第122話『二杯ともお湯』
「え?」
おゆが小首を傾げる。
その隣で、ゆうこの頬がひきつるように硬直していた。
「まさか……」
目の前に鎮座する大蛇の黄金色の瞳が、妖しく、不気味な光を帯びて明滅し始める。
キィィィィィン……。
金属を引っ掻くような高周波の耳鳴りが、頭蓋骨の内部を直接揺さぶる。
「おゆまでぇぇぇぇぇ!?」
ゆうこの絶叫が、暗い洞窟の底を切り裂いた。
その叫びと同時だった。
純金色のまばゆい光が、おゆの全身を包み込み、引き剥がすように呑み込んでいく。
「…………」
おゆの身体がピタリと硬直した。糸の切れた操り人形のように、微動だにしない。
「おゆ!」
ほかてんが慌ててその細い肩へ手を伸ばそうと駆け寄る。
しかし、その刹那。
世界の色が、一瞬にして純白の虚無へと塗り潰された。
◇
次に視界が開けた場所は、薄暗くも活気に満ちた小さな酒蔵だった。
鼻腔をくすぐるのは、立ち込める蒸し米の甘い香り発酵特有の芳醇な匂い。
「……ここは?」
ゆうこが戸惑いながら辺りを見回す。
今まで歩んできた荒涼とした現実とは似ても似つかない、人の生活の匂いが色濃い空間。
壁際には大人が何人も入れそうなほど巨大な陶器の甕が並び、棚には無数の酒瓶が整然と置かれている。
中央の土間では、法被姿の職人たちが汗を拭いながら忙しそうに樽を転がし、駆け回っていた。
そして、その喧騒の中心、奥まった板の間に一人の少女が佇んでいる。
「……おゆ?」
まだあどけなさが残る、十代前半ほどの幼い姿。
けれど、その端正な顔立ちに浮かぶ柔らかな表情も、周囲の喧騒に呑まれないどこか達観した落ち着いた雰囲気も、今現在を生きるおゆそのものだった。
少女のおゆは、両手でしっかりと支えた小さな木製の盆の上で、湯気の立つ陶器を転がさないよう慎重に運んでいる。
『お疲れさまです』
『お水、どうぞ』
澄んだ声が、職人たちの荒い息遣いの合間に溶けていく。
「昔から、変わらないんだね」
ほかてんがふっと目を細め、どこか懐かしむように微笑んだ。
「すごく、優しい」
「…………」
しかし、その光景を霊体のような視座から見下ろしている現在のおゆは、一言も発しない。
ただ、凍りついたような冷徹な瞳で、過去の自分をじっと見つめ続けている。
その時だった。
『おゆーっ!』
酒蔵の引き戸が激しく開き、一人の少年がドタドタと足音を立てて走り込んできた。
「誰?」
ゆうこが目を丸くして尋ねる。
ほかてんは目を細め、その少年の顔をじろりと観察した。
「……あ」
「知ってるの?」
「タケルだ。おゆさんの、昔の幼馴染」
少年タケルは、息を切らせながらも、両手に二つの湯飲みをしっかりと握りしめていた。
よく見れば、その湯飲みの様子がおかしい。
片方からは、もうもうと白い湯気が立ち上っている。
もう片方からは、何の気配も立ち上っておらず、至って平穏だった。
「…………」
その瞬間。
現在のおゆの美しく整った眉が、ぴくっ、と不自然に跳ね上がった。
「ん?」
ゆうこがその微細な変化に気付き、首をかしげる。
「おゆ?」
「…………」
返事はない。おゆの視線は、過去のタケルに釘付けになっていた。
過去の記憶の中では、少年タケルが少女おゆの元へと駆け寄り、満面の笑みで片方の湯飲みを差し出していた。
『はいっ!』
『ありがとう』
『水!』
その一言を聞いた瞬間、現在のおゆの眉がさらに不気味な角度へと釣り上がる。
「……あれ?」
ゆうこの顔が急速に引きつり始めた。背筋を這い上がるような、言い知れぬ嫌な予感。
どこかで見た、ものすごく、そして圧倒的に覚えのある理不尽な流れ。
少女おゆは、差し出された湯飲みを何の疑いも抱くことなく両手で受け取る。
疑うことなき信頼のまま、その陶器の縁をゆっくりと自身の口元へ運んだ。
その瞬間、現在のおゆが、この空間で初めてその唇を開いた。
「……それ」
「え?」
「飲んでは、いけません」
