第117話『上映開始』
サクの表情からも、先程までの闘志が嘘のようにすうっと笑みが消え失せる。
クルスが静かに、足元から這い寄る大蛇の金色の瞳を見据えた。
「麹精霊を捕らえた目的は、純粋な酒造りではなさそうですね」
「じゃあ、いったいなんで……?」
ほかてんが、冷え切った空気の中で小さく呟く。
その問いに答えるように。
蛇は、黒曜石の如き巨大な頭をゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を持って持ち上げた。
眼下には、怯えきって身を寄せ合う麹精霊たちの小さな背中。
その向こうには月明かりに照らされて遥か遠くまで広がる、穏やかな焼酎の国が広がっている。
麹精霊がこの山へ幽閉され。
数が増えれば麓の村々では祭りが成立しなくなり。
命の源である焼酎を造れず。
理不尽な理由も分からないまま、ただ困り果てていく村人たちの姿が目に浮かぶ。
そして、そのすべての悲劇をこの山頂という特等席から、我が物顔で俯瞰して眺められるという事実。
「……嘘でしょ、それ」
ゆうこの顔から、完全に余裕の笑みが消え去っていた。
ほかてんが、怒りに震える瞳で蛇を睨みつける。
「もしかして……。この国の人たちが路頭に迷って困ってるところを、ただ高台から見下ろしたいだけで……。こんなにも多くの麹精霊を、面白半分のために捕まえたの?」
蛇は嘲笑うかのように、何も答えなかった。
ただにたり、と硬質な乾いた鱗の隙間を裂くように、醜悪な口元がどこまでも大きく吊り上がる。
それが小賢しい言葉などよりも、何よりも雄弁に真実を物語っていた。
「…………最低」
ゆうこの喉の奥から、底冷えするような低い声が零れ落ちる。
金銭の強奪のためでもない。
自分たちの縄張りを外敵から守るためですらない。
野生の本能としての生存のためでもない。
ただただ誰かを困らせたい。
無力な者を苦しめたい。
そして、その絶望の顔を見て、ひとりでゲラゲラと笑いたい。
その腐り切った私欲を満たすためだけに、この卑劣な怪物は、焼酎の国中から大量の麹精霊をかき集めていたのだ。
「ずいぶん……」
ゆうこは、愛用の万能シャベルの柄を白亜の関節が鳴るほどにぎりぎりと握り締める。
「しょうもないクソみたいな理由で、とんでもないことしてくれたわね」
ほかてんも一歩、荒れた地面を踏みしめて前へ出た。
「みんな、今すぐ返してよ」
怒怒りに燃える蛇の金色の瞳が、ゆっくりとほかてんへ据えられる。
「その子たちはね」
ほかてんは拳を固く握り締め、爪が手のひらに食い込むのも気に留めない。
「私たちの毎日の焼酎造りを、ずっと一緒に汗を流して支えてくれた、かけがえのない大切な家族で仲間なの」
「だから」
怯えることなく、真っ直ぐに目の前に立ち塞がる巨大な蛇を睨みつける。
「全員まとめて、今すぐ返してもらうからね!」
しばし、山頂の冷たい夜風だけが吹き抜ける、不気味な沈黙が場を支配した。
そして蛇の巨大な瞳がねっとりと、嫌な軌跡を描きながらゆっくりと細くなる。
まるで、新しい最高のおもちゃを見つけた子供のような、底知れぬ残酷な輝きをその双眸に帯びて。
「シャァァァァァ……ッ!」
底意地の悪さを煮詰めたような、ねっとりと楽しげな威嚇の鳴き声が、黒い岩山いっぱいにこだました。
ゆうこはいつでも迎撃できるように万能シャベルの構えを深くする。
サクは背負った弓へ鋭く矢をつがえクルスも呼吸を合わせて静かに腰を落とした。
ほかてんとおゆも、その後ろで一寸の隙もない戦闘態勢を見せる。
いつ、どこから襲ってきてもおかしくない極限状態。
圧倒的な質量を誇る巨体。
陽光を反射して光る、剥き出しの鋭い毒牙。
一撃かすめれば岩をも粉々に砕きそうな、鋼鉄のごとき強靭な尾。
まともに真正面から戦えば、確実に死地に等しいほどの圧倒的な強敵。
ゆうこは、蛇のわずかな筋肉の伸縮や鱗の波打ちも見逃すまいと、瞳を細めてその巨体をじっと見据える。
