第123話『逃げるな、大蛇』
「…………」
ゆうこが、鋭く冷ややかな瞳を大蛇へと据える。
大蛇もまた、巨体をわずかにうねらせながら、ねっとりとした金色の視線をゆうこへと返した。
緊迫した沈黙が、張り詰めた空気の中を支配する。
「…………」
不敵に、にやっ、と。
ゆうこの口元が歪み、勝ち誇ったような笑みが浮かび上がる。
「見つけた」
その唐突な宣言に、すぐ傍らで身を縮こまらせていたサクが、怪訝そうにほっそりとした首をコクリと傾げた。
「何を?」
しかし、ゆうこはそれに答えず、ただ自信に満ちた笑みを崩さないまま、背負っていた荷物からゴソゴソと耐熱性の水筒を取り出した。
「こいつの天敵」
今度は、戦闘の余波に怯えていたおゆが、黒髪を揺らして首を傾げる。
「?」
ゆうこは意気揚々と、まるで宝物でも掲げるかのようにその水筒を高々と突き出した。
「おゆ」
「はい?」
「喉、渇いてない?」
「少し、なら」
「ちょうどよかった」
ゆうこは、これ以上ないほどの満面の笑み――裏に何か途方もない悪巧みを隠し持った笑顔を全開にさせながら、勢いよく水筒を差し出した。
「お水だよ」
その瞬間、目の前で巨大な威厳を放っているはずの大蛇は、この時まだ知る由もなかった。
自らが掘り起こしてしまった人間たちの恥ずべき記憶のせいで、これから自分史上最大にして最悪のとんでもない災厄を、その身に呼び覚まそうとしていることを。
「ありがとうございます」
おゆは、差し出された厚意に対して何の疑いも抱くことなく、素直にその水筒を受け取った。
ゆうこは満面の笑み。
傍らで成り行きを見守るサクも、どこか面白がるような笑顔。
そして、なぜかほかてんまで便乗したような笑みを浮かべている。
その中で、鋭敏な直感を持つクルスだけが、ただ一人、背筋を凍らせて何か不穏な気配を察知していた。
「……先生」
「なに?」
「それ、本当に水ですか?」
「…………」
ゆうこは、わざとらしく視線を泳がせ、一切答えようとしない。
その不自然な沈黙に、クルスの顔面が引きつっていく。
「先生?」
問い詰める間もなく、おゆはすでに水筒の蓋に手をかけ、それをクルリと回して開け放っていた。
そして。
ごくっ、と喉を鳴らし、何の警戒もなくそれを飲み干す。
「…………」
ぴたり、と。
周囲の時間が、嘘のように凍りついた。
吹き抜けていた荒野の風がぴたりと止まり、遠くで響いていた名もなき鳥のさえずりさえもがかき消える。
足元で震えていた小さな麹精霊たちまでが、危険を本能で察知したように動きを止めた。
「………?」
どこか不思議そうに、丸い目をパチクリさせながらおゆの背中を見つめる。
次の瞬間、開け放たれた水筒の口から、
ほわぁぁ……、と。
熱を帯びた白い湯気が、もわもわと立ち上った。
「…………」
サクの顔から、先ほどまでの余裕のある笑顔が綺麗に消え去る。
ほかてんが危険を察知して思わず一歩後じさり、クルスに至っては恐怖からさらに二歩、ずるずると下がった。
そして、おゆがカクン、とギクシャクした動作で、ゆっくりと顔を上げた。
「…………おい」
「来たぁぁぁぁぁ!!」
たまらず、ゆうこが盛大に叫び声を上げる。
おゆの目が、恐怖でも驚きでもなく、完全に殺意の据わった濁った色に染まっていた。
「これ」
おゆが、震えるほどの怒気を纏った手で水筒を持ち上げる。
「水じゃねぇだろ、これ……ッ!!」
「お、お湯です! 沸きたてのお湯です!」
問答無用とばかりに詰め寄るおゆに対し、ゆうこは一歩も引かずに即座に白状した。
「てめぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「ごめんなさぁぁぁぁぁい!!」
一触即発の気配を察知した瞬間、ゆうこは全身体細胞をフル稼働させて全力でその場から逃走を開始する。
「何しやがんだコラァァァァ!!」
「作戦なの! これ、大蛇を倒すための重大な作戦だから!」
「人にお湯飲ませる作戦がこの世のどこにあんだよぉぉぉ!!」
「ここにぃぃぃぃあるでしょ!!」
殺伐とした岩山の荒野を舞台にして、命がけの鬼ごっこを繰り広げるゆうことおゆの姿が、殺気立った疾風のように駆け抜けていく。
