第116話『見つけた』
ゆうこは眼前にそびえる黒い岩山を見つめたまま、肺腑の底へと大きく息を吸い込んだ。
「よし」
そしてバチン、と鋭い音が響くほどに両頬を力強く叩く。
「麹精霊、助けに行こう!」
「うんっ!」
ほかてんが小さくも力強く頷いた。
ここへ辿り着くまでの道のりは、あまりにも長かった。
芋ノ里。
麦ノ里。
米ノ里。
黒糖ノ里。
そばノ里。
そして、胡麻ノ里。
巡ったどの土地でも同じように麹精霊たちが忽然と姿を消していた。
最初は、単に神隠しに遭ったかのように数が減っているだけだと思い込んでいた。
けれど、現実は違った。
何者かが明確な悪意を持って意図的に麹精霊を拉致し、集めている。
そして今、奴らの隠れ場所、その行き先までがはっきりと割れた。
「準備はいい?」
ゆうこが背後を振り返る。
サクはすでに弓を手にし、弦の張りを確かめている。
「いつでも」
クルスも静かに頷いた。
「問題ありません」
ほかてんも小さな両拳をキュッと握りしめる。
「絶対に、みんな連れて帰るんだから!」
そしておゆは。
「…………」
いつもの波風立たない穏やかな表情のまま、ただそこに立っている。
ゆうこはわずかに眉間を寄せ、思考を巡らせる。
それから、すぐ傍らに控えていた胡麻ノ里の職人へと歩み寄った。
「すみません」
「ん?」
「お湯、あります?」
「あるにはあるが……」
「ゆうこ?」
おゆが不思議そうに首を傾げた。
その隣で、サクが呆れたように吹き出す。
「ちょっと、一体何をする気なの?」
「いや」
ゆうこは微塵の冗談も交えず、真剣な眼差しで答える。
「万が一に備えて、最強の切り札を用意しておこうかなって」
「誰が切り札ですか」
「あなたよ」
「?」
当事者であるおゆだけが、全く状況を理解できていない。
職人から差し出された小さな水筒を受け取る。
ちゃぷん、と軽やかな水音が響く。
中身はまごうことなき、熱々のお湯。
「よし」
ゆうこはそれを手際よく右ポケットに入れた。
「何がよしなんですか」
「こっちの話」
これで、やれるだけの準備は整った。少々不安要素の残る切り札も含めて。一行は決意を胸に、ポコちん龍の背へと乗り込む。
黄金色の翼が、バサリとダイナミックに広がった。
バサァッ!!
周囲の砂塵を巻き上げるほどの強い風が吹き荒れる。
巨大な竜の身体がふわりと宙に浮き上がり足元の胡麻ノ里が、みるみるうちに豆粒ほど小さくなっていった。
目指す標的はただ一つ。
不気味な黒い岩山。
◇
龍の飛翔に伴い、山へ近づくにつれて、その山の異様さが、網膜にはっきりと焼き付いてくる。
生い茂る木々の数が圧倒的に少ない。
山肌には血を吸ったような黒い岩が剥き出しになり、その冷酷な隙間を縫うように、湿った深い森が広がっている。
「あれは……」
ゆうこが細めた瞳孔の先。
鬱蒼とした森の一角で何かが不自然に白く光った気がした。
「クルス」
「見えました」
主の意図を察知し、ポコちん龍がスルスルと高度を落としていく。
もう一度ちらっ、と重なる木々の隙間で小さな白い光が健気に瞬いた。
ひとつ。
またひとつ。
さらに奥の暗闇でも。
「……まさか」
ほかてんが身を乗り出し、前のめりになる。
「もっと下りて、もっと!」
ポコちん龍が木の枝をかすめるほどの低空まで、慎重に高度を落としていく。
擦れ違う葉のざわめきを越えてようやく、その隠されていた正体が視界に飛び込んできた。
「……いたっ」
ほかてんの絞り出すような声が震える。
ゆうこもまた、息を呑んで喉を鳴らした。
麹精霊だった。
一匹や二匹ではない。
十匹。
二十匹。
いや、それ以上。
森の奥深く。
切り立った黒い岩壁に囲まれた窪地に無数の麹精霊たちが怯えた様子で押し込められていた。
「見つけた……!」
ほかてんの表情がパッと明るい光を取り戻す。
「みんな、無事だ、生きてるよ!」
小さな白い身体が、不安に耐えかねるように身を寄せ合って固まっている。
芋ノ里から。
麦ノ里から。
米ノ里から。
黒糖ノ里から。
そばノ里から。
そして、胡麻ノ里から。
それぞれの土地から消えていった麹精霊たち。
そのほとんど全てがこの閉ざされた空間に集められていた。
「よかった……本当によかった……」
ゆうこも安堵から大きく胸を撫で下ろす。
けれどサクだけは、その硬い表情を微動だにさせず、笑っていなかった。
「……待って」
「どうしたの、サク?」
「おかしくない?」
サクは冷静な目で窪地を舐め回すように見つめる。
「麹精霊たちがここに捕まってるのは分かった。でもさ」
ゆっくりと周囲の暗がりへ視線を動かす。
「こんな連中をさらって、ここに閉じ込めた奴らはどこにいるの?」
「…………」
その鋭い指摘に、ゆうこの表情がサッと険しいものへと変わる。
確かにおかしな話だ。
あんなにも巨大な何かが。
どこを見渡しても、気配すら見当たらない。