「来るなら、今すぐ来なさいよ!」
「麹精霊たちは、一匹残らず全部返してもらうから!」
「シャァァァァァ……」
蛇が不気味に喉を震わせて鳴らし、威嚇の度合いを強める。
そして。
「…………」
「…………」
なぜか、猛進してくるはずの巨体がぴたりと動きを止め、何もしてこない。
「……あれ?」
ゆうこが肩透かしを食らったように不審そうに瞬きをする。
蛇はあの不気味な巨大な頭を持ち上げたまま。
ただ、こちらを上からじっと見下ろしているだけだった。
「襲ってこないの……?」
「…………」
冷徹に磨き上げられた金色の瞳が、ゆうこの全身をじっと這い回るように舐め尽くす。
「なんなのよ、その気味の悪い目は……」
蛇の瞳がさらにすぅっと、糸のように細くなった。
「…………」
なんだろう、この感覚は。
背筋の毛穴という毛穴がゾワリと粟立つような、すごく嫌な見られ方だった。
それは、弱肉強食の世界で命を奪うための冷徹な獲物を見る目ではない。
血生臭い殺意に満ちた敵を見る目でもない。
どちらかといえば、もっとタチの悪い子供が道端で見つけたグロテスクな虫を観察するような、何か面白いおもちゃを見つけた瞬間のような。
「……なんか、すごく腹立つんですけど」
ゆうこが不快そうに美しい眉をひそめ、奥歯を噛みしめる。
その瞬間だった。
――『ゆうこっ!』
脳内を切り裂くように、アルケラの鋭い声が響いた。
――『直視するでない、目を逸らせ!』
「え?」
キィィィィィン……!
鼓膜を突き破るような甲高い耳鳴りが爆ぜた。
蛇の金色の瞳が、妖しく不気味な光を放つ。
「っ……!」
ゆうこの身体が稲妻に撃たれたように硬直した。
万能シャベルを握りしめていた指先から、一気に力が抜けていく。
「ゆうこっ!?」
すぐ隣でサクが焦りの色を滲ませて叫ぶ。
けれど、その声が急激に遠ざかっていく。
キィィィィィン……。
世界の色が、音とともに剥ぎ取られていく。
吹き抜ける風の音。
岩肌を打つ木々のざわめき。
怯える麹精霊たちの鳴き声。
仲間たちの必死の呼び声さえも。
まるで深い水の底へ沈んでいくように、輪郭を失ってぼやけていった。
「……なに、これ」
視界のすべてが、まばゆい白に染め上げられる。
そして意識が暗転した次の瞬間。
◇
「…………え?」
ゆうこは、冷たいリノリウムの床の上にぽつんと立っていた。
目の前に広がるのは、どこまでも続く無機質な白い壁。
ぴかぴかに磨かれた白い床。
天井で規則正しく並ぶ蛍光灯の明かり。
鼻をつく、ツンとした消毒液の独特な匂い。
遠くから一定のテンポで響き渡るナースコールの電子音。
あまりにも、見慣れすぎていて、吐き気がするほど日常的な景色。
「ここ……」
ゆうこの焦茶色の瞳が大きく揺れる。
「病院……?」
そこは、かつて彼女が現実世界で身を粉にして働いていた職場だった。
ゆうこは混乱しながら、慌てて辺りを見回す。
「なんでこんなところに……?」
その時。
「早乙女さーん!」
背後から、底抜けに明るい声が飛んできた。
びくっ、と。
ゆうこの肩が激しく跳ねる。
恐る恐る振り返ると、見覚えのある後輩看護師がカルテを抱えたまま、廊下の向こうからパタパタと足音を立てて走ってくる姿があった。
「ちょうどよかったぁ!」
「え、ちょっ……」
「昨日の夜勤のことで、ちょっと確認したいことがあるんですけど!」
「夜勤……?」
その単語を聞いた瞬間。
ゆうこの頭の奥底で、蓋をしていたはずの記憶の箱がガチャンと音を立てて開いた。
遠い昔。
異世界に来る前には、もう綺麗さっぱり忘れていたはずの。
ものすごく。
ものすごく。
思い出すだけで胃に穴が空きそうなどうでもいい記憶が、鮮烈に蘇る。
「…………」
ゆうこの血の気がサーッと引いていき、顔面が青ざめた。
「待って」
とてつもなく嫌な予感がする。
背筋の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出すほどの、特大の予感が。
