第111話『一匹だけ』
ガンバに案内されたのは、麦畑のすぐ隣に建つ大きな酒蔵。
木造の重い扉を開けた、その瞬間。
ふわっ、と。
鼻腔をくすぐる、香ばしい焙煎の匂い。
「わぁ……」
思わずゆうこの口から、感嘆の息が漏れる。
薄暗い蔵の中には、人の背丈ほどもある大きな甕や、年季の入った木樽がずらりと並ぶ。職人たちが慌ただしく行き交い、奥の蒸留器からは勢いよく白い蒸気が立ち昇っていた。
芋ノ里とは、香りからして根本的に違う。
あちらが甘く、どこか土の温もりを宿す香りなら、こちらは大地を焼いたような力強い香ばしさだ。
「同じ焼酎なのに、全然違う……」
ゆうこは興味深そうに目を丸くし、きょろきょろと辺りを見回す。
「だろ?」
ガンバが自慢げに胸を張り、豪快に笑った。
「原料が変わりゃ、酒も変わる!」
「それが焼酎の面白ぇところだ!」
そう言いながら、棚からずしりと重そうな一升瓶を取り出す。
透明な液体が、瓶の中でとぽとぽと揺れる。ガンバは手際よく小さな杯を並べ、琥珀色のそれとは違う、澄んだ麦焼酎を注ぎ始めた。
とく、とく、とく……と、心地よい音が響く。
「まずは、そのまま飲んでみな」
「いただきます」
促されるまま、ゆうこは冷えた杯を手に取る。
鼻先へそっと近づけると、先ほどよりもダイレクトに香ばしさが広がる。
「……いい匂い」
香ばしい。
それでいて、芋焼酎よりも圧倒的にすっきりとしている。
期待を胸に、ゆうこは少しだけ口に含んだ。
「…………」
広がるのは、麦の柔らかな香りと、ふわりと鼻へ抜ける清涼感。
そのあとから、じわりと追いかけてくるほんのりとした甘み。
そして最後は、まるで雪解け水のようにすっと消えていく。
「美味しい!」
ゆうこの表情がぱっと明るくなり、声のトーンが跳ね上がる。
「芋焼酎とは全然違う!」
「そうだろ、そうだろ!」
自分が褒められたわけでもないのに、ガンバは嬉しそうに腕を組む。
その隣では、サクが涼しげな横顔で杯を傾けていた。
「これ、好きかも」
「おっ!」
ガンバがガタリと身を乗り出す。
「分かってるじゃねぇか、銀髪の姉ちゃん!」
「もう一杯どうだ!」
「いただくわ」
「即答!?」
思わずゆうこがツッコミを入れる横で、サクは動じることなく二杯目を受け取る。
そのさらに隣では、クルスが静かに杯を鼻に近づけ、じっくりと香りを確かめていた。
「確かに飲みやすいですね」
「だろ!」
ガンバはますます機嫌を良くし、大きな背中を揺らす。
その時だった。
「おゆさんもどうですか?」
一人の職人が、穏やかな笑みを浮かべて声を掛けた。
「ありがとうございます」
おゆが上品に杯を差し出す。
しかし。
ゆうこの視線が、職人のもう片方の手でピタリと止まった。
そこには。
こう々と湯気の立つ、小さな急須。
「待って」
ゆうこは真顔になり、低い声を発する。
「それ、何?」
「お湯ですけど」
「下ろして」
「え?」
「今すぐ静かに下ろして」
ゆうこは一歩踏み出し、両手をぴしっと前へ突き出した。
「絶対に、おゆに近づけないで」
職人が目を白黒させ、激しく困惑する。
「お湯割りにしようかと……」
「ダメぇぇぇぇぇぇ!!」
ゆうこの絶叫が、木造の酒蔵いっぱいに反響した。
「な、なんで!?」
「麦ノ里を守りたいなら、その急須を置いて!」
「そんな危険物扱い!?」
「今の私たちにとっては間違いなく危険物なの!!」
当事者であるおゆは、そんな修羅場をよそに、ただ静かに首を傾げる。
「私は別に構いませんが」
