第129話『超圧縮弾《コンプレッション・バレット》』
「気をつけるんじゃ!」
アルケラの警告が、荒涼とした岩山に響き渡る。
「え?」
戸惑いの声を漏らす間もなく、巨大な大蛇の全身から、禍々しい黒い酒気が一気に噴き上がった。
ゴォォォォォォォ!!
それは、これまで対峙してきたどの攻撃よりも圧倒的で、比べものにならないほどの膨大な量だった。
黒煙は瞬く間に夜空を覆い尽くし、足元の岩山を呑み込み、ついにはゆうこたちの足元まで黒く染め上げていく。
「何これ……!」
サクが両手で顔を庇い、鋭い冷気のような圧迫感に身を縮こまらせた。
――『溜め込んだ羞恥を、一気に解放するつもりじゃ!』
「溜め込んだ羞恥!?」
その言葉を聞いた瞬間、ゆうこの背筋に得体の知れない嫌な予感が走る。
「それって……」
――『お主らの黒歴史じゃ』
「返却してぇぇぇぇぇ!!」
絶叫を上げるゆうこの前で、大蛇が禍々しい巨体をうねらせ、大きく口を開いた。
「シャァァァァァァァァ!!」
放たれた咆哮とともに、漆黒の酒気の中から無数の立体的な映像が浮かび上がる。
『今、世界征服で忙しい』
「やめろぉぉぉぉ!!」
クルスが赤面しながら頭を抱えて叫ぶ。
『塩が消えた!』
「それもやめてぇぇぇぇ!!」
遠くでほかてんが膝をつき、絶望の声を張り上げる。
『お湯じゃねぇかぁぁぁぁぁ!!』
「てめぇまだ見せんのかコラァァァ!!」
おゆが激昂し、殺気立った視線を空中に向けた。
岩山の至るところで、封印したはずの過去の記憶が、何度も、何度も、悪意をもって繰り返し映し出されていく。
『疲労困憊ラプソディ』
『苦しゅうない』
『塩が消えた!』
『お湯じゃねぇか!』
「黒歴史総集編やめろぉぉぉぉ!!」
ゆうこの絶叫が、冷え切った空気を切り裂いた。
「…………」
隣では、サクが全身を細かくぷるぷる震わせている。
「サク?」
「あはっ……」
「耐えて!」
「だって……」
『苦しゅうない』
「ぶはっ!」
「そこだけ耐性なさすぎでしょ!」
その堪えきれない笑い声を受けて、大蛇の身体からさらに濃い黒い酒気が溢れ出す。
――『笑うでない! 力を与えてしまうぞぃ!』
「サク! 笑っちゃ駄目!」
「む、無理よ……!」
『苦しゅうない』
「あはははははっ!!」
「クルスの黒歴史強すぎぃぃぃぃ!!」
「俺に言わないでください!!」
仲間の笑い声に呼応するように、大蛇の巨体がみるみる膨れ上がる。
全身を覆う黒い鱗が、びきびきと嫌な音を立てて波打った。
「まずい……!」
ゆうこは冷や汗を拭う余裕もなく、手のひらの圧縮玉を維持したまま思考を巡らせる。
ここで笑えば、こいつは力を増す。
かといって、恥ずかしがれば、あの化け物は歓喜の声を上げる。
なら、どうすればいい。
「…………」
硬質な沈黙の中、再びその瞬間が訪れた。
『苦しゅうない』
またしても、少年の日のクルスが映し出される。
「…………」
ゆうこは、幻影から目をそらさずにじっと見つめた。
そして、静かに口を開く。
「クルス」
「……はい」
「これさ」
「何ですか」
「もう黒歴史じゃなくない?」
「…………は?」
心外だと言わばかりに、クルスがビクリと振り返る。
ゆうこは宙に浮かぶ少年のクルスを見上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
『今、世界征服で忙しい』
「だって」
ゆうこは声を弾ませる。
「子どもの頃、一生懸命考えたんでしょ?」
「…………」
「月曜日を本気でなくしたかったんでしょ?」
「そこはもう忘れてください」
「でもさ」
ゆうこは視線を大蛇の金色の瞳へと移す。
「別に、悪いことじゃないじゃん」
図星を突かれたように、クルスがわずかに目を見開く。
「ほかてんだって」
ゆうこは遠くにいるほかてんを振り返る。
「あの失敗があったから、今のほかてんがいるんでしょ」
「……!」
「おゆは……」
『お湯じゃねぇかぁぁぁぁ!!』
「…………」
「これは普通に面白いけど」
「ぶっ殺すぞぉぉぉぉ!!」
「ごめんなさぁぁぁい!!」
一瞬の脱線のあと、ゆうこはすぐに真剣な表情へと戻り、大蛇へ向き直った。
「でもさ」
「誰かの過去を勝手に掘り返して」
「面白おかしく笑って」
「傷つけて」
「それで自分が強くなったつもり?」
挑発的な言葉に、大蛇の歪んだ笑みが僅かに引きつり、消えていく。
「だったら残念」
ゆうこは足元を踏みしめ、右手の圧縮玉を力強く構え直した。
「私たち」
不敵に、にっと笑う。