「その話は、こう、もっと慎重に……」
後輩看護師がぴたりと足を止め、満面の無邪気な笑みで口を開いた。
「早乙女さん、昨日――」
「待って待って待って待ってええぇぇぇぇ!!」
ゆうこは両手を全力で突き出し、相手の言葉を物理的に制止しようとする。
「それ以上言わないで、お願いだから口チャックしてぇぇぇぇ!!」
しかし相手は容赦がない。
すでに脳内で再生されてしまった記憶なのだから、止められるはずがなかった。
後輩看護師は、悪気のない無慈悲な笑顔で続きを口にした。
「誰もいないと思ってナースステーションで――」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
ゆうこの魂の絶叫が、静かな病院の廊下中へ盛大に響き渡った。
その瞬間パチン、と世界が切り替わる。
◇
時計の針は深夜三時を回っていた。
誰もいない、静まり返ったナースステーション。
そこに疲れ切った白衣姿の、一人のゆうこがいた。
パイプ椅子に深く腰掛け。
目の下にクマを作った死んだような顔で。
なぜか夕食用のコンビニのおにぎりを片手にぎゅっと握り締めている。
そして完全にトチ狂ったテンションで、突然おにぎりをマイクのように口元へ構えた。
『本日の深夜勤務ぅぅぅ……!』
現在進行形でそれを目撃しているゆうこの顔面から、さらに残っていた血の気がすべて失われる。
「…………っ!」
過去のゆうこは、さらに調子に乗って続ける。
『生きて帰れる気がしませぇぇぇぇん……! イェーイッ!』
「黒歴史を大音量で再現するなああああ!!」
『エントリーナンバー1番! 深夜のテンションに魂を売った女、早乙女ゆうこ!』
「エントリーした覚えはないからぁぁぁぁ!! 頼むから過去の私を刺し殺して!!」
『それじゃあ聴いてください、
「疲労困憊ラプソディ」!』
「歌わなくていい! 今すぐその喉を潰せぇぇぇぇ!!」
過去のゆうこが。
おにぎりを片手に持ったまま。
誰もいない空間に向けて謎の即興ソングを朗々と歌い始める。
しかもご丁寧に。
当時流行っていた謎の振り付けまで完璧についている。
「…………もう、無理」
現在のゆうこは、ガクガクと震える膝を支えきれず、その場に盛大に崩れ落ちた。
「殺して……」
両手で顔を覆い、フローリングの床に額をこすりつける。
「お願いだから、この記憶だけはこの世から消し去って……神様、仏様、大蛇様……」
すると絶望に打ちひしがれるゆうこの耳に、どこからともなくいやらしい音が届いた。
「シャァァァァァァ……♪」
ぞっとするほど愉快そうな、ねっとりとした鳴き声。
「……え?」
顔を上げると、現実感のない病院の壁が、ぐにゃりと歪み始めていた。
天井の白い蛍光灯がチカチカと点滅したのち、プツリと消え失せる。
清潔感のあった廊下が、ドス黒い不気味な闇へと急速に染まっていく。
そして這い寄る闇の底からあの忌々しい、二つの金色の瞳がふわりと浮かび上がった。
楽しそうに。心の底から。面白がって仕方がなさそうに。
細められた瞳が、絶望するゆうこを見つめている。
「…………」
ゆうこは、この怪物が狙っていた真の目的にようやく辿り着いた。
こいつ命を奪うための恐怖や、肉体を破壊するような恐ろしい幻覚を見せているわけではない。
もっとはるかに、しょうもない。
本人にとっては人生最大の汚点であり、一秒でも早く脳内から消し去りたいと願っている――。
夜中にふと思い出して、布団の中で一人ゴロゴロと悶絶するような、あのどうしようもない黒歴史の数々。
そんな恥ずかしさの結晶を、わざわざ丁寧に掘り起こして大画面で上映している。
「……まさか、お前」
ゆうこの美しい頬が、怒りと羞恥で盛大に引きつる。
金色の瞳が、満足げに嬉しそうに細くなった。
「こいつ……!」
そして静まり返った闇の空間に、ゆうこの魂を削るような絶叫が再びこだました。
「私の黒歴史を勝手に上映会してんじゃねええええええええええ!!」




