第126話『緊急脱出ルート、開通』
「きゅ……?」
「きゅっ!」
群れをなす小さな麹精霊たちが、ぴくぴくと可愛い鼻をひくひくと上下に動かす。
その愛らしい反応を目の当たりにして。
ほかてんの強張っていた表情が、ぱっと明るく和らいだ。
「やっぱり……私たちのこと、ちゃんと覚えてる!」
「覚えてるって、何を?」
「この焼酎の匂いだよ!」
ほかてんは大切そうに、愛用の酒瓶を自分の胸元へと優しく抱き寄せる。
「この子たちと一緒に、手塩にかけて造った思い出の焼酎!」
「麹精霊はね、自分たちが一から育て上げた焼酎の特別な香りを、一生涯忘れないの!」
「きゅっ!」
「きゅきゅっ!」
まるで、その熱烈な言葉に返事をするかのように。
麹精霊たちが小さな体をぽんぽんと弾ませて、次々と元気よく立ち上がる。
「よしっ!」
手応えを感じ取り、ほかてんは力強く酒瓶を頭上に掲げた。
「みんな! 怖がらなくていいから、こっちにおいで!」
その瞬間、麹精霊たちが安全地帯を目指して、一斉にトコトコと走り出した。
ぽてぽてぽてぽてぽてっ!!
「…………」
ゆうこは現実逃避するように、わずかに目を細めてその様子を見つめる。
ぽてぽてぽてぽてっ!!
「……遅っ!」
「だからさっき、走るの普通って言ったでしょ!」
「きゅぅぅ!?」
のんびりとした足取りを突っ込まれ、麹精霊たちが抗議するようにぷるぷると鳴く。
「ごめんごめん! 悪かったからそのまま頑張って!」
しかし冷酷な大蛇が、そののどかな逃走劇を許すはずもなかった。
「シャァァァァァァ!!」
ずずずずずずっ!!
不気味な地響きを伴い、広大な空間を囲む巨大なとぐろが凄まじい勢いでうねる。
まさに逃げ出そうとしている麹精霊たちの目の前を塞ぐように。
大蛇の太い胴体が、そびえ立つ悪夢のような巨大な壁として立ちはだかった。
「きゅっ!?」
退路を断たれた麹精霊たちが、パニックを起こして急停止する。
右を見ても、どこまでも続く大蛇の冷たい身体。
左を見ても逃げ場のない大蛇の身体。
完全に、四方八方を逃げ場のない絶望的な包囲網へと閉じ込められてしまった。
「……このクソ蛇!」
ほかてんが怒りに震えながら、歯を食いしばって睨みつける。
大蛇は、そんな人間の焦りをあざ笑うかのように。
にたり。
と、人間のようにいやらしく口元を大きく歪めて見せた。
「シャァァァァ……」
「ほんっと、性格最悪ねこいつ……!」
ゆうこは苛立ちに声を震わせながら叫ぶ。
助け出そうと近づけば、大蛇がすかさず邪魔をしてくる。
かといって遠くから攻撃しようにも、麹精霊たちが完璧な盾にされているせいで手出しができない。
どう転んでも必死にもがくこちら側の滑稽な姿を見て、楽しむつもりらしい。
「どうする?」
サクが弓に矢をつがえたまま、冷や汗を拭いながら尋ねる。
「下手に大技の攻撃なんて撃ったら、それこそ麹精霊までまとめて巻き込んじゃうわよ」
「分かってる……くそっ」
ゆうこは険しい目つきのまま、大蛇の隙のないとぐろを鋭く睨みつける。
上空からのルートは先ほど塞がれた。
隙間なんてどこにもない。
巨大な胴体は隙間なく地面へぴったりと接している。
上を越えるのは到底無理。
横からも絶対に抜け出せない。
ならば。
「…………」