時空を超えた警告は、しかし過去の少女には届かない。
少女おゆは、躊躇なく湯飲みを傾けた。
「待って、やめて――」
ごくっ。
喉が鳴る音が、妙に鮮明に響いた。
「…………」
現在のおゆが、すっと目を閉じた。
それに倣うように、ゆうこも目を閉じる。
ほかてんまでなぜか目をギュッと固く閉ざした。
サクだけが、これから何が起こるのか全く理解できず、きょとんと首を傾げている。
『…………』
少女おゆの身体が、電撃を受けたようにピタリと硬直した。
タケルは何も知らず、無邪気な笑顔で問いかける。
『どう?』
『…………』
『おゆ?』
ゆっくりと。
本当におそるおそるというように、少女おゆが顔を上げる。
その瞳は、完全に据わっていた。光のない、底知れぬ暗黒の澱みが浮かんでいる。
「来る……」
ゆうこが絶望的な呟きをもらす。
『…………おい』
タケルの無邪気な笑顔が、一瞬にして凍りついた。
『え?』
『これ』
少女おゆが、震える手で湯飲みをゆっくりと持ち上げる。
『水じゃねぇだろ、これ』
「出たぁぁぁぁぁ!!」
ゆうこがたまらず悲鳴を上げる。
タケルは恐怖に駆られ、反射的に一歩、二歩と後ろへ下がった。
『えっ、あっ』
『ご、ごめん!』
『間違えて、お湯の方を――』
ダンッ!!
激しい乾いた音が響く。
少女おゆが、怒りに任せて湯飲みを近くの机へ叩きつけた。
『お湯じゃねぇかぁぁぁぁぁぁ!!』
「昔から同じ手口ぃぃぃぃぃ!!」
ゆうこの絶叫が、過去の酒蔵の天井を突き抜けるように響き渡る。
この瞬間、少女おゆは、先ほどまでの慈愛に満ちた働き者から、修羅の如き戦闘生物へと変貌を遂げていた。
『てめぇタケル!!』
『はいぃぃぃぃぃ!!』
『水っつったよな!?』
『言いました! 確かに言いました!』
『じゃあなんで湯気出てんだコラァ!!』
『ごめんなさぁぁぁぁい!!』
命の危機を察知したタケルが、血相を変えて酒蔵の中を逃げ回る。
その後を、少女おゆが鬼神のごとき形相で猛追した。
『待てコラァァァァ!!』
『待ったら殺されるぅぅぅぅ!!』
『もう殺してやるよぉぉぉぉ!!』
「理不尽すぎるぅ!」
ゆうこが頭を抱えて身悶えする。
広大な酒蔵の中を、子供二人が全力疾走で暴れ回る。
その只中にいる職人たちは、全員が仕事の手を止め、
「…………」
ただただ口をぽかんと開け、言葉を失っていた。
誰も作業をしていない。全員が、人生で初めて目撃する少女おゆの暴走劇に魂を抜かれたように固まっていた。
やがて、追い詰められたタケルが、一番大きな発酵用の甕の後ろへと滑り込むように隠れ込む。
『来るな!』
『そこから出てこいやぁぁぁ!!』
『ほんとにごめんって!』
『今すぐ冷たい水持ってこい!!』
『分かった、すぐ持ってくる!』
タケルは半泣きになりながら、近くの棚にあった別の湯飲みを慌てて掴み取った。
『これ! これが水だから!』
『よこせ!!』
少女おゆが力任せにそれをひったくる。
そして。
疑うことなく、喉へと流し込んだ。
ごくっ。
「…………」
少女おゆの動きが、再びピタリと止まる。
タケルも息を殺して固まった。
外から見守るゆうこたちも、呼吸を忘れてその一挙手一投足を見つめる。
タケルが差し出したその湯飲みから、
ほわぁ……と、無慈悲なまでに白く豊かな湯気が、ゆらゆらと立ち上っていった。
「…………」
現在のおゆが、冷ややかに、そして深くため息をつく。
「馬鹿ですね、あの男は」
「どっちがだよ!?」
ゆうこが思わず突っ込みを入れる。
過去の記憶の中では、少女おゆの手が怒りと熱さで激しく震えていた。
『…………タケル』
『…………はい、なんでしょうか』
『これも』
『…………はい』
『お湯じゃねぇかぁぁぁぁぁぁ!!』
『ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!』
「まさかの二回目ぇぇぇぇぇぇ!!」
あまりのコントのような惨劇に、サクが、ついに耐え切れなくなった。
