第114話『引きずられた跡』
黒糖ノ里を出発してから、しばらくの時が流れていた。
ポコちん龍の眼下に広がっていた一面のサトウキビ畑は、やがて緩やかな起伏を描く丘陵地へとその姿を変えていく。
「……あれ?」
ゆうこが驚きに目を凝らす。
広大な丘一面を覆い尽くしているのは、可憐な白い花々だった。
爽やかな風が吹き抜けるたび、無数の花びらが、さわさわと優しい音を立てて波打つ。
「綺麗……」
サクが思わずといった様子で呟きを零した。
「あれ、全部そばの花だよ!」
ほかてんが目を輝かせ、ぴょんと跳ねながら指差す。
「もうすぐ、そばノ里だ!」
その言葉に合わせ、ポコちん龍がふわりとゆっくりと高度を下げていく。
やがて雲間から見えてきたのは、これまでのどの里よりも少しこぢんまりとした、温もりのある集落だった。
重厚な石造りの酒蔵が立ち並び、家々の軒先には干されたばかりのそばの束がきれいに並べられている。
水車の横では、巨大な石臼がゴトゴトと重い音を立てながらゆっくりと回っていた。
どこか素朴で、そしてどこか厳かな静けさに満ちた里。
ドスンッ、と重い地響きとともに、ポコちん龍が地面へ降り立つ。
「到着!」
ゆうこがその背中から軽やかに飛び降りる。
その着地の瞬間。
ずずずずずずっ!!
空気を震わせるような、豪快でリズミカルな音がどこからともなく響いてきた。
「……ん?」
ゆうこが不審に思いながら辺りを見回す。
ずずずずずずずずっ!!
「何、この音……?」
音の出どころを探るように、ゆうこはさらに首を巡らせた。
すると、道の脇に設置された長い木製の卓を囲み、大勢の職人たちが一斉にすごい勢いでそばをすすっている光景が飛び込んでくる。
「ずずずずずずずっ!!」
「…………」
その圧倒的な迫力に、ゆうこは思わずその場で固まった。
全員が無言。
ただひたすらに、目の前のそばを猛烈な勢いですすり続けている。
「何してるの、あれ?」
「昼ごはんだよ」
ほかてんが何でもないといった調子で答える。
「普通だった!」
ゆうこが盛大な脱力を感じながら思わず叫んだ。
先日の麦ノ里における命がけの樽担ぎ競走を経験したせいで、すっかり身構えてしまい、何か特殊な儀式なのだと勘違いしてしまったらしい。
「ほかてん?」
その時一人の女性が、そばの器を持ったままふっと立ち上がった。
年齢は三十代ほどに見えるだろうか。
短く切りそろえられた黒髪が風に揺れ、その腰には小さな酒瓶が誇らしげに下げられている。
「久しぶりだね」
「ナズナさん!」
ほかてんがパッと顔を輝かせ、嬉しそうにそのもとへ駆け寄る。
ナズナと呼ばれた女性は、小さく頷きながら、ほかてんの背後に控えるゆうこたちを鋭い視線で見回した。
「新しい旅人かい?」
「うん!」
ほかてんが元気よく頷くと、ふっと表情を引き締め、真剣なまなざしを向けた。
「ナズナさん、実は……。麹精霊のことで、聞きたいことがあるの」
その言葉が発せられた瞬間、ナズナの手でピタリと箸の動きが止まった。
「……やっぱり、その話かい」
「ここでも、減ってるの?」
「減ってるどころの話じゃないよ」
ナズナは険しい表情のまま、持っていた器を音を立てて卓へ置いた。
「いなくなったのさ、一匹残らずね」
「一匹もいないの?」
信じられないといった様子で、ゆうこが尋ねる。
「ああ」
ナズナは重々しく頷いた。
「一週間前までは、まだ何匹かの姿を確認できていたんだ。それが、ある晩を境に、まるで霧のように全部消えてしまったのさ」
ゆうこたちは顔を見合わせ、言葉を失う。
まただ、と胸の奥が冷たく沈んだ。
先日の黒糖ノ里で起きたことと全く同じだ。
「何か、変わったことは起きなかった?」
「……あるよ。言葉で説明するより、見せた方が早い」
ナズナの返答は迷いなく早かった。
そして、自ら先頭に立って歩き出す。
ゆうこたちは静かにその後を追った。
活気のある里の区画を抜け、風情あるそば畑の間を進んでいく。
白い花びらが静かに揺れる美しい景色の中を抜け、やがてナズナがピタリと足を止めた。
「ここだよ」
「……え?」
ゆうこが目を向けた瞬間、その表情が強張る。
そこだけが異様だった。
周囲の美しい景観とは裏腹に、そこだけそば畑が凄まじい勢いで荒れ果てていたのだ。
