第119話『極秘 世界征服計画書』
「……ここは?」
ゆうこが、おそるおそる辺りを見回す。
年季の入った木製の机。
使い古された辞書が並ぶ本棚。
軋む音を立てそうな小さなベッド。
薄暗い壁には、何やら本人が描いたらしい、歪で禍々しい謎の紋章がチョークで落書きされている。
その中心、古びた机に向かっている一人の少年。
艶やかな黒髪。
折れそうなほど細い身体。
年齢は十歳、あるいは十一歳といったところか。まだあどけなさが残る横顔。
「もしかして……」
ほかてんが、丸い目をさらに見開く。
「昔のクルス?」
「…………」
現実世界の現在に生きるクルスは、すでに両手で顔を覆い、自分の世界から逃避するように身を縮こまらせていた。
「今すぐ帰りたい……」
「まだ何も始まっていないよ!?」
ゆうこの突っ込みを無視して、空間の主である少年クルスは、異様なほど真剣な表情で机に向かい合っている。
その白く小さな手には、インクの染みた古い羽根ペン。
そして、目の前には、禍々しいオーラを放つ一冊の黒いノート。
表紙には掠れた金色の文字で、執念の込められた筆跡で、こう書かれていた。
【極秘 世界征服計画書】
「ぶふぅっ!!」
静寂を切り裂くように、ゆうこが盛大に吹き出した。
「もうタイトルから強すぎるでしょ!!」
「…………」
クルスは頭を抱えたまま、微動だにしない。
「誰にも……」
「誰にも、一生見せるつもりはなかったんです……!」
「そりゃそうでしょうね!」
そんな絶叫をよそに、少年クルスはキリッとした顔つきでページをめくる。
すると、なぜかその中身が、現代から迷い込んだゆうこたちの目の前へ、映画のスクリーンのように大きく立体的に映し出された。
【異名候補】
壱、終焉を統べし漆黒王
弐、闇夜を喰らう終末の皇帝
参、右腕に封印されし災厄
肆、深淵の支配者
「異名候補だってぇぇぇぇ!!」
ゆうこの声が見事に裏返る。
「しかも、ご丁寧にお気に入りの四つを厳選してる!」
「ちゃんと自分で選考してるじゃん!」
「もうやめてください……頼むから……!」
クルスの声が、羞恥心で激しく震えている。
しかし、残酷にも地獄は始まったばかりだった。
少年クルスが、さらに次のページをめくる。
【笑い方研究】
・フッ……
評価 ★★★☆☆
『少し普通すぎる。インパクトに欠ける』
・ククク……
評価 ★★★★☆
『悪くない。もう少し低音を意識しろ』
・ハーッハッハッハ!!
評価 ★★☆☆☆
『単純に喉が痛い』
「自己採点してるぅぅぅぅ!!」
ゆうこが腹を抱えて床でのたうち回る。
「喉が痛いで減点されてるし!!」
「…………っ!」
その横でサクが、小さく引きつった声をもらしながら両手で口を強く押さえていた。細い肩が、小刻みに激しく震えている。
「あ」
ゆうこが、ふと横を見て気付く。
「サク?」
「だ、大丈夫……だから……」
「絶対大丈夫じゃないでしょ、その顔」
「私は……まだ、理性を保っている……」
サクは必死に天井を仰ぎ、涙目で耐え忍ぶ。
その矢先、少年クルスがガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ん?」
部屋の中央へと移動する。
曇った姿見の鏡の前に立つ。
そして右手で左の二の腕を強く掴み、ぎゅっと押さえる。
ふらつく。
数秒間の重い沈黙。
ゆっくりと、顔を上げる。
片目だけを、前髪の鬱陶しい隙間から鋭く覗かせ。
『ククク……』
喉の奥から絞り出すような、低い声で笑う。
『今宵も……俺の右腕が、どうしようもなく疼いている』
「ぶっ……!!」
サクの防衛線が完全に決壊した。
『目覚めるには、まだ少し早いぞ……深淵の覇王よ』
「あはっ……!」
『この世界は……まだ、完全に滅ぼすには惜しい』
「あははっ……!」
少年クルスは満足げに腕を組み、古びた窓の外へと冷徹な視線を投げかける。
『フッ……愚かな人間どもめ』
「あはははははははっ!!」
完全に決壊したサクが腹を抱え、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
「あははははっ! 無理、もう無理よこれ!」
「サクさん……!」
「あはははっ! ご、ごめんなさい! クルス、でも……っ!」
涙まで目尻に浮かべながら、笑いすぎて震える指で少年クルスをびしっと指差す。
「全部一人でやってるぅぅぅぅ!!」
「もう言わないでください!!」
「誰にも見せてないから、脳内で完全に成立していたんです!!」
「何が成立してたのよ、その自給自足の厨二病ライフは!」