「…………」
そんな人間の痴話喧嘩を目の当たりにして、大蛇は完全にぽかんと間抜けな口を開けたまま、二人を眺めていた。
「シャ……?」
シリアスな怪異としての威厳はどこへやら、完全にその場のノリと展開に置いていかれている。
その時だった。
さんざん追いかけ回していたおゆが、ピタリと急ブレーキを踏むように足を止めた。
「…………」
ゆっくりと、首だけが不気味な角度でギギギと音を立てて回る。
その冷徹な視線の先には、ぽけーっと口を開けたままの大蛇がいた。
「シャ……」
おゆの美しく引き締まった眉間に、深い、あまりにも深い怒りの皺が刻まれていく。
「そういや……」
おゆは、目の前のゆうこを追いかけることなどすっかり忘れ去り、意識の焦点を完全に目の前の巨獣へと合わせた。
「元はと言えば」
一歩。
殺意の重みを伴った足音が、地面を踏みしめて大蛇へと、静かに近づいていく。
「てめぇがくだらねぇ過去の記憶なんぞ見せやがったせいで……!」
さらに一歩。
詰め寄る距離が、そのままプレッシャーとなって大蛇の巨体を圧迫する。
「普段なら忘れていたような、昔のムカつく黒歴史までご丁寧に思い出さされたんだよなぁあ!?」
「シャ……!?」
大蛇が、恐怖からか、わずかにその巨大な頭部を後ろへと引いた。
その信じられない光景に、逃げていたはずのゆうこが逆に目を見開いて驚愕の声を漏らす。
「嘘……あいつ、初めて引いたよ!?」
「おゆさん!」
ほかてんが、地面に突っ伏したまま必死に叫ぶ。
「そいつですよ! さっきから私たちの可愛い麹精霊を全部いじめて捕まえてたのは!」
「…………あ?」
おゆが、血走った目をさらに据えさせて大蛇を威圧する。
そして、視線をその傍らで怯えながら身を寄せ合っている小さな麹精霊たちへと向けた。
「きゅぅ……」
か弱い鳴き声をあげる精霊たちの姿を確認し、おゆの怒りは沸点を優に突破する。
再び、冷酷な眼光を大蛇へと向けた。
「てめぇか?」
地を這うような、低く掠れた声音。
「シャァ……」
「この子らを泣かせたのは、どこのどいつだ」
「…………」
圧倒的な殺気に気圧されたのか、大蛇は返す言葉もなく、ただ喉を鳴らして黙りこくる。
「答えろや、このトカゲ崩れが」
「シャァ……ッ!」
追い詰められた大蛇が、たまらずゆっくりと後退を開始する。
ずずずず……と、巨体が荒野の砂利を盛大に削る音が響いた。
「逃げた!?」
ゆうこが、信じられないものを見るような目で叫び声をあげる。
これまで――。
人間の心の隙間に入り込み、誰にも知られたくない恥ずかしい記憶を容赦なく暴き立て、その苦悶の表情を見てはこれ以上ないほど楽しそうに嗤っていたあの不気味な怪物が。
今、人生で初めての「恐怖」を覚え、必死にその場から逃げ出そうとしていた。
「待てやコラァァァァァ!!」
ドンッ!!
おゆが、地面の岩盤ごとえぐるような猛烈な勢いで蹴り飛ばした。
「追っかけたぁぁぁぁぁ!!」
形勢逆転を確信したゆうこの実況が響き渡る中、大蛇は背を向けて一目散に生い茂る森の方角へと巨大な身体を激しくくねらせた。
ずずずずずずずずっ!!
巨体からはおよそ信じられないほどの猛スピードで、必死の形相で逃走していく。
しかし、その逃げる巨体の後ろを、怒髪天を衝く勢いのおゆがすさまじい速度で全力疾走して猛追していた。
「逃げんじゃねぇぇぇぇぇ生き腐れが!!」
「シャァァァァァ!?(なんで人間が追ってくるんだよ!!)」
「麹返せやぁぁぁぁぁ!!」
「シャァァァァァァァ!!(化け物め!!)」
「待って、蛇の方がガチで悲鳴上げてるんだけど!?」
ゆうこの的確すぎるツッコミが、荒野の空気を切り裂いて遠くまで響き渡る。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫うようにして、巨大な蛇と、それにブチ切れた一人の人間の女性が死に物狂いで駆け抜けていく。
いや、正確に状況を表現するならば――。
巨大な百鬼夜行の主たる大蛇が、ただの怒れる人間一匹から命からがら逃げ惑っている、という絵面だった。




