第124話『羞恥心、怒りに変換』
「あはっ……!」
あまりのシュールすぎる光景に、サクのほっそりとした肩が小刻みに震え始める。
「ちょっと待って、無理……」
こらえきれずに、両手で自分の口元をギュッと押さえた。
「さっきまで、あんなに不気味で怖かったのに……何あれ……」
前方を走る大蛇が、木の根に引っかかりそうになりながら必死のパッチで逃げ続ける。
その逃げる大蛇の尻尾すれすれをかすめながら、
「止まれやぁぁぁぁぁ!!」
おゆが怒号とともに容赦なく詰め寄る。
「あはははははははっ!! もう無理お腹痛い!!」
サクが、ついに耐え切れなくなってその場で腹を抱えて爆笑し始めた。
「完全に立場が逆転してるじゃない! 蛇が、蛇が襲われてる!」
「今笑ってる場合じゃないからね!? 私たちも巻き込まれるから早く走って!」
ゆうこたちも、慌てふためきながらその後を必死に追いかける。
その騒乱の只中だった。
逃げ場を失ったと判断したのか、大蛇が突如として急停止を見せる。
ぐるんっ!!
常軌を逸した柔軟性で、その巨大な頭部を凄まじい勢いで真後ろへと振り返らせた。
ギラリと妖しく光る金色の瞳が、猛然と迫ってくるおゆの姿を真正面から捉える。
キィィィィィン!!
再び、脳髄を直接揺さぶるような高調波が辺りにこだました。
「あっ……!」
ゆうこが、思わず足を止めて声を漏らす。
まただ。
人間の最も隠したい黒歴史を力づくで引きずり出し、精神を崩壊させるあの眩い光。
冷酷な金色の輝きが、再びおゆの全身をすっぽりと包み込んだ。
「…………」
しかし、おゆの足は、一瞬たりとも止まらない。
ずん。
ずん。
精神攻撃など道端の石ころでも踏みつけるかのように、淡々と、しかし確かな殺気を纏って大蛇へと歩を進めていく。
「シャ……?」
自らの最大の武器が全く通じていないという現実を突きつけられ、大蛇の金色の瞳が激しく動揺に揺らめいた。
キィィィィィン!!
さらに出力倍増させた強烈な光が放たれ、おゆの脳裏へと容赦なく過去の赤裸々な記憶が濁流のように流れ込んでくる。
幼い頃、友達の前で盛大に石につまづいて派手に転んだ記憶。
「だから何だ、そんなもん誰だってあるだろ」
夕食の時、気合を入れて作った料理を盛大に黒焦げにしてしまった記憶。
「焦げたからって私の戦闘力が下がるわけじゃねぇよ」
静まり返った大勢の人前で、間の悪いことに盛大なくしゃみをして注目を集めた記憶。
「生理現象に文句つける奴は全員ぶっ飛ばすぞ」
遠くで自分の名前を呼ばれたと勘違いして威勢よく返事をしたら、全く別の他人に話しかけていたと気づいた時の絶望的な記憶。
「…………ぐっ」
その瞬間、おゆの足取りがほんのコンマ数秒だけピタリと止まった。
すかさず、大蛇の瞳に希望の光が戻るように激しく輝きを増す。
「……ちょっと、これは今思い出すとさすがに恥ずかしいな……」
「効いた!?」
ゆうこが、息を呑んで固唾を飲んだ。
しかし。
その直後の瞬間。
おゆの引き締まったこめかみに、怒りによって青筋がバキバキと盛大に浮き上がった。
「つーかよぉ……!」
ガキッと、硬い音がするほど拳を固く握り締める。
「なんで赤の他人のトカゲ野郎に、わざわざこんな過去の恥ずかしい記憶まで見せられなきゃなんねぇんだよバカヤロウ!!」
「羞恥心をすべて激昂へと無理やり変換したぁぁぁぁぁ!!」
あまりの理不尽な精神構造の強さに、大蛇の面妖な顔が恐怖でひきつる。
「シャァ……ッ!?」
――『こりゃ面白いわい』
戦闘の喧騒を離れた安全な場所から、アルケラの老練な声が余裕たっぷりに響く。
――『どれほど深い恥辱を感じさせられようとも、それをすべて怒りのエネルギーへ即座に変換しよる』
「無敵じゃん、あの人!」