ゆうこのキレのあるツッコミが容赦なく突き刺さる。
そして、無慈悲にも歴史の扉はさらに開く。
【決めポーズ集】
一、腕を組む。
二、右腕を押さえる。
三、片目を手で隠す。
四、窓辺で遠くを見る。
五、背中を向けて振り返る。
すべて、下手くそながらも熱意の伝わる棒人
間のイラスト付きで丁寧に解説されていた。
「イラスト付きぃぃぃぃ!!」
「やめろぉぉぉぉぉ!!」
ついにクルスの理性が完全に吹き飛び、元のクールな面影すら消え去る。
サクはすでに言葉を失い、ただただ地面を両手で激しく叩いて笑い転げている。
「あははははっ!!」
「ちゃんと絵にしてる! 完璧に再現するために、わざわざ自分で描いて練習してる!」
「頼むからこれ以上分析しないでください恥ずかしい!!」
「あはははははっ!」
「だから笑いすぎですってば!!」
少年クルスは、そんな未来の自分が味わうとも知れない絶望の苦しみなど露知らず、満足そうに一人でこくんと頷いていた。
そして、運命の最終ページを開く。
【世界征服後に実行すること】
・月曜日をなくす
・宿題禁止
・昼寝を義務化する
・アイス食べ放題
・野菜を全部なくす
「…………」
突然、空間の空気がピタリと静まり返る。
全員の動きが止まった。
「…………」
ゆうこが、信じられないものを見る目で何度も激しく瞬きをする。
もう一度、その文字を頭の中で反芻する。
月曜日をなくす。
宿題禁止。
昼寝を義務化。
アイス食べ放題。
野菜をなくす。
「…………」
ゆうこは、ゆっくりと視線を現在のクルスへと戻す。
「クルス」
「……なんですか、もう死にたいです」
「世界征服したあと、あなたが本当にやりたかったのって何?」
「聞かないでください、お願いですから」
「ただの最高に優しい子どもの理想郷じゃん!」
ほかてんも、しみじみとした声音で小さく頷く。
「……優しい世界だね」
「だから言うなって言ってるでしょうがあああ!!」
クルスの存在が、あまりの羞恥心にどんどん小さくなっていく。
その時だった。
ガチャリ。
静かな部屋に、乾いた扉の開閉音が響く。
『クルスー』
穏やかな、母親の声。
『おやつできたわよー、プリンあるからねー』
「…………」
現在のクルスが、その場に彫像のように完全に固まった。
「まさか……このタイミングは……」
母親らしき女性が、心配そうに部屋の隙間から顔を覗かせる。
しかし、少年クルスは母親の方を決して振り返らない。
窓辺に立ったまま、きっちりと腕を組み、どこか遠くの空を見つめている。
それは紛れもなく、先ほどノートで確認したばかりの決めポーズ集。
第四番。
『窓辺で遠くを見る』
「完全に実践してるぅぅぅぅ!!」
ゆうこが絶叫に近い声をあげる。
少年クルスは、微動だにせず、作戦通りの低い声で答えた。
『フッ……』
その渋すぎる声のトーンに、サクの肩が大きく跳ねる。
『母親よ……今、我が覇道は世界征服で多忙を極めている』
「ぶはぁっ!!」
サクが、ついに窒息しかけて床に崩れ落ちた。
母親は、部屋の只ならぬ異様な空気と、微動だにしない息子の背中を見て、一瞬だけ言葉を失うように黙り込んだ。
そして。
『……はいはい』
『じゃあ、プリンは机の上に置いとくわねー』
少年クルスは、ゆっくりと、これ以上ないほど重々しく振り返る。
『……うむ。下がって良いぞ』
そして、すかさず片目を手でガッチリと隠す。
決めポーズ集。
第三番。
『苦しゅうない』
「お母さん、この息子の扱いに慣れすぎてて強すぎるぅぅぅぅぅ!!」
ゆうこの渾身のツッコミが、狭い部屋の隅々まで盛大に響き渡る。
『ちゃんと食べるのよー』
『……善処しよう』
パタン。
静かに、そして容赦なく扉が閉まった。
「…………」
一秒。
二秒の沈黙。
そして。
「あはははははははははははっ!!」
サクの理性が完全に粉々に砕け散った。
床に文字通り転がり、お腹を両手で抱え込み、あふれ出る涙を拭うことすらせずに狂ったように笑い続けている。
「あはははっ! だ、駄目、お腹が引き千切れる!」
「プリン! よりによって世界征服の最中にプリンって!」
「サクさん、もう勘弁してください死んでしまいます!!」
「あははははははっ!!」
「今すぐ俺を記憶喪失にしてください!!」
その笑い声が最高潮に達した瞬間。
パリンッ!!
現実を覆っていた美しい世界が、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。
視界が反転し、気が付けば私たちは再び、見慣れた殺伐とした黒い岩山へと引き戻されていたのだった。