何十本もの緑の茎が無残に折れ曲がり、地面には見慣れたあの不気味な太い這い跡が生々しく残されている。
「やっぱり……」
ほかてんが小さく息を呑み、青ざめた顔でその跡を見つめた。
米ノ里。
黒糖ノ里。
そして、このそばノ里。
同じ悪夢のような存在が、確実にここへも足を踏み入れている。
だが、前の里とは違う決定的な違和感が、その周囲に漂っていた。
「……何これ」
ゆうこがしゃがみ込み、息を詰まらせる。
黒い土の地面いっぱいに、無数の白い粒が散らばっていたのだ。
一粒や二粒といったレベルではない。
何十個、いや、軽く百を超えている。
「これって、もしかして……麹の欠片?」
「うん……間違いない」
ほかてんが震える手でその粒に触れ、顔を真っ青にする。
「こんなにたくさんの欠片が落ちるなんて……」
さらに、太い這い跡の周囲をよく見ると、小さな足跡が無数に乱れ飛ぶように残されていた。
あちらへ逃げ、こちらへ転がり。
何者かから必死に逃げ回るように、地面を懸命に跳ね回った生々しい痕跡。
そして、そのすべての小さな足跡は、例外なく一様に、太い這い跡のすぐ近くでぷつりと途切れていた。
「…………」
誰もが言葉を失い、静まり返る。
これまでの里で見た光景とは決定的に違う。
ここでは、何が起きたのかが、想像を絶する恐怖とともに嫌でもありありと脳裏に浮かんでしまう。
「逃げたんだ……」
ほかてんが唇を噛み締めながら、か細く呟いた。
「私たちの大切な麹精霊たちが……」
「何か恐ろしいものから、必死に逃げようとして……!」
ぎゅっ、とほかてんの小さな拳が固く握りしめられる。
ゆうこもまた、言葉もなく地面に落ちた白い欠片を見つめ続けていた。
何者かがこの里へやってきた。
麹精霊たちは危険を察知して逃げ出した。
けれど――逃げ切れなかったのだ。
その緊迫した空気の中、少し離れた場所で足を止めていたサクが、低く引き締まった声を漏らした。
「……ゆうこ、こっちに来てくれ」
その声のトーンは、いつもの冷静さよりも明らかに重かった。
「どうしたの、サク?」
「これを見てほしい」
促されるまま近づいたサクの足元には、太く頑丈な一本の木が立っている。
その幹に、何者かが強烈な力で締め付けたような、深い螺旋状の擦り跡が生々しく残されていた。
異常なほどに太い。木の幹をぐるりと一周してしまうほどの巨大な幅。
そして、その表面には、夜露とは違う異様な粘り気を持った、ぬらりとした透明な液体がドロリと付着している。
「……あまり触らない方がよさそうですね」
クルスが静かに一歩引き、慎重な足取りで言った。
ゆうこは無言でこくりと頷く。これが一体何の液体なのか、今の段階では見当もつかない。
ただ一つ言えるのは、地面を這い進んできた巨大な何かが、ここで一度この木へ身体をぐっと巻き付けたということだ。
そう仮定すれば、この奇妙な状況の辻褄が完璧に合ってしまう。
「相当な大きさの生き物ね、これ……」
サクが険しい顔で木の上部を見上げる。
ゆうこもそれに倣うように、同じように首を上げて梢のほうを見つめた。
これまで私たちは、姿形の見えない不気味な何かをずっと追い続けてきた。
けれど、その正体の輪郭が、ここに来て急激にはっきりと形を持ち始めている。
地面を這いずる、想像を絶するほど巨大な身体。
そして、各地の心優しい麹精霊たちを次々と拉致していく残酷な目的。
「……ねぇ」
ほかてんが顔を上げ、静かに口を開いた。
その幼い声の響きには、今まで聞いたこともないほどの激しい怒りと決意が混じり合っている。
「これ以上、他の里でこんな悲惨なことが起きる前に……!」
ほかてんは強いまなざしでゆうこをまっすぐに見据えた。
「絶対に見つけ出して、止めるんだ」
「うん……!」
ゆうこは迷いのない瞳で力強く頷く。
「絶対に見つけよう」
「そして、さらわれた麹精霊たちを、全員必ず連れて帰るんだから」
冷たい風が再び吹き抜ける。
一面の白いそばの花が、一斉にざわめくように揺れた。
その花々の隙間を縫うように、あの太い這い跡だけが、まるで不気味な何処かへ私たちを誘う悪意の道標のように、さらに深い森の奥へと続いていた。
ゆうこはその不気味な這い跡の先を、呼吸を忘れたようにじっと見つめ続ける。
