第121話『塩はザルでは救えない』
もちろん過去の自分には届かない。
幼いほかてんは、ずしりと両腕に食い込む重い麻袋を抱えている。
よいしょ。
よいしょ。
満面の笑みを浮かべ、蒸潤な空気が漂う仕込み場へと足取り軽く運んでいく。
「持ってきたよー!」
「おう、ありがとな!」
父親は別の巨大な甕の前に張り付き、蒸気の上がる作業に夢中で、こちらを振り返りもしない。
そして幼いほかてんは勢いよく麻袋の口をひも解いた。
「入れるね!」
「おう!」
ざざざざざざざざざっ!!
豪快。
迷いなし。
ためらいなし。
純白の結晶の山が、勢いよく甕の中へと吸い込まれていく。
「…………」
ゆうこは言葉を失い、冷めた眼差しで見つめている。
サクもまた、青ざめた顔のまま無言。
クルスも息を呑んだまま無言。
現在のほかてんだけが、両手で真っ赤に染まった顔を激しく覆っていた。
「お願い……。もうやめて……これ以上見せないで……!」
やがて背後で作業していた父親が、ふと手を止めて振り返った。
「よーし、次は……ん?」
ぴたり。
巨体の動きが完全に停止する。
「…………」
白い液体で満たされたはずの甕を見る。
足元に転がる空の麻袋を見る。
信じられないものを見るように、もう一度。
甕の底を覗き込む。
「ほかてん」
「なーに?」
「今……何入れた?」
「白いやつ!」
「白いやつの名前は?」
「…………」
幼いほかてんが、きょとんとした顔で足元の麻袋を見下ろす。
そこには容赦ない黒字で、でかでかと記されていた。
【塩】
「…………」
幼いほかてんの頭上で、ぱっと笑顔が消え去る。
「…………しお?」
父親の目玉が、限界まで見開かれた。
「それは塩じゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「やっぱりぃぃぃぃぃぃ!?」
なぜか当の本人である幼いほかてんまで、飛び上がって驚愕している。
「なんで入れた本人が驚いてるの!?」
ゆうこの鋭いツッコミが、岩肌の響く空間を切り裂く。
幼いほかてんはパニックに陥り、慌てて頭から甕のなかに突っ込みそうになる。
「どうしよう!」
「どうしよう、お父さん大変だよ!」
「落ち着け!」
「塩出さなきゃ、お酒がしょっぱくなっちゃう!」
「待て、慌てるな!」
「私がなんとかするから!」
「だから待てって言っとるだろ!!」
幼いほかてんは、目の前でパニックを起こしながら壁際にかけられていた大きな竹製のザルを掴み取った。
「これで塩だけすくい取る!」
「無理じゃぁぁぁぁぁ!! 溶けてるわ!!」
ざぶんっ!!
容赦なく、底の抜けたような勢いで甕へザルを突っ込む。
「…………」
引き上げる。
白濁した液体だけが。
じゃばじゃばじゃば。
無慈悲な音を立てて網目から零れ落ちていく。
「…………」
幼いほかてんは、手元に残った空っぽのザルを凝視した。
何も入っていない。
「塩が消えた!」
「溶けたんだよぉぉぉぉ!!」
ゆうこが絶叫交じりに頭を抱える。
現在のほかてんは、その場に崩れ落ち、頭を抱えて身悶えしていた。
「お願いだから、過去の私をこれ以上見世物にしないでぇぇぇ!!」
しかし幼いほかてんの暴走は、まだ終わりを知らない。
「そうだ!」
さらに恐ろしいひらめきが、その小さな頭に過ったらしい。
父親の顔色が、一気に血の気を引いて青ざめる。
「待て、動くな」
「まだ何も言ってないよ?」
「その不敵な笑みは絶対ろくなこと考えてない!」
幼いほかてんが、小動物のように素早く走り出した。
そして隣に並ぶ別の仕込み用の甕から巨大な木製の柄杓で、なみなみと液体を汲み取ってくる。
「これで薄めればいいんだ!」
「やめろぉぉぉぉぉぉ!!」
ざばぁぁぁぁん!!
