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第115話『俺たちは見た』

 「…………」


 ゆうこは、喉の奥まで競り上がってきた言葉を飲み込んだまま、ただ呆然と視線を彷徨わせることしかできなかった。


 これまで麹精霊たちが何者かに連れ去られているという可能性について、頭の片隅で嫌な予感を巡らせてはいた。


 けれど目の前に突きつけられたこの現実味はほとんど、完全な答えそのものだった。


 「……連れていかれたんだ」


 隣で、ほかてんが乾いた声で呟きを落とす。

 震える指先で、ぐっと固く拳を握り締める。


 「自分たちから勝手に隠れたんじゃない」

 「誰かに……こんなの、無理やりだ」


 感情を押し殺すように、ゆうこは静かにその場へ立ち上がった。


 「うん」


 それだけを短く告げると、重く立ち込める森の奥深くへと視線を鋭く向けた。


 「いるね」

 「この先に、確実に」


 誰もが知る穏やかな日常を脅かし、小さな麹精霊たちを捕らえ、各地の里から次々と連れ去っている何者かが。


 サクが素早い手つきで弓へ指を掛ける。弦が小さくかすれた音を立てる。

 クルスも険しい表情を引き締め、いつでも動けるよう重心を落とした。


 おゆは一切の言葉を発さず、ただ黙ったまま、底知れぬ闇を孕んだ森の奥を鋭く睨みつけている。


 けれどゆうこは衝動に身を任せることなく、すぐには足を踏み出さなかった。


 「今日は、ここで捜索を打ち切ろう」

 「えっ……?」


 不意を突かれたように、ほかてんが慌てて振り返る。


 「行かないの? すぐにでも助け出さないと」

 「行きたいよ、もちろん」


 ゆうこは静かに、しかし力強く首を横に振る。


 「今すぐこの足で追いかけたいけどさ」

 視線を足元の泥へと落とす。


 そこには、深くえぐられたような大量の痕跡が残されていた。

 どれもが同じ不気味な方向へ、執拗に続いている。


 「相手が何者なのかも、どれほどの巨体なのかも、私たちにはまだ何も分かっていない」

 「それに……」


 一呼吸置いてから、ゆうこはそばに立つほかてんを見据えた。


 「まだ、そばノ里以外にも里が残っているんでしょ?」


 「……うん」

 ほかてんは小さく、しかし重々しく頷いた。


 「だったら、まずはそっちを確認したい」

 「同じような被害が起きている場所が、この先にも他にもあるかもしれないから」


 その言葉を聞き届けたサクも、弓からそっと指を離した。

 「賛成ね。冷静な判断だわ」


 「ここまで来れば、敵の足取りや逃げ道は見つけたようなものだもの。焦る必要はないわ」


 クルスも静かに、深く頷き返した。


 「しっかりと準備を整えてからでも、決して遅くはありませんね」


 ほかてんは悔しさを噛み殺すように、名残惜しげに森の奥を睨みつけている。


 それでも、やがて覚悟を決めたように、小さく息を吐いて頷いた。


 「……分かった」

 「絶対、全員で戻ってこよう」


 「もちろん」

