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第118話『次、クルス』

 その叫びと同時に。


 パリンッ!!


 虚空にひび割れた病院の景色が、まるで薄氷の如く粉々に砕け散っていく。


 「はっ……!」

 現実世界へ引き戻される、ゆうこの荒い呼吸。


 網膜に焼き付くのは、殺伐とした黒い岩山の荒野。

 そして、心配の色を浮かべてこちらを覗き込む仲間たちの顔ぶれ。

 さらには、威容を誇る巨大な大蛇の姿。


 「ゆうこっ!」

 名を呼びながら、サクが地を蹴って駆け寄ってくる。


 「大丈夫っ!?」


 「…………」

 問いかけに答える余裕すらなく。


 ただ、相棒である万能シャベルを杖代わりにして、その場に崩れ落ちるように膝をつくゆうこ。


 「……見られた」

 「え?」


 「おにぎりで熱唱してるところ……満天下に見られた……っ!」


 「何の話を……?」

 サクが怪訝そうに首を傾げる。


 ゆっくりと、絶望に染まった顔を上げるゆうこ。

「私の、尊厳に関わる歴史的黒歴史よぉぉぉぉ!!」


 「黒歴史?」

 「誰もいない深夜のナースステーションで、おにぎりをマイク代わりにして熱唱してたのっ!」


 「…………」

 絶句するサク。その端正な口元が、わずかに引きつる。


 ぴくっ、と。

 「待って」


 見抜いたゆうこが、鬼気迫る勢いでビシッと指を突きつける。


 「笑わないで」

 「…………」


 「絶対に、何があっても笑わないでよっ」

 「…………っ」


 「もうすでに口元が負けてるからね!?」

 「だ、だって……!」


 必死の形相で両手を押さえるサク。しかし、その肩の震えはもう隠しきれない。


 「おにぎりを……マイクに……って……」

 「復唱しないでぇぇぇぇぇ!!」


 「あはっ……!」

 ついに、堰を切ったように漏れ出す笑い声。

 そして。


 「あははははははははっ!!」

 決壊。

 腹を抱え、その場に文字通りへたり込むサク。


 「あはははっ! 無理、お腹がちぎれる! 痛いっ!」


 「笑いすぎぃぃぃぃ!!」

 「だって、ゆうこが一人で真剣に……おにぎり握りしめて……あははははっ!」


 「具体的すぎる情景描写を脳内で再生するなぁぁぁ!!」

 

その横でなんと、ほかてんまでがプルプルと両手で口元を覆い隠している。


 「ご、ごめん……」

 「ほかてん?」


 「笑っちゃ駄目だって、頭では分かってるんだけど……」


 震える肩。

 「おにぎり……が……」


 「お前まで裏切るのかぁぁぁ!!」

 波乱のツッコミが響いたその時。


 「シャァァァァァァッ!!」

 狂騒の中心にいるはずの大蛇が、突如として禍々しい巨体をくねらせ始めた。


 ずずずずずっ……!!

 凄まじい地響きとともにうねる巨体のとぐろ。

 巨大な尾が地面を激しく打ち据える。


 ドンッ!

 ドンッ!


