第112話『白い欠片の道標』
ゆうこは水田の泥濘んだ脇にしゃがみ込み、澄んだ水が満ちる水路を覗き込んだ。
さらさらと耳をくすぐる水のせせらぎ。
水底を縫うように泳ぐ小さな魚の群れ。
揺らめく水草の緑。
どこをとっても、平穏な農村の昼下がりであり、差し迫った異変の気配など微塵も感じられない。
「その子、いつもここに来てたんですか?」
「ああ」
ゲンは深くしわの刻まれた老いた頷きを返す。
「朝になるとな、決まってこの辺りで遊んでおったわい。水が好きな子でのう」
ふと、老人の厳格な表情がほんの少しだけ緩む。
「わしが田んぼへ精を出して来ると、いつの間にか頭の上に乗っかってきよったんじゃ」
「かわいい……」
ゆうこは思わず頬を緩ませ、小さく息を漏らす。
だが和らいだその笑顔は、次の瞬間に凍りついたように消え失せた。
「三日前から、急に来なくなった……」
「ああ」
「何か、いつもと変わったことは?」
「変わったことか……」
ゲンは太い腕を組み、白髪混じりの頭を悩ましげに捻る。しばらくの沈黙のあと。
「そういえばのう」
老人は力なく顔を上げた。
「姿を消す前の日のことじゃ」
「やけに落ち着きがなかった」
「落ち着きが、ですか?」
「うむ。何度も青空を見上げたり、田んぼの泥の中へ必死に身を隠したりしてな」
ゲンは白いたすきを掛けた肩を震わせ、苦渋の色を滲ませた眉を寄せる。
「あれはただの気まぐれじゃない。何かに、得体の知れない何かに猛烈に怯えているようにも見えた」
その老人の言葉に、ほかてんは緊迫した面持ちでゆうこを振り返る。
「芋ノ里のときと同じだ……」
「うん」
ゆうこは硬い表情のまま頷く。
思い返せば、あの芋ノ里の麹精霊もそうだった。
不気味にざわめく森の気配を感じながら、ずっと身体を小刻みに震わせていたのだ。
麦ノ里では人間の目を盗むように、仲間たちの群れだけが忽然と姿を消している。
そして、直前に訪れた米ノ里では数日前まで愛らしく跳ね回っていた麹精霊が、正体不明の恐怖に怯えた末に突如として消え失せた。
点と点とバラバラだった現象が、音を立てて一つの線へと繋がり始めていた。
「ゆうこ」
少し離れた場所から、サクの澄んだ声が響く。
「これ、何かしら」
二枚の水田に挟まれた、人が一人通れるほどの細いあぜ道。
サクはその冷たい地面の一点を凝視していた。ゆうこたちは足音を殺して彼女の元へと駆け寄る。
「どうしたの?」
「ここを見て」
サクが伸ばした指先の先。泥の乾きかけた地面の上にはまるで巨大な何かが這いずり回ったような、生々しい跡が残されていた。
細長く執念深く曲がりくねったうねり。それはあぜ道を斜めに横切り、田んぼの境界を容赦なく踏み荒らしている。
「……嘘、何これ」
ゆうこは思わずしゃがみ込み、その跡にそっと手をかざした。
人間の手のひらよりも、遥かに太い。
いや、それどころか成長した人間の胴体ほどもある巨大な幅があった。
地表を這う圧倒的な質量を持つ何かが、豊かな土を力任せに押し潰し、ねじ伏せながら進んだ痕跡だった。
「こんなもの、昨日の夕方には絶対になかったぞ」
ゲンの声が、恐怖に引きつるように低く沈む。
「じゃあ……」
ほかてんは緊張で息を呑みながら、その不気味な跡の延伸を辿った。
水田の泥から固いあぜ道を越え、さらに村の境界を越えて向こう側へ。
その先にあるのは――生い茂る深い深い森だった。
「また……森だ」
ゆうこは乾いた唇を舐め、掠れた声を漏らす。
芋ノ里でも。米ノ里でも。怯える麹精霊たちが視線を向け、そして消えていったその先には、必ずあの不気味な森が口を開けていた。
偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎている。
クルスは音もなくしゃがみ込み、冷えた指先でその跡の感触を慎重に確かめた。
「かなり大きいですね……」
「巨大な動物の仕業かな?」
「いえ、分かりません」
クルスは青白い顔のまま首を横に振る。
「少なくとも、この這いずった跡の形状だけでは、通常の獣の足跡とは断定できませんね」
ゆうこも重々しく頷く。今の段階では、憶測の域を出ない。この泥を抉った正体は何なのか。
それが本当に、麹精霊たちの連続失踪と直接関係しているのか。
まだ、確証は何一つない。
ただ一つ言えるのは。これが、この旅で初めて見つかった目に見える物証だということだった。
「……よし」
ゆうこは膝に力を込め、決意を秘めて立ち上がる。
「この跡を、少しだけ追ってみよう」
「本気? 森に入るの?」
ほかてんが不安そうに眉をひそめる。
「奥深くまで踏み込むわけじゃないわ」
ゆうこは鬱蒼と茂る緑の壁を見据える。
「まずは、この道がどこまで続いてるのか、その入口だけでも確かめるの」
「それなら、私も行く!」
ほかてんは小さく気合を入れるように頷いた。
サクは背負っていた弓の仕儀を確かめ、クルスもまた無言のまま静かに身構える。
そして張り詰めた一行の足元でサクが、地面に散らばるもう一つの異変に気づいた。
「……待って、みんな」
「今度は何?」
サクはしゃがみ込み、泥の中から慎重に何かを拾い上げた。
それは、微かに淡い光を放つ小さな白い粒だった。指先に乗るほど儚く、真珠のように美しい欠片。
「これって……」
ほかてんの表情が一変し、息を呑む。怯えるようにそっと手を伸ばした。
「麹精霊の……」
手のひらの上に乗る小さな白い粒を、全員が息を詰めて見つめる。
「身体から零れ落ちる、麹の欠片だよ」
「そんな……」
ゆうこの顔から、血の気がサーッと引いていく。
その儚い欠片は他でもない、地面に残されたあの不気味で太い這いずり跡の、まさに真上に落ちていた。
偶然なのか。
それとも――。
この暴力的な跡を残した何者かと、麹精霊たちの失踪には、逃れられない因果関係があるのか。
答えは、まだ闇の中だった。
けれど、ゆうこたちは初めて霧の向こうへと続く確かな手掛かりをその手にしたのだった。
ゆうこたちは、冷たく湿った地面に残された這いずり跡を忠実に辿り、一歩一歩と歩みを進める。
豊かな田んぼの間を抜け。足場の悪い細いあぜ道を越え。やがて、人の気配が途絶える深い森の入口へとたどり着いた。
その境界線を一歩跨いだ瞬間、周囲の空気が劇的に変わる。
上空を分厚く覆い隠す古代の巨木。
足元をじめじめと濡らす、腐葉土の重い匂い。
村から聞こえていた祭りの喧騒も、水田を潤す水の音も、まるで嘘のように少しずつ遠ざかっていく。
「……すごく、暗いね」
ほかてんは心細そうに身を縮こまらせ、ゆうこの衣の裾をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫、離れないでね」
ゆうこは振り返り、優しく声を掛けながら仲間たちを鼓舞する。
最前線を慎重に進むサクは、地面に刻まれた太い跡を鋭い眼光で追っていた。
冷酷に土を抉った跡は、迷うことなく森の奥の闇へと真っ直ぐ続いている。
その不気味な道の途中には。
ぽつり、ぽつりと儚く散らばる白い麹の欠片が、冷たい地面に点々と転がっていた。
「やっぱり……」
ほかてんの表情が悲痛に曇る。
「この先の暗いところへ、連れていかれちゃったのかな……」