 ゆうこは頬を緩め、力強く笑ってみせた。


 「麹精霊は、一人残らず全員連れて帰るんだから」


 張り詰めていた空気を背負いながら、一行は来た道を静かに引き返していく。


 けれどその誰も、気付くことはなかった。

 遥か後方何重にも折り重なる木々の間の、底知れぬ暗闇の中ひっそりと、しかし確かな気配を伴ってゆっくりと、何かが動いたということに。


 ざり……。


 乾いた落ち葉が重なり合い、擦れ合う嫌な音が響く。


 それだけ。

 月明かりの届かない場所で、具体的な姿は見えない。

 獣の唸り声すら、一切聞こえない。


 ただゆうこたちが森の境界から完全に姿を消すまで。

 その得体の知れない「何か」は冷酷な瞳で、暗闇の奥からじっと彼女たちを見つめ続けていた。


 ◇


 鬱蒼とした森をすっかり抜け出た頃には暮れゆく空は、少しずつ艶やかな茜色に染まり始めていた。


 「はぁ……っ」

 ゆうこは大きく肺腑の空気を入れ替えるように、深呼吸をひとつ吐き出した。


 ただ森の外へ出ただけだというのに、全身にまとわりついていた妙なプレッシャーがようやく霧散していく。


 ふと振り返ってみれば夕陽の黄金色の光を浴びた森は、先ほどまでの底知れぬ不気味さが嘘のように、どこまでも静まり返っていた。


 「結局、あれは何だったんだろうね」

 ほかてんが不安を拭うように呟いた。


 「まだ、確証はない」

 ゆうこは頭の中で情報を整理しながら、首を横に振る。


 「でも、麹精霊たちが自分の意思でいなくなったわけじゃないってことだけは、もうほぼ間違いないと思う」


 振り返れば、それぞれの里で見た光景が脳裏によみがえる。

 芋ノ里では、皆が異様なまでに森を恐れていた。

 麦ノ里では、働く仲間だけがこつ然と姿を消していた。

 米ノ里では、地面をえぐるような巨大な何かが這った跡。

 黒糖ノ里では、その巨大な這い跡と、精霊たちの足跡が交差していた。


 そして直前に訪れたそばノ里では激しく逃げ回った足跡と、何かを引きずった痛々しい痕跡。


 一つひとつの断片が確実に、一つの恐ろしい真実へと近づいている。


 「他に、残ってる里はあるの?」

 ゆうこが真剣な表情で尋ねる。


 「あと一つだけあるよ」

 ほかてんは気を取り直すように答えた。


 「険しい山の向こう側にある、胡麻ノ里だ」

 「胡麻の焼酎なんてものまであるの!?」


 「あるよ、もちろん!」

 ほかてんは胸を張って誇らしげに言った。


 「この国じゃ、ありとあらゆるものが極上の焼酎に生まれ変わるんだからさ!」


 「焼酎の懐の広さ、広すぎない……?」

 ゆうこが思わず苦笑を漏らす。


 そのおかげで、張り詰めていた空気の糸が、少しだけ和らいだ。


 しかし今からあの山を越えて向かえば、現地に到着する頃には完全に日が暮れてしまうだろう。


 そこで一行は、そばノ里の厚意に甘え、その日は一晩しっかりと体を休ませてもらうことになった。


 そして翌朝。朝もやの中、一行は再びポコちん龍の屈強な背中へと乗り込んだ。


 バサァッ!!