「あなたが一番構って!!」
限界を迎えたゆうこのツッコミに、サクが杯を持ったまま耐えきれずに吹き出した。
「あははははっ!」
何も事情を知らない麦ノ里の職人たちは、ぽかんと口を開けたまま揃って首を傾げている。
結局。
おゆの麦焼酎は、何の迷いもなく冷たい水で割られることになった。
「……美味しいです」
「よかったぁ……」
ゆうこは全身の力を抜き、盛大に胸を撫で下ろす。
一体なぜ、この世界で焼酎を一杯飲むだけで、命がけの緊張を強いられなければならないのか。
そんな騒がしいハプニングを挟みつつ、一行は麦ノ里の極上の酒と料理を心ゆくまで堪能していった。
そして。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、酒蔵を出る頃には、初夏の太陽が空高く昇り始めていた。
「ごちそうさまでした!」
ゆうこが深く頭を下げる。
「おう!」
ガンバは眩しそうに目を細め、豪快に笑った。
「米ノ里の連中にもよろしく言っといてくれ!」
「それと」
ふと、ガンバの大きな声のトーンがわずかに真剣な響きを帯びる。
「麹精霊のこと、何か分かったら教えてくれ」
「うん」
ゆうこは力強く頷いた。
「必ず」
約束を交わし、一行は再びポコちん龍の背へと乗り込む。
黄金色の巨大な翼が、バサァッ!! と力強く広がった。
激しい風が巻き起こり、巨体がゆっくりと大気へと浮かび上がっていく。
眼下に広がるのは、どこまでも続く黄金色の麦畑。
その海の真ん中で、ガンバたちが小さな点になりながらも、懸命に腕を振っていた。
「また来いよぉぉぉ!!」
「次は三周走ろうぜぇぇぇ!!」
「絶対走らないからぁぁ!!」
ゆうこの必死の叫び声を背後に残し、ポコちん龍は次なる目的地へ向けて空を蹴った。
目指すは、豊かな水田に囲まれた「米ノ里」。
そこで待っているのは、また違った味わいの焼酎と、そして――。
消えた麹精霊へと繋がる、新たな手掛かりだった。
ポコちん龍は麦ノ里を離れ、暖かな南風に乗って大空を滑空していく。
しばらく進むと、それまで眼下を覆っていた黄金色の麦畑が、少しずつその姿を消していった。
代わりに広がってきたのは、どこまでも続く眩しいまでの水面。
「わぁ……!」
ゆうこは思わず身を乗り出し、窓の外に目を奪われる。
どこを向いても水田、水田、水田。
澄み切った青空をそのまま映し出した田んぼが、初夏の陽の光を受けてきらきらと輝いている。
その間を細い水路が蜘蛛の巣のように走り、そよ風が吹くたびに、実りかけた緑の稲穂が波のようにゆっくりと頭を揺らしていた。
麦ノ里が力強い黄金色の世界なら、ここは水と緑に包まれた、どこまでも静寂な土地だった。
「綺麗……」
サクもまた、うっとりとした瞳で眼下を見つめる。
「日本酒の国を思い出すわね」
「私も思った」
ゆうこは小さく頷く。
どちらも主役は「米」を使う酒だ。
だからこそ、似たような美しい景色になるのかもしれない。
けれど、田んぼの向こうに点在する建物は、明らかに様子が違っていた。
大きな蒸留器。
無骨な煙突から立ち昇る白い蒸気。
軒先に並ぶ無数の酒甕。
そこには確かに、焼酎の国ならではの独特の気配がしっかりと混ざり合っている。
「ここが米ノ里だよ」
ほかてんが前方を指差して嬉しそうに告げる。
「米から焼酎を造ってる里!」
「日本酒と同じお米なのに、焼酎になるんだね」
ゆうこが興味深そうに首を傾げる。
すると、そのタイミングで――。