何重にも折り重なった鬱蒼とした木々が太陽の光を遮り、たとえ昼間だというのに、奥へ進めば進むほど周囲は急速に薄暗さを増していた。
「……本当に、この先へ行くの?」
不安そうに、ほかてんが小さな声で尋ねる。
ゆうこは少しの間だけ深く考え込んでから、しっかりと頷いてみせた。
「うん、行くよ」
「でも、無謀な深追いは絶対にしない」
「まずは、この不気味な跡がどこまで続いているのか、その行き止まりを確認するだけだから」
「分かった、気をつけて進もう」
一行は呼吸を潜め、十分な警戒を払いながら静かに森の中へと足を踏み入れた。
先頭を進むのは、優れた五感を持つサク。
その後を、ゆうことほかてんがぴたりと寄り添うように続く。
さらに後方では、クルスとおゆが周囲の気配を鋭く探りながら、一定の距離を保って殿を務めていた。
ざっ、ざっ。
湿り気を帯びた深い落ち葉を踏みしめる乾いた音だけが、不気味なほど静まり返った森に木霊する。
先ほどまで遠くに聞こえていたはずの、そばノ里の人々の活気ある声も。
ゴトゴトと回る水車の心地よい音も。
いつの間にか完全に掻き消え、周囲は静寂に支配されていた。
「……静かすぎるね」
サクが足を止めずに低い声で呟く。
ゆうこも不安げに頷いた。静かすぎるのだ。上空を飛ぶはずの鳥の鳴き声すら、一切聞こえない。
けれど、そんな静寂の世界にあって、地面に刻まれた太い這い跡だけは、一切の迷いなく容赦なく森の奥へと伸びている。
さらに、足元には不規則に、ぽつり、ぽつりと白い麹の欠片が落ちていた。
「こっちで間違いなさそうだね……」
ほかてんがしゃがみ込み、落ちていた欠片をそっと拾い上げる。
驚くべきことに、その数は森の奥へ進めば進むほど、まるで増えていくかのように多くなっていた。
一粒。
二粒。
五粒。
そして十粒。
やがて、その異様な気配のなかで、ゆうこがピタリと足を止める。
「……みんな、ちょっと待って」
目の前。
低い位置に伸びた一本の木の枝に、何かがふわりと引っ掛かっていた。
それは真っ白で、まるで綿毛のように柔らかそうな小さなものだった。
「これって……」
ほかてんがハッと息を呑み、小走りで駆け寄る。
震える指先で、それをそっと手に取った。
次の瞬間、ほかてんの顔色から血の気がサーッと引いていく。
「麹精霊の身体の一部だ……!」
「えっ……!?」
ゆうこの表情が恐怖で激しく強張る。
ほかてんは慌てた様子でブンブンと首を横に振った。
「だ、大丈夫!」
「怪我をして千切れたわけじゃないと思う……!」
「麹精霊って、すごく慌てたり、何かに激しくぶつかったりすると、こういうふうに身体の一部が剥がれ落ちることがあるの!」
「……そっか、よかった……」
ゆうこは胸に手を当て、小さく息をついて胸を撫で下ろす。
けれど、もしそれが本当だとしたら。
今まさにこの場所を通過していった麹精霊は、それほどまでに尋常ではないほどの恐怖を感じ、必死にパニック状態で逃げ惑っていたということになる。
「やっぱり、追われていたんだ……」
ほかてんが唇を噛み締め、か細く呟いた。
その緊迫した空気を切り裂くように、少し離れた場所でクルスが足を止めて振り返った。
「……皆さん、こちらを見てください」
「何か見つかったの?」
声を掛け合い、ゆうこたちがその場に駆け寄る。
クルスが指し示す足元には、これまで地面を這っていた太い這い跡とはまったく別に、幾重もの細い筋が無数に残されていた。
それはまるで、怯えた小さな生き物が地面の上を激しく引きずられながら、必死に抵抗して進んでいったかのような生々しい痕跡。
「これって……!」
サクが険しく眉を寄せ、鋭い眼光を向ける。
地面の筋は一本や二本ではない。
二本、三本……さらにその向こうにも、無数の筋が平行して走っている。
そして、その引っかき傷のような筋の周囲には、小刻みに震えるような小さな足跡が複雑に散らばっていた。
「……これは、麹精霊の足跡だ……!」
ほかてんの声が、恐怖と怒りで大きく震えていた。
小さな足跡の主たちは、ついさっきまで必死に自分の足で地面を蹴り、逃げようともがいていた。
しかし、ある一定の場所を境に、その足跡がぷつりと途絶えている。
代わりに、そこから先の地面には、ただ絶望的に引きずられたような痛々しい跡だけが、どこまでも冷たく続いていたのだった。




