第125話『麹精霊を呼ぶ香り』
ゆうこは荒く息を弾ませながら、両手で万能シャベルの柄を力任せに握り直す。
その隣で、サクは引き絞った弓の弦から鋭い殺気を放ち。
クルスは静かに、しかし澱みのない足取りで戦闘態勢へと立ち上がっていた。
そしてサクの腕にしっかりと抱えられたおゆだけが、未だに不服そうな顔のまま、巨大な大蛇をまっすぐに指差している。
「降ろせぇぇぇ!!」
「駄目!」
「一発殴らせろぉぉぉ!!」
「絶対駄目!」
「てめぇ後で覚えてろよ蛇ぃぃぃ!!」
「ボス戦前の捨て台詞が完全にヤンキーなのよ!」
ゆうこの鋭いツッコミが、殺伐とした洞窟内に激しく響き渡る。
その声に呼応するかのように大蛇の禍々しく巨大な身体が。
不気味な音を立てながら、本格的な死闘のための戦闘姿勢へと変貌していく。
先ほどまでのコミカルな黒歴史上映会はここで強制終了。
そして、逃げ場のない本当の戦いが。
いま、まさに始まろうとしていた。
「シャァァァァァァァァ!!」
全身の鱗を逆立て、大蛇が怒号のような咆哮を轟かせる。
その凄まじい瞬間。
ブワッ!!
周囲の空気を歪ませるほどの黒い酒気が、爆発的な勢いで四方八方へと広がっていった。
強烈なアルコールの匂いに鼻腔を突かれ、ゆうこは思わず顔を顰める。
「っ!」
ゆうこは咄嗟に腕で顔面を覆い、飛来する暴風を防いだ。
肌を切りつけるような突風が荒れ狂い、足元に転がる無数の小石が激しく弾け飛ぶ。
先ほどまで人の黒歴史を見て腹を抱えて笑い転げていた姿は、もうどこにも存在しない。
薄暗い空間に浮かぶ金色の瞳は鋭く吊り上がり、口元からは異様な輝きを放つ巨大な牙が剥き出しになっていた。
「めちゃくちゃ怒ってる……」
「当然でしょうね」
舞い散る砂埃の中、クルスが静まり返った声色で答える。
「おゆさんにさんざん追い回されましたから」
「俺のせいみたいに言ってんじゃねぇぞ!」
「まだお湯残ってるぅぅぅ!!」
サクにガッチリと抱えられたおゆが、まるで子供のように手足をバタつかせて暴れ回る。
「ちょっと! 落ち着きなさい!」
「俺は落ち着いてる!」
「一人称まで変わってるじゃない!」
一触即発の緊迫感に包まれたその瞬間。
大蛇の太い尾が、地響きとともに凄まじい勢いで持ち上がった。
「来る!」
サクが喉の奥から絞り出すように叫ぶ。
ブォォォォンッ!!
唸るような風切り音を伴い、巨大な尾が横薙ぎの一撃として振るわれる。
「散って!」
その指示に合わせ、全員が一斉に左右へ飛び退いた。
ドゴォォォォン!!
逃げた直後、背後の頑丈な岩壁が紙細工のように粉砕される。
弾けた無数の鋭い岩片が、周囲の空間へと激しく飛び散った。
「威力おかしいでしょ!」
ゆうこは冷や汗を流しながら地面を泥臭く転がり、命からがら叫ぶ。
こんなの一撃でもまともに受ければ、防御スキルなど関係なく、肉体ごと一瞬で終わる。
死の恐怖をねじ伏せるように、ゆうこは万能シャベルの金属質な柄を強く握り直し、血走った視線をそのまま大蛇へと向けた。
「だったらこっちも!」
開いた掌へと一気に意識を集中させる。
周囲の空気が。
ぎゅうううううっ!!
と音を立てるような錯覚を伴い、一点へと猛烈な勢いで収束していく。
「圧縮玉!」
ゆうこの手のひらに、高密度な魔力を帯びた圧縮玉が凄まじい威圧感とともに形成された。
「いっけぇぇぇ!!」
渾身の力で放つ。
ドンッ!!
空気を切り裂きながら、圧縮玉が大蛇の頭部めがけて一直線に急襲していく。
しかし。
「シャァッ!!」
ぐるんっ!