「あはっ!」
「…………」
「あははははははははっ!!」
お腹を抱え、床に崩れ落ちるように笑い出す。
「二回連続! なんで二回ともお湯なわけ!?」
『待てやタケルゥゥゥ!!』
『わざとじゃないんだぁぁぁ、手が勝手に!』
「あははははははっ、無理、お腹痛い!」
サクは目尻に涙を浮かべ、転げ回りながら笑い続けている。
あの冷静沈着なほかてんまで、たまらず両手で口元を覆い、肩を震わせていた。
「私……こんな一面、知らなかった……。おゆさんのあの異常なまでの警戒心って、すべてこのタケルって少年のせいで培われたんだ……」
一方、現在のおゆは、感情の波を完全に消し去り、静かに、しかし冷徹な眼差しで、あの日の幼馴染を見つめている。
「……すべて、鮮明に思い出しました」
「え?」
ゆうこが恐怖におののきながら振り返る。
そこにあったおゆの顔は、かつてないほどに穏やかで、美しい微笑みを浮かべていた。
「次にどこかで会ったら、あの世へ送るつもりで殴ります」
「現在まで何年越しに恨み継続してるの怖すぎるぅぅぅぅ!!」
その強烈すぎる殺気を帯びた宣言と同時に、
パリンッ!!
と、ガラスが割れるような音を立てて、酒蔵の景色が音を立てて粉々に砕け散った。
◇
視界が暗転したのち、再び現実の黒々とした岩山へと引き戻される。
「シャァァァァァァッ!!」
目の前で、あの巨大な大蛇が、体をくねらせて悶絶するように大喜びしていた。
楽しそうに長い尾を地面に叩きつけ、満足げに喉を鳴らしている。
どうやら人間の脳裏から覗き見た過去のトラウマ劇が、この魔獣にとって最高の上等な娯楽だったらしい。
「あははははははっ、もうダメ……!」
サクはまだ笑い声を引きずりながら、お腹をさすっている。
「二回……二回ともお湯なんて……!」
「サクさん」
おゆが、静かにその名前を呼んだ。
「あはは……なに、おゆちゃん」
「もう、笑わないでください」
その声は、怒鳴ることも荒げることもなく、いつもの穏やかで優しいおゆそのものだった。だからこそ、余計に恐ろしい。
「ご、ごめんなさい、ちょっとツボに入っちゃって」
サクが必死に笑いを飲み込もうと頬をつねる。
すると、その様子を見ていた大蛇が、さらに面白がったように、
「シャァァァァァァ……」
と、低く愉快そうな声を漏らした。
黄金の瞳が、ふいにおゆを凝視する。
「…………」
おゆもまた、一歩も引かずにその巨大な大蛇の瞳を見返す。
「…………」
緊迫した沈黙のなか、ゆうこがふと何かに気付いた。
「ねぇ、おゆ」
「何ですか、ゆうこさん」
「今の記憶、みんなに見せられて……その、恥ずかしかった?」
「…………」
おゆは少しだけ思案するように視線を巡らせる。
「いいえ」
「え? 恥ずかしくないの?」
「非常に、腹が立ちました」
「そっちの感情!? 羞恥心はどこにいったの!?」
その瞬間。
今まで優雅に身悶えていた大蛇の動きが、ぴたりと不自然に止まった。
「シャ……?」
生まれて初めて遭遇するイレギュラーに、巨大な魔獣が明らかに困惑の色を浮かべている。
――『ほう』
脳内に、アルケラの古風で不敵な声が響いた。
――『なるほど、のう』
「何よ、アルケラ」
――『こやつの幻術は、人間の深層心理にある「恥辱」を喰らって力を得るものじゃ』
――『じゃが、恥じるどころか、当時を思い出して殺意を燃やす者など……想定外じゃろうて』
「つまり、この大蛇にとっての相性が最悪ってこと?」
――『そういうことじゃな。餌のつもりが、激辛の毒薬を喰らったようなもんじゃ』
その解説を聞いた瞬間、ゆうこの瞳が、きらりと力強く輝き始めた。
そして迷うことなく、自らの腰へと手を伸ばす。
そこには、旅の道中である胡麻ノ里で、村人から親愛を込めてもらった小さな水筒がぶら下がっていた。
ちゃぷん、と軽やかな水音がする。
中の液体は、まだほんのりと温かさを保っていた。