「もう全部見ちゃったからさ」
「今さらこんなの、全然恥ずかしくないわよ」
「…………」
ゆうこの言葉に背中を押されたように、クルスがゆっくりと顔を上げる。
ほかてんも、おゆも、空中に漂う自らの恥ずかしい過去の映像を真正面から見据えた。
そして、クルスがふうっと小さく息を吐き出す。
「……そうですね」
『今、世界征服で忙しい』
「…………」
クルスは、画面の中でポーズをとる少年の自分を直視し、頷いた。
「月曜日をなくすという野望。悪くない計画だったと思います」
「そこはまだ肯定するんだ!?」
ゆうこが呆れた声を上げる。
隣では、ほかてんも自分の醜態が映る映像を見つめていた。
『塩が消えた!』
「…………」
わずかに耳まで真っ赤に染めながらも、ほてった頬に手を当てる。
それでも、彼女は胸を張った。
「あのとき盛大に失敗したからこそ」
ほかてんは晴れやかな顔で笑う。
「今の私は、塩と麹を間違えなくなった!」
「成長のハードル低っ!」
さらに、おゆの番。
『お湯じゃねぇかぁぁぁぁ!!』
「…………」
おゆは拳を硬く握りしめ、震わせる。
「私はね」
一歩、泥臭く大蛇へと近づく。
「今思い出しても、やっぱムカつく」
「そこは乗り越えないの!?」
「うるせぇ!」
言い合いはしながらも、その心に怯えはもうなかった。
誰も、大蛇が映し出す過去の幻影に恐怖を感じていない。
その確信が生まれた瞬間、空間を満たしていた黒い酒気が、ふっと頼りなく揺らいだ。
「……!」
異変にいち早く気づいたゆうこが息を呑む。
大蛇の圧倒的な巨体が、わずかに縮み始めたのだ。
――『効いておる!』
アルケラが歓喜の声を上げる。
――『お主らが黒歴史を完全に受け入れれば、こやつはもう負の力を喰らうことができん!』
「シャ……?」
初めての事態に困惑したように、大蛇が自らの身体を見下ろす。
絶叫とともに、渦巻いていた黒い酒気が嘘のように霧散していく。
『苦しゅうない』
再び再生されたクルスの映像を前にして、彼は逃げ出さなかった。
「ええ」
小さく、しかしはっきりと頷く。
「ちっとも苦しゅうありません」
「そこ回収するぅぅぅぅ!?」
ツッコミの声をかき消すように、黒い酒気が一気に四散した。
「シャァァァァァ!?」
計画を狂わされた大蛇が激しく身をよじらせる。
その巨体は、見るみるうちに元のひと回り小さなサイズへと戻っていく。
「今よ!」
サクが機敏に弦を引き絞る。
隣でクルスが闘気立ち込める拳を構え、ゆうこもまた、圧縮玉をさらに、さらに一点へと極限まで絞り込んでいく。
「もっと……」
高密度な酒気によって、周囲の空気が悲鳴を上げるように軋む。
「もっと小さく、一点へ……!」
手のひらの前で、圧縮玉が豆粒ほどの小さな光点へと凝縮されていく。
その内部では、世界を穿ちかねない凄まじい圧力が激しく暴れていた。
「シャ……!」
追い詰められた大蛇が、初めて恐怖を覚えたかのように明確に後退する。
だが、その退路を塞ぐように影が落ちた。
「逃がすかよ」
待ち構えていたおゆが低く笑う。
「シャァ!?」
「おゆ!」
ゆうこが危機感を覚えて叫ぶ。
「そこから離れて!」
「おう!」
おゆが地面を蹴って鋭く横へ飛ぶ。
それと同時に、大蛇の正面が完全に開かれた。
「サク!」
「いくわよ!」
バシュンッ!!
風を切り裂き、鋭い一撃の矢が放たれる。
矢は正確無比に大蛇の硬い額を捉え、直撃した。
「シャァァァァァ!!」
衝撃で巨体の頭が大きく跳ね上がる。
「クルス!」
「任せてください!」
畳み掛けるようにクルスが踏み込む。
体重を乗せた渾身の一撃が、重く放たれた。
ドゴォォォォン!!
鈍い衝撃音とともに、大蛇の巨体が真ッ正面、まさにゆうこの待ち構える射線へと力任せに押し戻される。
「先生!」
「任せて!」
目の前に飛び込んできた大蛇の巨体を見据え、ゆうこは息を整える。
豆粒ほどまでに極限まで圧縮した光の球体を、そっと人差し指の先へ乗せた。
「人の黒歴史をネタにしてさ」
一歩、大地を蹴って踏み込む。
「散々遊んでくれたわね」
大蛇が最後の足掻きとばかりに大きく口を開く。
「シャァァァァァァァ!!」
「でもね」
ゆうこは、眼前の怪物から一歩も引かず、その真正面から圧縮玉を突き出した。
「私たちの恥ずかしい思い出の上映会は」
指先の光が、世界のすべてを焼き尽くすほどの強烈な輝きを放つ。
「これで終わりよ!!」
「超圧縮弾!」
ドォォォォォォォォォォンッ!!
圧倒的な閃光と爆風が、岩山の一帯を青白く染め上げていった。