――『いや』
アルケラの声が、ほんのわずかに厳粛な色を帯びて真剣味を帯びる。
――『もっと面白い現象が、今まさに奴の身に起きておるぞぃ』
「え?」
言われて、ゆうこは再び目を凝らして大蛇の巨体を注視した。
そこで、はっきりと気付く。
まとわりつくような、嫌な臭いを放つ黒い酒気。
先ほどまで大蛇の醜悪な巨体を分厚く覆っていた、あの濃密でどす黒い怨念の酒気が――明らかに、目に見えて薄くなっている。
「……力の波動が」
少し離れた場所から様子を見ていたサクも、異変に気づいて息を呑んだ。
「弱くなってる……?」
――『うむ』
アルケラが感心したように頷く気配が伝わってくる。
――『こやつの力の源は、つまるところ人間が抱く羞恥と苦しみの感情の澱。じゃが、あのおゆとやらに一切それが通用せんとなれば、主導権は完全に逆転する』
エネルギーの供給源を断たれた形となり、大蛇は生まれて初めてとも言うべき、明確で強烈な焦燥感をその巨体に宿した。
「シャァァァァァ!!」
もはや理性的な思考すら投げ出し、巨大な尾が地面を抉りながら凄まじい勢いで振り上げられる。
「おゆ!」
たまらず、ゆうこが全神経を尖らせて絶叫した。
ブォンッ!!
周囲の空気を真っ二つに引き裂きながら、電光石火の速度で巨大な尾がおゆの頭上へと肉薄する。
「危ないッ!」
ほかてんが、自分のことのように目を覆って悲鳴を上げた。
だが――。
おゆは、怯むどころか、まっすぐに頭上へと迫り来る巨岩の如き尾を見据えた。
「…………」
ギュッと、さらに拳に力を込める。
「上等だコラァァァァァ!!」
「素手でその巨体を受け止める気ぃぃぃぃ!?」
ゆうこの常軌を逸した絶叫と同時に、
ドォォォォォォォォンッ!!
荒野の底を割るような、すべてを吹き飛ばす凄まじい衝撃波が、黒い岩山全体を盛大に揺れ動かした。
もうもうと、周囲一帯に視界を遮るほどの濃い土煙が激しく舞い上がる。
「おゆ……っ!」
ゆうこが、砂埃の向こう側を捉えようと必死に目を凝らす。
やがて、風が吹き抜け、ゆっくりと煙が晴れていく。
「…………え?」
そこに立っていたおゆは、かすり傷一つ負うことなく、ピンピンした様子で無事だった。
その目の前――。
おゆの数センチ手前の地面へと、大蛇の渾身の一撃である巨大な尾が、逆に激しく叩きつけられてひしゃげている。
実は、その直前のコンマ数秒。
サクが、おゆの身体を抱え込むようにして咄嗟に飛び退いていたのだった。
「ちょっと、危ないわよ本当に!」
「離せコラァ! まだあいつから謝罪を引き出してねぇんだよ!」
「今すぐ逃げるのが最優先でしょ、蛇と何を話す気よ!」
「あいつ、さっきから私に謝ってねぇだろうが!」
「そこで謝罪要求してたの!?」
命のやり取りをしている最中だというのに、あまりにマイペースすぎる言い争いに、ゆうこは思わず両手で頭を抱えた。
けれど、その直後。
ピリピリと肌を刺すような、先ほどまでとは質の違う、より重く冷たい空気が周囲を支配した。
「シャァァァァァァァァ!!」
大蛇が、これまでとは決定的に異なる、底知れない狂気と絶望に満ちた咆哮を天に向かって突き上げる。
もはや、そこにあるのは余裕の笑みではない。
楽しんでなどいない。
その冷徹な金色の瞳には、人間に対する殺意と、己のプライドを完膚なきまでに踏みにじられた明確な怒りだけが宿っていた。
シューッと不気味な音を立てて、先ほどまで薄れていた黒い酒気が、再びその巨大な身体の周囲へと嫌な気配を伴って集まり始める。
――『気をつけるんじゃ』
アルケラの声が、先ほどまでの冗談めいた響きを消し去り、重く冷たく警告するように響き渡る。
――『どうやら、化け物の遊びはこれで終わりらしいぞぃ』