――『ふぉっふぉっふぉっ』
アルケラの老練な声が、三人の頭の中へ直接響いてきた。
――『同じ米から生まれても、日本酒と米焼酎では造り方が異なるからのう』
――『じっくり醸して造る日本酒と、そこからさらに熱を加えて蒸留する米焼酎』
――『同じ米の命を使いながら、まったく違う酒に化けるというわけじゃ』
「へぇ……」
感心したように、ゆうこは眼下の水田を見下ろす。
同じ材料から生まれる、まったく異なる酒の形。
それもまた、この旅を通じて知った酒の面白さだった。
やがて、ポコちん龍が里の入口付近へふわりと降り立つ。
ドスンッ、と重い着地音。
「着いた!」
ほかてんが真っ先に飛び降り、ゆうこたちもそれに続いて地面に降り立った。
しかし。
「……あれ?」
ゆうこは不思議そうに小首をかしげる。
麦ノ里では、巨大な樽を担いだ男たちが朝から爆走していた。
芋ノ里では、祭りの準備に向けて大勢の人が走り回っていた。
それなのに目の前の米ノ里は、信じられないほど静まり返っていた。
水車が、ことん、ことんと緩やかに回っている。
さらさらと水路を流れる水の音が、やけに心地よく耳に届く。
軒先では老人が椅子に深く腰掛け、のんびりと茶を啜っていた。
道端の日陰では、一匹の猫がうとうとと昼寝を貪っている。
「……平和」
ゆうこがぽつりと呟く。
「すっごく平和だね」
ほかてんが得意げに笑った。
「米ノ里は、いっつもこんな感じでのんびりしてるんだよ」
「麦ノ里との温度差すごくない?」
「向こうが年中暑苦しいだけ」
「本人たちに聞こえてたら怒られるよ!」
そんな他愛のない会話を交わしながら石畳の道を歩いていると、ふと田んぼの脇にぽつんと一人の老人が立っているのが目に留まった。
腰を深く曲げ、じっと稲穂の間を見つめている。
「……?」
ゆうこは自然と足を止めた。
老人は微動だにしない。
何か大切なものを探し求めるように、何度も何度も、自分の手で稲穂を優しくかき分けている。
ほかてんもまた、その背中に気付いて声を張り上げた。
「あれ……?」
「ゲンさん?」
呼ばれた老人が、ゆっくりと首を巡らせて振り返る。
「おぉ……ほかてんか」
その皺の刻まれた顔には、隠しきれない疲労の色が深く滲んでいた。
ほかてんが心配そうに駆け寄る。
「どうしたの?」
「何か探してるの?」
「……ああ」
ゲンと呼ばれた老人は、力なく小さく頷いた。
そして、再び痛切な想いを込めて田んぼへ目を向ける。
「麹精霊じゃよ」
その一言に、ゆうこたちの表情が強張る。
「やっぱり、ここでも……」
ゲンは無言のまま、重そうに頷いた。
「今年の祭りに姿を見せたのは、一匹だけじゃった」
「一匹……」
麦ノ里よりもさらに少ない。
しかし、老人の話はそれで終わらなかった。
「それだけなら、まだ不幸中の幸いじゃったが……」
「え?」
ゆうこが息を呑んで聞き返す。
老人は震える指先で、田んぼの奥深くを指差した。
「三日前までは、もう一匹おったんじゃ」
「毎朝、あそこの水路までお茶目に遊びに来ておった」
「それが……」
老人の指が、ずるりと力なく下がる。
「前触れもなく、突然姿を消したのじゃ」
「…………」
ゆうこは言葉を失い、どこまでも広がる水田を見つめた。
心地よい風が吹き抜ける。
青々とした稲穂が、さらさらと美しい音を立てて揺れる。
あまりにも穏やかで、あまりにも静かな、平和な里。
けれど。
この美しい風景の裏側で、ここでも確実に――。
麹精霊は、音もなく消えていたのだった。




