第113話『途絶えた足跡』
ゆうこたちは米ノ里を後にした。
再びポコちん龍に乗り込み、次なる目的地へと舵を切る。
目指すは、黒糖ノ里。
米ノ里を離れてしばらくすると、眼下の景色がまた少しずつ変わり始めた。
青空を映していた水田の群れが次第に遠ざかり、代わりに大地を埋め尽くしたのは、どこまでも続く背の高い緑色の植物だった。
「……あれ全部、サトウキビ?」
ゆうこが眼下を覗き込み、驚きの声を漏らす。
「そうだよ!」
ほかてんが元気よく頷いてみせた。
「黒糖ノ里は、あのサトウキビから作った黒糖を使って焼酎を造ってるの!」
「黒糖から焼酎か……」
ゆうこの口元が、期待に満ちてじわじわと緩んでいく。
「絶対美味しいじゃん、それ」
「またすぐ酒のこと考えてるわね、この食いしん坊は」
サクが呆れたように小さく息を吐き、やれやれと首を横に振る。
「だって黒糖だよ?」
「すごく甘いんだよ?」
「それが焼酎になるんだよ?」
「……あれ?」
ゆうこが不意に動きを止め、可愛らしく首を傾げる。
「黒糖焼酎って、甘いのかな?」
――『ふぉっふぉっふぉっ』
ちょうどその時、静寂を裂くようにアルケラの声が三人の頭の中へ直接響いた。
――『黒糖そのものの糖分が、そのまま酒に残るわけではないぞぃ』
――『じゃがな、黒糖由来の柔らかな芳香や独特の風味はしっかりと楽しめる。これもまた実に味わい深い焼酎じゃよ』
「へぇ……!」
ゆうこはますます興味を惹かれたように、きらきらとした瞳で眼下を見つめる。
その間にも、ポコちん龍は広大なサトウキビ畑の海原の上を滑るように進んでいった。
ざわぁぁぁぁ……。
心地よい風を受け、どこまでも続く背の高い葉が一斉にざわめき立つ。
まるで緑色の穏やかな海のようだった。
その光の波のただ中に、ぽつりぽつりと小さな集落の屋根が見えてくる。
「あそこだ!」
ほかてんが小さな指で前方を指し示す。
「あれが黒糖ノ里!」
ポコちん龍が翼を畳み、ゆっくりと高度を下げていく。
しかし、地面に近づくにつれて、ゆうこは言い知れない妙な違和感に気付いた。
「……あれ、あの煙はなんだろ?」
里のあちこちから、白い煙がもくもくと上がっている。
一本や二本の規模ではない。
無数の煙が、重なり合うように空へと昇っていた。
「もしかして、火事!?」
ゆうこが心臓を跳ねさせ、慌てて手すりに身を乗り出す。
「違う違う、落ち着いて!」
ほかてんが楽しげに笑い声を上げる。
「あれはね、今まさに黒糖を作ってる窯の煙なの!」
「黒糖を……?」
ポコちん龍がふわりと地面へ降り立つ。
ドスンッ、と重い着地音。
ゆうこが身軽に飛び降りた瞬間、全身を包み込むように変化が訪れた。
ふわぁっ、と。
圧倒的な熱を帯びた甘い香りが、鼻いっぱいに一気に広がる。
「…………」
あまりの芳醇さに、ゆうこの足がぴたりと止まった。
すんすん、と小さく鼻を鳴らす。
もう一度、愛おしそうに鼻を動かす。
「ここ……」
すんすん、とさらに香りを吸い込む。
「里全体が、ものすごく美味しい匂いする!」
「里を丸ごと食べるわけじゃないんだからね」
サクがすかさず冷ややかなツッコミを入れる。
「里を食べる!?」
ほかてんが思わず盛大に吹き出した。
そんな賑やかな三人の横を、おゆとクルスが静かに、足音もなく通り過ぎていく。
その時だった。
「おや、これは?」
巨大な黒糖の釜を相手に作業をしていた一人の女性が、こちらに気付いて手を止めた。
「ほかてんちゃんじゃないか」
「あっ!」
ほかてんがパッと顔を輝かせ、大きく両手を振る。
「ミツさん、久しぶり!」
四十代ほどの、健康的な日焼けをした女性だった。
頭にしっかりと布を巻き、手には長い木べらを片手に持っている。
ほかてんは嬉しそうに駆け寄り、その姿を見上げる。
「本当に久しぶりだね!」
「今日はどうしたんだい、こんな所に。芋ノ里の祭りはどうだったんだい?」
その温かい問いかけに、ほかてんの表情がほんのわずかに曇った。
「そのことで、ミツさんに聞きたいことがあるの」
「ん?」
ミツが木べらを休め、首を傾げる。
ほかてんは真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「黒糖ノ里の麹精霊……今年、何匹来た?」
「…………」