常人には到底真似できない速さで、大蛇が重い身体を急激に捻った。
狙いを定めたはずの圧縮玉がその巨大な胴体の横をむなしく通り抜けていく。
そして危険な軌道のその先には。
「きゅ?」
戦況を理解できていない小さな麹精霊たちがぽつんと佇んでいた。
「…………あ」
血の気が引く音すら聞こえそうなほど、ゆうこの顔面が急激に青ざめていく。
「まずい!」
制御を失った圧縮玉が、無防備な麹精霊たちの群れへ容赦なく迫る。
「曲がれぇぇぇぇぇ!!」
「物理法則を無視しないでよ、無茶言わないで!」
冷や汗を流しながらサクが絶叫する。
ゆうこは思考をフル回転させ、咄嗟に右手の拳を固く握り締めた。
「解除!!」
ぶしゅぅぅぅっ!!
衝突のコンマ数秒前、圧縮玉は空気中で激しく霧散し、白い酒気の霧へと変わった。
「…………はぁ、はぁ」
ゆうこは額に滲んだ冷たい汗を手の甲で乱暴に拭い去る。
「危な……死ぬかと思った……」
「きゅぅ……」
爆風の余韻に怯えながら、麹精霊たちが小さな体をブルブルと震わせている。
「ごめんねぇぇぇ!! わざとじゃないのよぉぉ!」
だが、その一連のドタバタした様子を、冷酷な大蛇の瞳は、一瞬たりとも見逃さずに捉えていた。
冷徹な光を放つ金色の瞳がいやらしく細められる。
「…………」
異変に気付いたゆうこの背筋に、冷たいものが走った。
「まさか……!」
大蛇がねっとりと這うような動作で、ゆっくりと身体を動かし始める。
ずずずずず……。
地響きとともに、広大な空間に巨大なとぐろが形成されていく。
その中心で逃げ遅れた麹精霊たちを、まるで生きた盾にするかのように完璧に囲い込んだ。
「こいつ……!」
状況を把握したほかてんが、怒りに満ちた声を張り上げる。
「麹精霊を人質ならぬ、精霊質にしてる気だ!」
「最低すぎるでしょ!!」
ゆうこは怒りで顔を歪めながら叫ぶ。
包囲網の真ん中で、大蛇は。
にたり、と。
人のような嫌らしい笑みを浮かべた。
「やっぱ性格悪ぅぅぅぅ!!」
もしここで強力な範囲攻撃を放てば巻き添えで麹精霊たちが消し飛んでしまう。
だからこそ今は絶対に撃てない。
「シャァァァァァ……」
人質を取った優位性を噛り締めるように、大蛇は愉快そうに喉を低く鳴らしている。
「調子に乗りやがって……あの蛇、今に見てろよ……!」
おゆがサクの拘束された腕の中で、悔しそうに拳を硬く打ち鳴らした。
「頼むから俺を降ろせ」
「駄目」
「なんでだよ!」
「あなたを放したら、絶対そのまま単身で殴りに行くでしょ!」
「当たり前だろ、あんなの許せるか!」
「だからこそ絶対に降ろさない!」
一歩も引かない口論を繰り広げながら、ゆうこは鋭く大蛇の目を睨み据える。
どうするべきか。
このままでは強力な圧縮玉は撃てない。
サクの放つ精密な矢も。
クルスの接近戦も、人質が邪魔をして同じ結果になる。
まず最初にすべきこと。
それは、麹精霊たちをあの危険な大蛇のとぐろから安全に引き離すことだった。
「…………」
ゆうこは緊迫した空気の中、視線をぐるりと周囲に巡らせる。
冷たくそびえ立つ岩肌。
鬱蒼と茂る不気味な森。
不敵に鎌首をもたげる大蛇。
そして幾重にも重なったとぐろの中央で、恐怖に震えながら固まっている大量の麹精霊たち。
その時。
「きゅっ」
怯える一匹の麹精霊が、ピクンと小さな耳を動かしてこちらを見た。
「…………」
ゆうこの視線と、つぶらな瞳が真っ直ぐに交差する。
ふにふにと柔らかそうな小さな身体。
ちょこちょこと動く短い足。
そして、その周囲を塞ぐ冷酷な大蛇の分厚いとぐろ。
「……待ってよ」
切羽詰まったゆうコの頭脳に、無謀とも言える一つの奇抜な考えが電撃的にひらめく。
「ほかてん」
「なに、急に真面目な顔して」
「麹精霊ってさ」
「うん」
「……走るの、どれくらい速いの?」
「…………」
質問の意図を測りかね、ほかてんは怪訝そうに首を小さく傾げた。
「うーん、普通かな」
「普通かぁぁぁぁ!!」
「何を勝手に期待して絶望してるの!?」
起死回生の一手となるはずだった作戦は、開始からわずか一秒という速さで完全に崩壊した。
「あはっ……!」