ゆうこの思考回路が切り替わり、その視線がゆっくりと足元へと向いた。
固い岩盤混じりの地面。
「……ん?」
そして、直感に従うように背中へと手を伸ばす。
ひんやりとした金属の感触を頼りに引き抜いたのは。
他でもない、愛用の万能シャベルだった。
「…………」
背後の気配を察し、サクが怪訝そうに声をかける。
「ゆうこ、一体何を取り出してるの?」
「上がダメなら」
ゆうこは万能シャベルの柄をしっかりと握り込み、戦闘の構えをとる。
「下から通り道を作って逃がせばいいじゃない」
「下って……まさか」
ほかてんが信じられないものを見る目で首を傾げる。
ゆうこは躊躇うことなく。
大ぐろの外側にあたる、安全な空間の地面へ。
万能シャベルの鋭利な刃先をまっすぐに向ける。
「まさか……先生」
クルスが瞳を驚愕に見開いた。
「この硬い地面を、これから掘るんですか?」
「今から一気に掘るのよ!」
「相手は大蛇の真下ですよ!? 気づかれたらどうするんですか!」
「だからこそ、今この瞬間を不意にしてでも掘るのよ!」
ゆうこは気合を入れ直すように、シャベルの柄をぎゅっと強く握り締めた。
その瞬間だった。
「……っ、あ」
手のひらの皮膚に、シャベルの柄が吸い付くように馴染んでいく。
それは異常なほどに自然で。
まるで万能シャベルそのものの意思が、直接脳内に語りかけてくるかのような錯覚。
ここを掘れ。
今すぐここから地下へ潜れ。
この完璧な角度で土を掻き出せ。
まるで武器ではなく、相棒が手順を指示してくるような奇妙な感覚。
「…………」
ゆうこは思わず自分の頬が引きつるのを自覚した。
「また出た……」
「何がよ?」
「このシャベル、今また勝手に……」
手元の凶悪な農具を見つめる。
「めちゃくちゃ『今が掘り時じゃぁぁ!!』みたいな謎のテンションを発信してきてる」
「武器じゃなくて、道具自体が戦闘態勢で張り切ってるぅぅぅ!!」
サクがツッコミという名の悲鳴をあげる。
――『ふぉっふぉっふぉ! 若いのに感がいいのう!』
脳内に、どこか抜けたアルケラの楽しげな声が盛大に響き渡る。
――『ようやく我が最高傑作、万能シャベルの本領を発揮する時節が訪れたようじゃな!』
「こいつ戦闘になると、いっつも最終手段として穴掘ってない!?」
――『掘るための最強の道具じゃからな、当然の摂理よ』
「正論っぽい顔して返すな!!」
しかし、ツッコミを入れている暇など、今の戦場には一秒たりとも残されていない。
文句を言いつつも、今の状況においてこれ以上ないほど頼もしい存在であることは事実だった。
ゆうこは覚悟を決め、背筋を伸ばしてシャベルを大きく振りかぶる。
「いくよ、みんな!!」
ザクッ!!
「…………え?」
手応えが、あまりにも軽すぎた。
土が抵抗感を一切感じさせずに消えた。
正確には全身全霊を込めて一振りしただけでゆうこの目の前から、常識では考えられないほどの大量の土砂が一気に凄まじい勢いで抉れ飛んだ。
「相変わらずその掘削力はバカの領域でしょ!!」
あまりの光景に、サクが呆れたように絶叫する。
ためらっている暇などない。
もう一度。
ザクッ!!
ドバァァァァッ!!
爆発的な土煙とともに、大量の土が後方へと盛大に吹き飛ばされていく。
さらに。
ザクッ!!
ザクッ!!
ザクッ!!