その瞬間、ミツの手がぴたりと止まった。
それまで休むことなく、ぐつぐつと煮える黒糖を混ぜ続けていた木べらが、完全に静止する。
「……やっぱり」
ほかてんが小さく、重く呟いた。
その微動だにしない反応だけで、答えを知るには十分すぎた。
ミツは大きな釜からゆっくりと視線を外し、遠くを見るような目をしている。
そして、静かに告げた。
「一匹も、来てないよ」
「えっ……?」
ゆうこの表情が、凍りついたように固まった。
芋ノ里では三匹。
麦ノ里では二匹。
米ノ里では一匹。
そして、この黒糖ノ里では――。
ゼロ。
「一匹も、来なかったの……?」
「ああ」
ミツは小さく、しかし重く頷いた。
「今年の麹精霊祭りには、誰も姿を見せなかったんだよ」
どこからか、一陣の風が吹き抜ける。
ざわざわと、周囲のサトウキビ畑が一斉に大きく揺れた。
その葉擦れの音を聞きながら、ゆうこは背筋に冷たいものが走るのを覚える。
(……待って)
脳内で数字が綺麗に並ぶ。
芋。三匹。
麦。二匹。
米。一匹。
黒糖。ゼロ。
ただ単純に数が減っているわけではない。
里を巡れば巡るほど、状況は確実に最悪の方向へと悪化している。
ミツは表情を引き締め、さらに言葉を続けた。
「それだけじゃないんだよ」
「……まだ、何かあるの?」
ミツは視線を向けたまま、サトウキビ畑のさらに奥を指差した。
「昨日の夜のことさ」
「畑の中から、妙な音が聞こえてきたんだ」
ゆうこたちの視線が、一斉にその方向へ集まる。
「妙な音って……?」
「ああ」
ミツは眉間に深いしわを寄せた。
「何か、とてつもなく大きなものが……」
言葉を選びながら、記憶をたぐるように続ける。
「まるで、地面を這いずり回るような、重くて気味の悪い音だったよ」
「…………」
ゆうこ。
サク。
クルス。
そして、ほかてん。
四人の脳裏に、あの悪夢のような光景が鮮明に蘇る。
それは、米ノ里の泥の上で見つけた、あの不気味で太い跡だった。
「……その音、どっちから聞こえたの?」
ゆうこがわずかに声を震わせて尋ねる。
ミツは持っていた木べらを近くの台に置き、サトウキビ畑の闇のような奥を指差した。
「あっちの方向だよ。夜中だったし、不気味だったから見には行かなかったけどね」
「朝になってから恐る恐る畑を確認したら、何本ものサトウキビが無残に倒されていたのさ」
「案内してもらえる?」
「ああ、構わないよ。こっちにおいで」
ミツを先頭に、一行は緊張感を漂わせながらサトウキビ畑の内部へと足を踏み入れた。
背の高い葉が左右から覆いかぶさり、先ほどまで頭上に広がっていた明るい青空が一気に狭くなっていく。
ざわ……。
ざわ……。
風が吹くたび、硬質な長い葉が激しく擦れ合う音が耳を打つ。
「なんか……急に空気が変わったね」
ゆうこが腕をさすりながら呟いた。
「昼間だからまだ耐えられるけど、夜だったら絶対に入りたくないわね、こんな場所」
サクも周囲の薄暗い景色を警戒した目で慎重に見回す。
しばらく木々の間をかき分けて進むと、ミツがピタリと足を止めた。
「あそこだよ」
その先だけ、緑の壁が不自然に押しつぶされていた。
一本。
二本。
――どころの騒ぎではない。
何十本もの太い茎が根元からなぎ倒され、うねるように畑の中に一本の生々しい道ができあがっていた。
「……これ、は」
ほかてんの顔色が見るみる強張っていく。
ゆうこも言葉を失い、その場にしゃがみ込んだ。
柔らかな土の上には、信じられない光景が広がっている。
細長く、そして異様なほどに大きくうねった、巨大な這い跡。
「同じだ……」
それは、米ノ里で目撃したものと酷似していた。
クルスが無言でその跡の横へ膝をつき、じっと観察する。
「幅も、深さも、あの時とほぼ同じですね」
「じゃあ、同じ何かがここにもやって来たってこと?」
「その可能性は、極めて高そうです」
クルスは静かに、しかし断固とした口調で答えた。
ゆうこは息を呑み、その這い跡を目で必死に追った。
サトウキビ畑の奥へ。
さらに、深い闇の奥へ。
やがて、人の踏み込めないような深い森の中へとそれは消えている。
「……また、森だ」
ほかてんが怯えたように小さく呟いた。
芋ノ里。
米ノ里。
そして今回の黒糖ノ里。
麹精霊たちが忽然と姿を消した場所には、決まってすぐ近くに森が存在している。