極限の状況にもかかわらず、サクが思わず吹き出してしまう。
「笑ってる場合じゃないでしょ!こっちは真剣に頭使って考えてるの!」
「ご、ごめん、あまりにも無謀すぎて……っ!」
緊迫した空気が緩みかけたその時。
それまで沈黙していたクルスが、静かに一歩前へ出て口を開いた。
「先生」
「なによ、何かいい案ある?」
「走って逃げる必要は、そもそもないのでは?」
「えっ……?」
クルスは表情を変えず、巨大な大蛇のねじれた身体をじっと見据える。
「大蛇の内側という狭い空間から、走って麹精霊を逃がすのが極めて難しいのであれば」
彼は一度言葉を区切り、その視線をゆっくりと頭上の空へと向けた。
「外から直接連れ出せばいいのでは?」
「…………!」
その言葉ハッと気付かされ、ゆうこもつられて同じように空仰ぐ。
そこには雲間を縫うようにして、悠々と巨大な黄金色の影が旋回していた。
「ポコちん龍!!」
ゆうこの疲弊した顔に、希望の光がパッと明るく輝きだす。
「そうだ、その手があった!」
空からアプローチできるなら、地上を塞ぐ面倒なとぐろなど一飛びで越えられる。
「でも、どうやってあの隙間から麹精霊たちを上に乗せるのよ?」
現実的な問題として、ほかてんが首を傾げながら尋ねる。
「…………」
再び、全員の思考がピタリと停止する。
打つ手なしの沈黙が流れる中ゆうこは、ゆっくりと視線を落とした。
「…………」
次に、空を優雅に飛ぶポコちん龍を見上げる。
そして、再びとぐろのなかにいる麹精霊たちを見る。
「…………」
その一連の危険な視線の動きを察知し、サクの背中に嫌な予感の鳥肌が立った。
「ゆうこ」
「なになに?」
「今、この瞬間に何考えてる?」
「…………」
問いかけに答えず、ゆうこは決意を込めた足取りで万能シャベルを力強く構え直した。
「麹精霊をね」
「うん」
「このシャベルでね」
「うん」
「上空のポコちん龍まで、こう、ホームラン級に打ち上げる」
「雑ぅぅぅぅぅぅ!! 発想が狂ってるわよ!!」
サクの凄まじいツッコミが洞窟内に再び炸裂する。
「きゅぅぅぅぅっ!? きゅっ!?」
当事者である麹精霊たちまで、命の危険を感じ取ったのか、あきらかに拒絶するような嫌そうな叫び声を上げた。
「大丈夫だってば!」
焦る仲間を無視して、ゆうこは強引に声を張り上げる。
「私、これでも一応医療従事者だから! 怪我させない技術はある!」
「その胡散臭い肩書きでどんな暴挙も許されると思わないで!」
「シャァァァァァァ……」
あまりのバカバカしさに、目の前の大蛇まで呆れたようにわずかに動きを止めていた。
「お前はそこで感心して笑うな!!」
しかし、仲間たちが言い争いを続けているまさにその瞬間だった。
ほかてんが、何か重大な真実に気付いたようにハッと息を呑む。
「待って!」
「どうしたの急に、私の方針に異議でも?」
「そうじゃなくて……飛ばさなくても、別の方法がある」
ほかてんは、自分をじっと見つめてくる怯えた麹精霊たちの群れを見つめ返す。
そして、自分の腰のあたりにぶら下がっていた。
小さな陶器の酒瓶へとそっと手を伸ばした。
「この子たちを救うには……」
きゅぽん、と乾いた心地よい音が響く。
丁寧にコルクの栓が抜かれた。
ふわり。
甘く芳醇な、熟成された焼酎の上質な香りが、周囲の異様な殺気の中に優しく漂い出す。
その芳しい香りを嗅ぎつけた瞬間。
「きゅっ?」
とぐろの中に囚われていた麹精霊たちが、一斉にピクリと反応を示した。
「……これなら、あの子たちを呼び寄せられるかもしれない」
「呼ぶって、どうやって?」
ほかてんは確信に満ちた表情でしっかりと頷いてみせる。
「麹精霊はね」
片手で大切そうに酒瓶の首を握り締めながら。
「自分たちが愛情を込めて育て上げた極上の焼酎の香りを、本能レベルで絶対に忘れないから」
その言葉を聞いた瞬間、ゆうこの大きな目が期待の色を帯びて驚愕に見開かれた。
そして巨大なとぐろの中央。
圧倒的な魔物の威圧感に縛られていた麹精霊たちが、意思を持ったように、一匹。
また一匹と。
ほかてんの掲げる酒瓶のほうへ、トコトコと愛らしい顔を向け始めたのだった。