 空気を切り裂くような轟音とともに、巨大な黄金の翼が力強く広がる。

 乗組員を乗せた巨体が、朝霧を払いながら一気に大空へと舞い上がった。


 目指すは、いよいよ最後の目的地。

 胡麻ノ里。


 ◇


 険しい山並みを一つ越えると眼下には、緑豊かな小さな盆地が広がってきた。


 整然と区画された畑がパッチワークのように続き、その中央には、いくつかの古い酒蔵が身を寄せ合うように建っている。


 「見えてきたよ!」

 ほかてんが目を輝かせ、眼下を指差す。


 その合図に応えるように、ポコちん龍がゆっくりと風を読んで高度を下げていく。


 そしてドスンッ、と重い地響きとともに里の外れの開けた場所へ見事な着地を決めた。


 「よし、行こう!」

 ゆうこが身軽に龍の背から飛び降りる。


 しかし着地した瞬間に、肌を刺すような言い知れぬ違和感を覚えた。


 「……なんだか、すごく静かだね」

 人の気配はある。


 職人たちもそれぞれの持ち場で懸命に働いている。

 立ち並ぶ酒蔵の煙突からは、香ばしい蒸気も空へと上がっている。


 けれど誰一人として笑っていない。

 すれ違う人々は皆、どこか生気を失ったような疲れ切った表情を浮かべていた。

 ほかてんも、ただならぬ雰囲気に気付いて辺りを見回す。


 「どうしたんだろ、みんな……」


 その時。

 「ほかてんか?」


 背後から、張り詰めた声が掛けられた。

 振り返ると、一人の若い男性職人が、慌ただしく酒蔵から駆け寄ってきた。

 ほかてんは迷わずその男の元へ駆け寄る。


 「麹精霊のこと、どうなったか聞きに来たの!」


 男は問いかけに答えず、苦悶の色を浮かべて一瞬だけ言葉を飲み込んだ。


 そして、震える唇を開く。


 「……遅かったよ」

 「え……?」


 「昨日の夜、とうとう」

 男は悔しそうに拳を固く握り締める。


 「最後の一匹まで、この里からいなくなった」

 その言葉を聞いた瞬間、ゆうこたちの表情が血の気引いたように変わった。


 「また……起きちゃったんだ」

 ほかてんはその場に膝をつきそうになりながら俯く。


 しかし男は首を横に振り、さらに言葉を続けた。


 「ただ。今回は、今まで起きていた被害とは何かが違う」


 はっと顔を上げたゆうこが、男を真っ直ぐに見据えた。


 「何が違うの?」


 「ああ」

 男は無言のまま、里の外に広がる荒涼とした平原を指差した。


 「俺たちは、この目で見たんだ」

 「……何を?」


 「麹精霊たちが、どこかへ連れ去られていく瞬間を」

 「……!!」


 張り詰めた空気が、一行の背筋を冷たく走る。

 「いったい誰に!?」


 ほかてんは逸る気持ちを抑えきれず、一歩前へ詰め寄った。


 けれど、男は申し訳なさそうに、力なく首を横に振る。

 プライドを打ち砕かれたような悔しさがそこにじんでいた。


 「分からないんだ」

 「夜更けで周囲は真っ暗で、奴の姿の細部までは見えなかった」


 「ただ……」

 男の顔が、恐怖に再び強張る。


 「もの凄く、でかかった」

 「あんなの、獣の大きさじゃない」

 「音もなく、重そうに地面を這っていた……」


 男の言葉を聞いた瞬間、ゆうこの脳裏にこれまで巡ってきた里で目撃した数々の痕跡が、一筋の線となって鮮烈に蘇ってきた。


 「そいつは、どっちへ行ったの?」

 ゆうこは覚悟を決めた声音で尋ねた。


 男は無言のまま、ゆっくりと腕を伸ばした。

 指し示した先には、険しくそびえる山の向こう側がある。


 霧深い原生林。

 さらにその奥には、太陽の光を拒むかのように異様な黒い岩山がそびえ立っていた。


 「……あっちだ」

 男は絞り出すような声で呟く。


 「怯える麹精霊たちを連れ去って」

 「奴らはあの山の向こうへ、消えていった」


 「…………」

 ゆうこは言葉を失い、静まり返ったままその不吉な方角を見つめ続けた。


 米ノ里。

 黒糖ノ里。

 そばノ里。

 そして胡麻ノ里。

 それぞれの場所で発見した、奇妙で不気味な痕跡たち。


 それらの点と点が。

 今、ようやく一つの決定的な場所へと繋がった。


 「ほかてん」

 ゆうこが信頼を込めて相棒の名前を呼ぶ。


 「うん」

 「行こう」

 もう、迷う理由はどこにもなかった。


 奪われた麹精霊たちが今まさに、あの冷たい山の向こう側で息を潜めている。


 そして、それらを連れ去った元凶である何者かも。きっと、同じ場所に潜んでいるはずだ。


 すべての謎を解き明かし、仲間を取り戻すための旅が、いよいよ最終局面へと動き出す。



挿絵(By みてみん)

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