掘る。
掘る。
掘る。
「ちょっ……嘘でしょ……!」
余りの掘削スピードに、他ならぬゆうこ自身が一番驚愕していた。
「やっぱりこのシャベル、速度がバグりすぎてて怖すぎるってぇぇぇぇ!!」
地面を抉るたびに魔力が奔流のように流れ込み、ものの数秒という驚異的な早さで。
人間一人が這ってでも余裕で通行できるほどの横穴が完成していく。
「ゆうこ!」
心配になったのか、サクが急いで掘り立ての穴を覗き込む。
「もうそんな深いところまで掘り進んだの!?」
「私にそんな神業の理由を聞かないでよ!」
ザクッ!!
「どうしてもって言うなら、この意思疎通のできないシャベルに聞いて!!」
ザクッ!!
「だんだん医療従事者っていうより、優秀すぎる屈強な土木作業員として覚醒してない!?」
ツッコミを受ける暇もなく、ゆうこは半ばヤケクソになりながら泥まみれで地下を掘り進んでいく。
巨大な大蛇のとぐろの真下を完璧に潜り抜けるように。
身体を低くして、斜め下へとひたすら突き進む。
そして暗い地中を横方向へと直線的に穿つ。
ザクッ!!
ザクッ!!
ザクッ!!
耳をつんざくような重い金属音と土を掻き分ける音を響かせながら、恐ろしい速度で一本の強固な地下道が延びていく。
「シャァ……?」
頭上で異変を感じ取ったのか、大蛇が不気味に大きな首をこねるように傾げた。
下で何が起きているのか。
目の前の獲物が消えかけていることに、まだ完全に理解が追いついていないらしい。
「よし……!」
顔中を黒い土まみれにしながら、ゆうこはさらに勢いよく腕を動かす。
「このまま最後まで気づかないでいてよ……!」
ザクッ!!
そして。
目標地点に到達した、その次の瞬間。
ぼこっ。
静まり返ったとぐろの内側の地面が、心地よい音を立てて盛り上がった。
ぽっかりと、小さな穴が開く。
そこから。ひょこっ、と。
泥だらけになったゆうこの顔が上を向いて飛び出した。
「…………」
目の前に広がっていたのは。
きょとんとした表情で固まっている、大量の麹精霊たちの足元だった。
「きゅ?」
「…………」
泥だらけの顔のまま、ゆうこは満面の笑みを浮かべる。
「……緊急脱出ルート、ただいま開通いたしました」
「きゅっ!?」
状況をすぐに飲み込んだ麹精霊たちが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら一斉に穴の周囲へ集まってくる。
「ゆうこーっ!」
とぐろの包囲網の外側から、ほかてんの切実な声が穴を通して響いてきた。
「地下道はちゃんと繋がった!?」
「バッチリ繋がったわよ!」
ゆうこは泥まみれの親指を立てて見せ、自分が掘り抜いた暗い地下道を指差す。
「みんな、怖がらないで! ここを通って、一斉に外へ逃げて!」
「きゅっ!!」
リーダー格らしい一匹目の麹精霊が、勇気を振り絞るように一番乗りで穴の中へ飛び込んだ。
ぽてぽてぽてぽてっ!
続いて、二匹目。
三匹目。
四匹目。
次から次へと、小さな体をもそっと動かしながら麹精霊たちが地下道へと吸い込まれていく。
地上では。
ほかてんが期待を込めて特製の酒瓶をしっかりと掲げながら待ち構えていた。
「こっちだよ、おいで!」
甘く芳醇な焼酎の香りが新しくできた地下道を通って、奥までふわりと心地よく流れ込んでいく。
「きゅっ!」
嗅ぎ慣れた大好きな匂いに誘われ、麹精霊たちの小さな足取りが先ほどよりも一段と速くなる。
ぽてぽてぽてぽてっ!!
「その調子、頑張って!」
ぽてぽてぽてぽてっ!!
「出口はすぐそこだよ、あとちょっと!」
ぽてぽてぽてぽてっ!!
そして。
ぽこんっ!
待ちに待った最初の一匹が。
大蛇の脅威的なとぐろの外側へと、無事に顔を出し始めたのだった。




