第120話『それ塩ぉぉぉ!!』
「シャァァァァァァァァッ!!」
大蛇の咆哮が、地を揺るがす。
それはこれまでにないほどの大喜びだった。
巨大な身体をミシミシとくねらせ、強靭な尾で荒涼とした地面を激しく叩きつけている。
完全に笑い転げているその姿は、神聖な魔獣というよりも、ただの悪ふざけの怪獣だった。
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
地鳴りのような衝撃が連続する。
「笑うなぁぁぁぁぁぁ!!」
クルスの絶叫が、岩山の冷えた空気を切り裂くように響き渡った。
――『ふぉっふぉっふぉっふぉっ!!』
「アルケラ様まで!!」
――『いやぁ、すまんすまん! これは耐えられんわい! 腹の皮がよじれるわい!』
「謝りながら笑わないでください!!」
その隣で、ゆうこも両手で口元を必死に押さえていた。
「ご、ごめん……クルス……」
「先生まで……」
「でも……」
ぷるぷる、と細かく。
彼女の肩が激しく震えている。
「世界征服して……月曜日なくしてくれるんでしょ……?」
「忘れてください!!」
再び乾いた笑い声が爆発した。
サクの大爆笑。
ゆうこの肩を揺らすツッコミ。
老練なアルケラの腹の底からの笑い声。
そして。
大蛇の愉快そうに喉を鳴らす野太い鳴き声。
その熱狂の中心でクルスは両手で真っ赤になった顔を覆い、その場に崩れ落ちるように静かにしゃがみ込んだ。
「……お願いです」
砂を噛むような、消え入りそうな声で呟く。
「もう、この場で俺を生き埋めにしてください」
そのままクルスは、微動だにせず地面と同化していった。
「元気出して、クルス」
ゆうこが呆れと憐憫の入り混じった視線を向け、その背中へそっと手を置く。
「…………」
「ほら、子どもの頃の可愛い黒歴史じゃん」
「…………」
「誰にだって、墓まで持って行きたいくらい恥ずかしい過去くらいあるって」
「…………」
「月曜日なくすの、私は賛成だよ」
「追い打ちをかけないでください」
地の底から這いずるような絶望の声だった。
そのすぐ横では。
「んふっ……」
サクが口元を袖で隠しながら、まだ肩を揺らしている。
「サクさん」
「あはっ……ご、ごめんなさい、ちょっと込み上げてきて」
「まだ笑ってますよね?」
「笑ってないわよ、気のせいだわ」
「俺を目を逸らさずに見て言ってください」
サクがふっと息を整え、クルスを見下ろす。
「…………」
脳裏によみがえる先ほどのセリフ。
『……うむ。苦しゅうない』
「ぶはっ!!」
「もう嫌だこの人!!」
クルスが頭を抱えて再び地面を転げ回る。
「あはははははっ!」
耐えきれなくなったサクは、再び腹を抱えて大口を開けて笑い始めた。
すると同調するように。
「シャァァァァァッ!」
大蛇も負けじと、さらに激しく巨体をくねらせる。
尾が地面を砕く勢いで叩きつけられる。
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
「お前もいつまで笑ってんのよ!」
ゆうこが苛立ちに任せて怒鳴りつける。
しかし、大蛇は明らかに先ほどよりも活力に満ち溢れていた。
黒いどす黒い酒気が巨体からもうもうと溢れ出し、巨大な鱗がぬらぬらと不気味な妖光を放っている。
――『まずいのう』
楽しげな空気から一転、アルケラの声が低く響いた。
――『やはり、こやつは……。人間が魂の奥底から恥ずかしがる負のエネルギーを糧にし、力を増しておるわい』
「え?」
ゆうこがハッとして大蛇を見上げる。
確かに、先ほどよりも明らかに身体がひと回り大きく見える。
いや、それだけではない。
表面の皮膜が異常なまでに艶めき、発光している。
「黒歴史で最高の仕上がりになってるじゃん!」
――『特にクルスの放った破壊力は、こやつの大好物のようじゃな』
「俺の黒歴史を高級な栄養価みたいに評価しないでください!」
クルスが青ざめた顔で絶叫する。
「シャァァァァァ……」
大蛇は得体の知れない満足感に浸るように、ぞっとするような喉を鳴らした。
そして重々しく、冷徹な光を湛えた金色の瞳を、ゆっくりと仲間のほうへと向ける。
「……ん?」
異変に気付いたゆうこが息を呑む。
大蛇は、その冷酷な視線を、順番に一人ずつ品定めするように這わせていた。
ゆうこ。
サク。
おゆ。
そして。
ぴたりと、動きが止まる。
「…………え?」
そこには、ぽかんと口を開けたほかてんがいた。
「…………」
ほかてんが、緊張に震える指先で自分を指差す。
「私……?」
にたぁぁぁ……。
大蛇の醜悪な口元が、耳まで裂けんばかりに吊り上がる。
「ちょっと待って」
ほかてんは冷や汗を流しながら、一歩、また一歩と後ろへ下がった。
「私にはそんな恥ずかしいものなんてないよ?」
さらに一歩、足場を確かめながら下がる。
「本当に、マジでないからね?」
大蛇の金色の瞳が、いやらしいほどの輝きを増していく。
「いやいやいや、待って待って!」
ほかてんは両手をブンブンと激しく振った。
「私、人生ずっと普通だから! エキセントリックな要素ゼロだから!」
