみと呟いた。
するとその瞬間。
すぐ隣から、聞き慣れない乾いた音が響いた。
ごくっ。
「…………」
ゆうこが、不審に思いながらゆっくりと振り返る。
そこには、いつの間にか手に入れた杯を傾け、平然とバブ酒を味わっているおゆの姿があった。