「入れちゃったぁぁぁぁ!!」
ゆうこが絶望の声を張り上げる。
父親が両手で頭を鷲掴みにする。
「それは昨日の夜から仕込んだ別の極上酒じゃぁぁぁぁ!!」
「えぇぇぇぇぇぇ!?」
「また自分でやっておいて驚いてる!」
さらにパニックの極みに達した幼いほかてんは、完全に思考を停止させた。
「じゃ、じゃあ元に戻す!」
慌てて柄杓を掴み、さきほどの甕へ突っ込む。
「待て、待て待て!」
ざばっ!
「どっちから取った!?」
「こっちの甕!」
「そっちは一番最初に塩を入れた呪いの甕じゃ!」
「えっ、嘘っ!?」
「もう何も触るなぁぁぁぁぁ!!」
「ごめんなさぁぁぁぁぁい、お父さんごめんなさーい!」
完璧にして究極の大惨事だった。
たったひとつだったはずの被害が。
なぜか見る見るうちに二つに増殖している。
「…………」
ゆうこは遠い目をし、魂が抜けたように天を仰いだ。
「すごい……。一人で、しかも一瞬で被害をマッハで拡大させてる……」
「言わないでぇぇぇぇぇ!! お願いだから蒸発させて!!」
現在のほかてんが、恥ずかしさのあまり消え入りそうな声を上げる。
しかし過去の蒸留所における惨劇の幕はまだ完全に下りていなかった。
幼いほかてんは、自分のしでかした取り返しのつかない現実を目の当たりにし、とうとうその場に、がっくりとへたり込んだ。
「うぅ……ぐすっ……」
大きな瞳に。
ぽろぽろと、大粒の涙がみるみる溜まっていく。
「お父さん……」
「私……。たいせつな焼酎、二個も壊しちゃった……」
「甕ね、壊したのは甕だから!」
ゆうこが冷や汗を流しながら小声で訂正を入れる。
「そこ、今のタイミングで訂正しなくていいから!」
ぽろっ。
幼いほかてんの柔らかな頬を、熱い涙が一筋伝い落ちる。
「ごめんなさい……」
「私……もう立派な焼酎職人になれない……お嫁にも行けない……」
「…………」
父親は、ただ無言で。
そんな泥だらけの娘をじっと見つめていた。
そして。
「ぶっ……」
「……?」
「ぶははっ、くっ……!」
突如として。
父親の肩が震え、盛大に吹き出した。
「がっはっはっはっはっは!!」
「えっ……?」
幼いほかてんが、びくりと肩を震わせて顔を上げる。
父親は大きな腹を抱え、床を揺らすほどの豪快な笑い声を響かせている。
「お前なぁ!」
「塩入れたと思ったら、あろうことかザルですくおうとして!」
「挙句の果てには別の極上の仕込みまでぶちまけやがった!」
「がっはっはっは、腹が痛い!」
「お、お父さん……笑わないでよ……」
「こんな盛大な失敗、生まれてこの方初めて見たわ!」
温かく、太陽のような笑い声が蒸留所いっぱいに響き渡る。
すると幼いほかてんの頬が。
ぷくぅぅぅと不満そうに大きく膨らんだ。
「…………」
「笑わないでよ、お父さん」
「ん?」
「私、これでも真剣にやってるんだから!」
「がっはっは! すまんすまん、悪かった!」
父親は笑いジワを浮かべたまま、娘の頭を大きな手でわしゃわしゃと乱暴に、しかし優しく撫で回す。
「いいか、ほかてん」
「失敗したってええんや」
「……でも、二個も駄目にした……」
「いいや、二個で済んだと思えば安いもんじゃ!」
「…………」
「次は三個やらかさなきゃ、職人としての成長はねぇぞ!」
「失敗の数を増やしちゃ駄目でしょ!」
たまらず、ゆうこが即座に鋭いツッコミを入れる。
「失敗したら、その都度身体で覚えりゃええ支えんじゃ!」
父親は気にせず、からりとにかっと笑った。
「焼酎造りなんてな、失敗してて、悩んで、また新しい気持ちで仕込んで」
「そうやって、痛みを伴いながら少しずつ一人前になっていくもんじゃよ」
幼いほかてんは、まだ潤んだ瞳のまま。
小さく鼻をすすった。
「……じゃあ、また失敗してもやっていいの?」
「当たり前じゃ! 何度でも挑め!」
「塩を入れても?」