ゆうこが不安そうに振り返る。
「普通?」
「普通!」
「黒歴史、本当に一個もないの?」
「ない!」
「ガチで一個もないわけ?」
「ないってば!」
「子どもの頃の暗い思い出とかも?」
「ないって言ってるでしょ!」
「…………」
ゆうこは恐る恐る大蛇の顔を覗き込む。
その金色の瞳は、これ以上ないほどに爛々と輝き、めちゃくちゃ嬉しそうに歪んでいた。
「ほかてん」
「なに、その目で見ないでよ!」
「その蛇、今までで一番いい顔してるよ」
「なんでぇぇぇぇぇ!? 私なんもしてないじゃん!」
その瞬間、空間を引き裂くような高周波の音が響き渡る。
キィィィィィン……。
「しまっ……!」
警告を発する間もなく、大蛇の巨体から強烈な金色の閃光が放たれた。
ほかてんの身体がピタリと硬直する。
「ほかてん!」
ゆうこが咄嗟に手を伸ばす。けれど残酷なまでに、その指先は空を切った。
遅かった。世界が音もなく、再び純白の光景へと染まっていく。
頬を撫でていた風が消え、足元の荒涼とした岩山が消える。
あの大蛇も。
周りにいた麹精霊たちも。
すべてが圧倒的な光の奔流の中へと溶けて消えていく。
そして。
◇
眩しさに目を細めながら意識を取り戻すと、そこは懐かしい木の香りに満ちた一軒の蒸留所だった。
天井の梁から下がる煤けた布。
圧倒的な存在感を放つ巨大な陶器の甕。
床にゴロゴロと無造作に積み上げられた大ぶりの芋たち。
額に汗を浮かべながら、忙しそうに動き回る職人たちの活気が肌を刺す。
「ここ……」
ゆうこが辺りをゆっくりと見回す。
痛いほどに見覚えがある光景だった。
ここは、思い出の地・芋ノ里の蒸留所だ。
ただし、今目の前にあるのは、記憶の中の古びた姿ではなく、今よりもずっと真新しく、活気に満ちあふれていた頃の過去の姿だった。
そして。
「お父さーん!」
空間を弾むような、あどけない少女の声が響き渡る。
小さな女の子が、自分の身体ほどもある大きな芋を無理やり抱え込みながら、ドタドタとこちらへ走ってくる。
「これ、重かったけど運んできたよー!」
「おぉ! よくやった、大助かりだぞ!」
天井を突き抜けるような豪快な笑い声とともに、日に焼けた筋骨隆々のおおらかな男が現れた。
男は少女からずっしりと重い芋を受け取ると、愛おしそうにその頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回す。
「ほかてんも、将来は立派な焼酎職人になりたいか?」
「うんっ!」
幼いほかてんは、曇りのない満面の笑みで力強く頷いた。
「お父さんみたいに、すごいの作る人になる!」
「がっはっはっは!」
父親は我が子の言葉に目を細め、嬉しそうに腹の底から笑う。
「そうかそうか、それは頼もしい! なら今日は特別に、お前にも大事な仕込みを手伝ってもらうか!」
「ほんと!?」
「おう、約束だ!」
「やったぁぁぁ!」
幼いほかてんは飛び跳ねて喜びを全身で表現する。
「…………」
現在の現実に戻ってきた現在のほかてんは、その眩しすぎる光景を目の当たりにしながら、顔色を急速に失い、紙のように青ざめていく。
「……あ」
ゆうこがハッとして彼女のほうを振り返る。
「ほかてん?」
「…………」
「どうしたの、すごい汗だけど」
「……違う、違うの」
ほかてんは現実逃避するようにかぶりを振る。
「ここじゃない」
「何が?」
「お願い、これ以上見せないで……」
その声は恐怖に引きつれ、小さく震え始めている。
視線の先では。
幼いほかてんが、嬉しそうに父親の背中をぴょんぴょんと追いかけていく。
「待って、そこに行かないで!」
現在のほかてんが掠れた声で叫ぶ。
しかし無慈悲な過去の時間は、誰の制止も聞かずに進行していく。
作業台の前に立った父親が、仕込みに使う二つの材料を指差した。
「ほかてん!」
「なぁに?」
「そこにある白い袋のやつ、こっちに持ってきてくれ!」
「はーい!」
幼いほかてんは、自分の役割に誇らしげに胸を張りながら、元気よく走り出す。
そして彼女の目の前には、全く同じ色をした、白い粉の入った麻袋が仲良く二つ、並んで置かれていた。
「…………」
現在のゆうこが固唾を飲んで見守る。
右。
そして左。
見分けのつかないほぼ同じ袋。
幼いほかてんはパチパチと目を瞬かせ、小さく首を傾げる。
「どっちだっけ、お父さんが言ってたの……?」
その瞬間、現在のほかてんは両手で自分の頭をガシッと抱え込んだ。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇ!! そこから先はダメぇぇぇ!!」
しかし、幼いほかてんは迷った末に、何も知らずにぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
「こっちだ!」
迷いのない足取りで、勢いよくその重い袋を両手で担ぎ上げた。
現在のほかてんが、この世の終わりと言わんばかりの絶叫を響かせる。
「それ塩ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」