その時だった。
「ねえ、ゆうこ」
サクが少し離れた場所でしゃがみ込み、低い声で呼んだ。
「これ、見て」
サクは指先で、慎重に何かをつまみ上げる。
それは、微かに光を放つ白い粒だった。
ゆうこの表情が激変する。
「これって、麹の欠片……!」
ほかてんがパッと顔を上げ、急いで駆け寄る。
「間違いない、本物だよ!」
小さな欠片は、またしてもあの巨大な這い跡のすぐそばの泥に落ちていた。
「これで、二ヶ所目……」
ゆうこはゆっくりと立ち上がり、拳を握り締める。
米ノ里だけなら、ただの偶然で片付けられたかもしれない。
けれど、黒糖ノ里でも全く同じものが見つかった。
巨大な何かが地表を這った生々しい跡。
そのすぐそばに無造作に落ちている、麹精霊の欠片。
そして、行き場を失ったかのように姿を消していく麹精霊たち。
「やっぱり……」
ほかてんが悔しそうに唇をぎゅっと噛み締める。
「誰かが意図して、麹精霊を連れ去ってるの……?」
「まだ完全に断定はできないけれど」
ゆうこは覚悟を決めたように力強く頷いた。
「その可能性は、さっきよりもずっと高くなったと思う」
ミツの険しい表情は、さらに強張っていく。
「いったい、何のためにあんな小さな精霊たちを……」
誰も、その問いに答えることはできなかった。その理由だけは、まだ霧の中のままだ。金銭のためなのか。
それとも特別な焼酎造りのためなのか。
あるいは、まったく別の恐ろしい目的なのか。
思考の海に沈みかけたその時、別の異変が起きる。
「……ん?」
おゆが突然、ピタリと足を止めた。
「どうしたのおゆちゃん?」
ゆうこがハッと振り返る。
おゆは微動だにせず、じっと地面の一点を見つめていた。
「ここだけ、先ほどの跡とは少し違う気配がします」
「えっ?」
一行は息を殺してその場に集まった。
確かに、太い這い跡のすぐ横の泥の上に、小さな窪みがいくつも不規則に残されていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
まるで、何か小さな生き物が必死に地面を跳ねるようにして進んだような、そんな足跡。
ほかてんが目を見開き、信じられないものを見るように覗き込む。
その場にしゃがみ込み、震える指先でそっと土の窪みへ触れた。
「これ……間違いないよ」
「麹精霊の足跡だ!」
「本当……!?」
ゆうこも身を乗り出して覗き込む。
小さな足跡は、あの巨大な這い跡のすぐ隣を怯えるように並走していた。
しかし、十歩ほど先を進んだその場所で――。
ぷつりと、まるでかき消されるように途絶えていた。
「……ここから先が、ない」
サクが息を呑み、絶句したように呟く。
ゆうこは途絶えたその場所を食い入るように見つめた。
必死に逃げようとしていたのか。
それとも、後ろから何かに追いつかれていたのか。
あるいは、その瞬間に文字通り何かに捕まってしまったのか。
真相はわからない。
けれど、たった一つだけ揺るぎない事実がある。
麹精霊と、あの巨大な何者かは、間違いなく同じ場所にいた。
「……次の里へ行こう」
ゆうこは覚悟を決めたようにスッと立ち上がった。
ほかてんが驚いたように振り返る。
「もうここを出るの? まだ調べられるんじゃ……」
「ううん」
ゆうこは森の奥へ飲み込まれていく這い跡をまっすぐ見据えた。
「ここでこの跡を直接追いかけることもできるかもしれない」
「でも、今の私たちにはまだ分からないことが多すぎるよ」
「もし他の里にも同じ跡が残されているなら、もっと多くの手掛かりが見つかるはずだもの」
サクも静かに、しかし力強く頷く。
「私も、その方が賢明だと思うわね」
クルスが懐から地図を取り出しながら尋ねた。
「では、次はどちらへ向かいますか?」
ほかてんは少し考え込むように宙を見上げ、すぐに答えを出した。
「次は、『そばノ里』に行こう! ここからなら、そんなに遠くないはずだよ」
「決まりね」
ゆうこは迷いなく頷いた。
こうして、一行は四つ目となる黒糖ノ里を後にする。
芋。
麦。
米。
黒糖。
里を巡るたびに、麹精霊が消え去った謎は、少しずつ冷たい輪郭を持ち始めていた。
そして次に向かう、そばノ里。
そこでゆうこたちは、これまでとは決定的に異なる、新たな痕跡を目の当たりにすることになるのだった。