「それは人生で二度と入れるな、死んでも許さん」
「……うん、分かった」
「別の甕の中身を勝手に混ぜてもいい?」
「絶対やめろ、犯罪だそれは」
「……うん、分かった」
「じゃあ、ザルは?」
「塩はザルじゃ取れん、物理的に無理じゃ」
「……完璧に覚えた!」
「そこ、スタートラインの基礎からやり直しかぁぁぁぁ!!」
ゆうこの魂の叫びが、虚空へ響き渡る。
その瞬間。
「あはっ……!」
静かに聞いていたサクの口元から、思わず声が漏れた。
「…………」
ほかてんが、カッと顔を赤らめて振り返る。
「サクさんまで笑うの?」
「ご、ごめんなさい、どうしても我慢できなくて……」
サクは美しい顔を歪め、必死に口元を手で押さえている。
「でも……だって……」
ぷるぷる、と。
細い肩が激しく震えている。
「ザルで……塩をすくおうとなんて……」
「あははははははっ!!」
ついに、冷静だったサクの笑いのツボが決壊した。
「そこ、蒸留所の真ん中で大声で笑わないでぇぇぇぇぇ!!」
「あはははっ! だって、あまりにも真剣な顔で……!」
サクはたまらず腹を抱えてうずくまる。
「塩が消えた! って本気で驚いてる顔が忘れられない……!」
「昔の幼児期の黒歴史だから許してぇぇぇ!!」
耐えかねて、ついにゆうこまで腹を抱えて笑い出す。
「しかも、証拠隠滅のために薄めようとして別の高級仕込みを混ぜてるし……!」
「ゆうこまで面白がって笑わないでよ!」
「ごめん無理! だってもう被害拡大の速度がジェット機並みですごすぎる!」
「もうやだぁぁぁぁ、地割れ起きて私を飲み込んでぇぇぇぇ!!」
阿鼻叫喚の渦の中。
不意に、暗闇の向こうから地響きのような音が届いた。
「シャァァァァァァッ!!」
大蛇の大爆笑まで聞こえてきた。
「お前が一番この思い出を楽しんでるなぁぁぁぁ!!」
ほかてんが絶叫したその瞬間。
パリンッ!!
幻影として映し出されていた蒸留所の景色が、硝子細工のように粉々に砕け散った。
◇
現実の空間へ引き戻され、再び冷たく荒涼とした黒い岩山。
ほかてんは、その場に完全に膝を突き、両手をついてしゃがみ込んでいた。
「…………」
顔は茹でダコのように真っ赤に燃え上がっている。
「もう嫌だ……」
小さく、か細く呟く。
「綺麗さっぱり忘れて生きてたのに……」
その横ではクルスが何事もなかったかのように、静かに佇んでいる。
ほかてんが、じっと恨めしそうに顔を上げた。
「クルスさん……」
「はい」
「さっき、心の底から笑ってごめんなさい」
「私の受けた精神的苦痛の深さが、ようやく分かっていただけましたか」
「うん、心底分かった……」
二人は言葉もなく、固い握手を交わした。
「いつの間にか『黒歴史被害者の会』が発足してる!」
ゆうこが呆れたようにツッコミを入れる。
しかし和やかな空気は、一瞬で凍りついた。
その時だった。
――『ゆうこ』
頭に響くアルケラの声が先ほどまでの茶化すような響きを消し、急激に低く澱む。
「なに?」
――『呑気に笑っておる場合ではないぞぃ』
ゆうこの表情が、一変して険しくなる。
恐る恐る振り返ると大蛇の巨大な肉体から先ほどまでとは比較にならないほど禍々しく、濃密な黒い酒気がもうもうと立ち昇っていた。
クルス。ゆうこ。
そして、ほかてん。
三人分の、あまりにも濃厚で上質な羞恥心を丸ごと喰らったことで、その底知れない巨大な身体は空間を歪ませるほどに、明確に力を増幅させている。
「……これ、笑い事じゃなくてかなりまずくない?」
――『うむ』
大蛇がゆっくりと不気味に、その巨大な頭を持ち上げる。
そして冷たい光を放つ金色の瞳が次なる極上の獲物を探すように、冷徹にギラリと動いた。
ゆうこ。
クルス。
ほかてん。
サク。
そして。
ぴたり。
視線が停止する。
「…………」
ターゲットは、おゆだった。