 その巨体が揺れるリズムは、どう見ても腹を抱えて大爆笑しているようにしか見えない。


 「お前が一番ノリノリで笑うなぁぁぁぁ!!」

 怒りのままに万能シャベルを振り上げるゆうこ。


 ――『なるほどのう』

 脳内に直接響いてくる、アルケラの老練な声。


 先ほどまでの戦闘時の緊迫した響きとは違う何か得体の知れない真実に気付いた者の声音だった。


 ――『こやつの特殊性質、ようやく腑に落ちてきたぞぃ』

 「性質って……?」

 戦闘態勢を解かずに、ゆうこが鋭く聞き返す。


 ――『うむ。どうやら、こやつは対象の記憶領域へ直接干渉できるらしい』


 ――『その深層心理から、本人が最も隠したがっておる恥ずべき記憶を探り当て、無理やり意識の表層へ引っ張り出すのじゃ』

 「最悪の悪趣味じゃん!」


 ――『しかも、それだけではない』

 アルケラが深刻なトーンで続ける。


 ――『おそらく、標的にされた者が恥ずかしがれば恥ずかしがるほど……』


 はっと視線を向ける先。

 大蛇の巨体から立ち昇っていた黒く澱んだ酒気が、先ほどよりも明らかに濃密度を増している。


 ――『こやつ自身の魔力へとダイレクトに変換される仕組みのようじゃな』


 「嘘でしょ……」

 ゆうこの身体から、戦闘の熱がサーッと引いていく。


 サクの笑い声も、気まずそうに急速にしぼんでいった。

 「つまり……」


 冷徹な分析を乗せて、クルスが静かに口を開く。

 「人間の最も恥ずかしい記憶を強制的に掘り起こし」


 「その羞恥に狂う姿を特等席で鑑賞しながら」

 「自分だけが一方的にパワーアップしている、と?」


 ――『おそらく、間違いなかろう』


 「…………」

 全員の視線が、一斉に目の前の巨獣へと注がれる。

 大蛇は、ねっとりとした金色の瞳を細め、にったりと嫌らしく笑っていた。


 「害悪すぎるでしょ、この魔物!!」

 岩山を揺るがすゆうこの絶叫。


 他人の黒歴史を大勢の前で晒し上げ、本人が恥のあまり消えたくなる姿を見て愉悦に浸る。

 その上、相手の精神的ダメージがそのまま敵の滋養強壮になるという、底なしの悪質さ。


 「戦闘に入る前の精神攻撃として、反則にもほどがあるでしょ!」


 「シャァァァァァ……」

 満足げに喉を鳴らし、ネトネトと気色悪い笑い声を漏らす大蛇。


 「まだ笑ってる! 味をしめてやがるわ! こいつ!」

 憤慨して地団駄を踏むゆうこ。


 だが、次の瞬間ピタリと、大蛇の不気味なうねりが止まった。


 ギラギラと輝く冷酷な金色の瞳が、ゆっくりと一行の顔ぶれを一人ずつ舐め回すように見据えていく。


 ほかてんを素通りし。

 おゆをかすめ。

 サクをスルーし。


 そして、ぴたり。

 とある人物のところで、その視線が固定された。


 「…………」

 クルスだった。


 「…………」

 微動だにしない大蛇の瞳が、今までで一番いやらしいまでに嬉しそうに細められる。


 「……あっ」

 息を呑むゆうこの小さな呟き。

 背筋を這い上がるような、言い知れぬ悪寒。


 「ねぇ、クルス」

 「……なんでしょうか、先生」


 「あなたさ……」

 おそるおそる、冷や汗を拭いながら尋ねるゆうこ。


 「こういう黒歴史的なやつ、山ほど隠し持ってるわよね?」


 「一切ありません」

 コンマ数秒の遅れもない、見事なまでの即答だった。


 「怪しい! 返事が早すぎる!」

 「私に限って、そのような俗世の恥辱にまみれた記憶など、一切存在しません」


 「めちゃくちゃ色んなものが詰まってそうな人間の否定速度なのよそれ!」


 クルスのこめかみから、一筋の冷や汗がスルスルと流れ落ちる。

 その動揺を逃さず、大蛇はさらにねっとりと、嫌らしい笑みを深めていく。


 にたぁぁぁぁ……と、禍々しく裂けた口が大きく歪んだ。


 「クルス」

 察知したゆうこが、そっと一歩後ずさる。


 「……何でしょうか」

 「たぶん、次回の標的はあなたよ」


 「…………」

 クルスの整った顔から、すべての血の気が一瞬にして引いていく。


 「…………」

 一歩、また一歩と後ろへ下がっていくクルス。


 執念深い大蛇の金色の瞳が、そのわずかな足運びを寸分違わず追いかける。


 さらに一歩。

 じりっ、と足音が響く。


 逃がすまいと、金色の瞳もミリ単位で標的を捉えて離さない。


 「……やめてください」

 掠れた声で、クルスが切実に呟く。


 「シャァァァァァ……」

 「本気で、そういう悪趣味な干渉はやめてください」


 「シャァァァァァ……」

 「俺には精神的揺らぎの材料など何もありませんから」


 「魔物相手に必死で弁解して説得してる!」

 耐えきれなくなったゆうこが、思わず鋭いツッコミを飛ばす。


 「やばいよ、精神的に追い詰められすぎて手段を選ばなくなってる!」


 「先生」

 「なによっ」


 引きつった笑みを浮かべつつも、クルスの声色は凍りつくように真剣だった。


 「今すぐ、あの不愉快な爬虫類を物理的に消滅させてください」


 「急に全幅の信頼を置かれたと思ったら殺意がカンストしてる!」


 その瞬間、世界を切り裂くような、硬質な高周波音が鳴り響いた。


 キィィィィィン……ッ!!


 「…………っ!」

 衝撃に打たれたように、クルスのしなやかな身体がピタリと硬直する。


 「クルスっ!」


 絶叫する仲間たちの声が遠のく中、冷たい金色の光がクルスの瞳を完全に覆い尽くしていく。

 聴覚が消え、世界から色彩が剥ぎ取られ、ただただ純白の虚無が視界を埋め尽くす。


 そして。


 ◇


 暗転した世界に浮かび上がってきたのは――あまりにも狭く、逃げ場のない、ちっぽけな一つの小部屋だった。



挿絵(By みてみん)


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