その静寂を切り裂くように。
――『ゆうこ』
頭蓋骨の裏側を揺らすように、アルケラの声が直接響いてくる。
いつものふざけた呑気な調子など微塵もない。
――『下じゃ』
「え?」
――『ぼさっとしとらん! 今すぐ真下を見るんじゃ!!』
突き刺さるような警告に、ゆうこは慌てて視線を真下へと急降下させた。
窪地。怯える麹精霊たちの足元。ただの黒い岩だと思い込んでいた地面。その一つの質感が。ゆっくりと、不気味にうねり、動いた。
ずず……、と重々しい摩擦音が響く。
「…………え?」
長い。
あまりにも、途方もなく長い。
無機質な黒い岩の塊だと思っていたそれは。
深い窪地を隙間なくぐるりと囲むように、巨大なとぐろを巻いていたのだった。
気づいてしまう。
麹精霊たちは自然の岩壁に囲まれていたわけではない。
最初から得体の知れない巨大な化け物の、その冷たい身体の内側に閉じ込められていたのだ。
ぞわり、とゆうこの背筋を這い上がるような悪寒が走り抜ける。
そして薄暗い森の奥。おぞましいほどに巨大な頭部がじわじわと、泥から這い出るように持ち上がった。
まだその圧倒的な全貌すら捉えきれない。
ただ、光の届かない暗闇の中で不気味に爛々と輝く二つの金色の瞳だけが恐怖に呑まれるゆうこたちを、冷ややかに見下ろしていた。
◇
「…………」
あまりの威圧感に、誰もが声の出し方を忘れたように硬直していた。
金色の瞳。
その一つを切り取っただけでも、成人した人間の頭部ほどもある大きさだ。
ぬらり、と禍々しい巨大な頭部が、木々の隙間からようやくその全貌を現した。黒に近い、深く澱んだ深緑色の鱗。
一枚一枚が分厚い岩の盾のように硬く、まばらに差し込む陽の光を受けて不気味な鈍光を放っている。
そして、その長い身体はどこまで続いているのか、視界の端ですら把握できない。
「……大蛇?」
ゆうこが、乾燥した喉を鳴らしてようやく声を絞り出した。
――『ただの蛇ではないぞぃ』
アルケラの響く声にも、隠しきれない僅かな緊張の色が混じっている。
――『並大抵の年月ではない。途方もない歳月を生きておる化け物じゃ』
――『それに、この強烈な酒気……』
巨大な蛇の巨体から重く濁った黒い靄のような酒気が、ゆらゆらと妖しく立ち昇っていた。
「酒気……?」
ゆうこが目を細め、鼻腔をくすぐる匂いを嗅ぎ取る。
これまで里のあちこちで感じてきた芳醇な酒の香りとは、根本から異なっていた。
甘くもない。香ばしくもない。ただ、悍ましいほどに重い。
息を吸い込むだけで、胸の奥の澱みに何かが重く沈んでいくような、不快で毒気を含んだ酒気だった。
その時。
「きゅ……っ!」
静寂を破るように、窪地の中から怯えた声が響いた。
「きゅっ!」
「きゅぅ……!」
上空の竜に気づいた麹精霊たちが、助けを求めるように小さな身体を跳ねさせる。
「みんな!」
ほかてんが我慢できずに身を乗り出した。
「今、助けに来たよ!」
その声に反応して、麹精霊たちが一斉に不安の声を上げて騒ぎ始める。
しかし。
ずずずず……。
それにあわせるかのように、巨大な蛇の身体が冷徹に動いた。
幾重にも巻かれたとぐろが僅かに締め付けられ、狭まっていく。
逃げ場を失った麹精霊たちが、悲鳴を上げながらさらに中央へと追いやられていく。
「きゅぅぅっ!」
「ちょっと、待ってよ!」
ゆうこの表情が怒りに満ちた険しいものへと変わる。
「何してんのよ、そんなことして!」
蛇は言葉を発さない。
ただ冷酷に、金色の瞳を細めるだけだった。
「…………」
ゆうこは言いようのない違和感を覚え、眉をぎゅっと寄せる。
何だろう、この反応は。
目の前の怪物は、怒っているようには到底見えない。
侵入者に対して威嚇しているわけでもなさそうだ。
むしろ。
「……笑ってる?」
サクが、信じられないものを見る目で呟いた。
「え……?」
言われてもう一度、その顔を凝視する。
巨大な蛇の口元が絶望する獲物を見て楽しむかのように、ほんの僅かに、人間の悪意のように吊り上がっていた。
そして、恐怖に怯える麹精霊たちが小さく震えるたび。
あの冷酷な金色の瞳が、愉悦に満ちたように細かくなぞられていく。
「…………」
ゆうこの頬が、怒りと恐怖で引きつった。
「まさか……」
隣で同じ光景を見ていたほかてんも、遅れてその真実に気づく。
「こいつ、まさか……!」
蛇が楽しげに再びその巨体をうねらせる。
ずずずずず……。
追い詰められた麹精霊たちが恐怖のあまりに身を縮こまらせる。
「きゅぅぅぅぅっ!」
恐怖に満ちた一斉の悲鳴が森に木霊する。
その瞬間。
巨大な蛇の喉元が、低く震えて鳴った。
「シャァァァァ……」
それはまるで他者の絶望を味わい、底知れぬ歓喜に浸っているかのような。
言いようのない愉快さに満ちた笑い声のようだった。
「…………」
背筋を凍らせながら、ゆうこは確信する。
「こいつ……、楽しんでやがる」