「まだ、そうと決まったわけじゃないわ」
サクは冷静さを保ちつつ、静かに首を振る。
「でも、これ以上なく調べる価値はありそうね」
一行はさらに森の深部へと足を踏み入れた。
その時、それまで先頭を歩いていたクルスが、ピタリと足を止める。
「……皆さん、少し待ってください」
「どうしたの、クルス?」
ゆうこは振り返り、息を整える。
クルスは青白い指先で、前方の一点を指し示した。
「跡の様子が、変わっています」
「え……?」
言われるがままに視線を落とすと、それまで一本の太い線として続いていた這いずり跡が、ある地点を境にして、いくつもの枝分かれを見せていた。
右へ。
左へ。
蜘蛛の巣のように張り巡らされ、さらに森の奥深くへと拡散している。
「……何これ、嘘でしょ」
ゆうこは眉を強く寄せ、混乱の色を隠せない。
「一体、何匹の怪物がいたっていうの?」
「それは……現時点では何とも言えません」
クルスは片膝をつき、地面の微細な凹凸を指でなぞる。
「同じ巨体が何度も往復した可能性もあれば、別々の何かがここで合流した可能性もあります」
ゆうこは不安に駆られながら周囲の鬱蒼とした木々を見回した。
どれが本命の跡なのか見た目の記憶だけでは、もはや判断のしようがない。
しかも、わずかに先へ進んだその場所で這いずり跡は、まるで嘘のようにプツリと完全に途切れていた。
「……消えちゃった」
ほかてんが絶望感を滲ませて呟く。
足元には厚く積もった大量の落ち葉があるだけで、その先へ何かが進んだ痕跡は微塵も残されていない。
道標だったはずの麹の欠片すらも、この場所を最後に綺麗さっぱり途絶えていた。
「うーん……」
ゆうこは苦い表情で腕を組み、唸り声を上げる。
せっかく見つけ出した唯一の手掛かりだったというのに、これ以上の追跡は、どうあっても不可能だった。
その沈黙を破るようにサクが周囲の木々を見回しながら、静かに口を開いた。
「ねぇ、ゆうこ」
「なに?」
「芋ノ里でも、麹精霊たちはあの森を極度に怖がっていたのよね?」
「うん、ずっと震えてた」
「そして米ノ里では、こんな不気味な跡が森へと続いていたわ」
サクは顎に手を当て、思考を巡らせる。
「だったら、他の里にも同じような隠された跡があるんじゃないかしら」
「……なるほど!」
ゆうこの瞳に、ふっと強い光が戻る。
一つの里だけで起きたことなら、ただの偶然で片付くかもしれない。
けれどもし複数の里で、これと全く同じ痕跡が発見できたとしたら――。
「もっとたくさんのことが見えてくるかもしれない!」
ゆうこは力強く頷いた。
ほかてんも希望を取り戻したように小さな拳を固く握りしめる。
「そっか! じゃあ、次の里へ行こうよ!」
「次の里って、どこだっけ?」
「『黒糖ノ里』だよ!」
「黒糖ノ里……!」
ゆうこの目が一瞬だけ嬉しそうに輝く。
「なんだか、すごく美味しそうな名前!」
「そこにつられるのね、相変わらずだけど」
サクは思わずクスリと笑う。
そのおかげで、張り詰めていた重苦しい空気がほんの少しだけ緩んだ。
ゆうこたちはこれ以上の深追いを諦め、一度この森を引き返すことを決断する。
未だに、麹精霊たちをこっそり連れ去っているものの正体は分からない。
何のために。一体どこへ幽閉しようというのかも。けれど芋ノ里。麦ノ里。米ノ里。
三つの里を泥まみれになって巡ったことで。
ゆうこたちは、ようやく一つの大きな真実へと辿り着き始めていた。
麹精霊たちが消えているのは、ただの迷子などではない。
人知れぬ何者かによって明確な悪意と意図を持って、組織的に集められているのだ――。




