第110話『一杯だけなら』
ポコちん龍が里の外れへと重々しく降り立つ頃には、朝の風物詩である『樽担ぎ競走』もいよいよ終盤の盛り上がりを迎えていた。
「うおおおおおおおっ!!」
「ここで負けるかぁぁぁぁっ!!」
「あと一息だ、踏ん張れぇぇぇっ!!」
自らの巨体ほどもある巨大な酒樽を肩に食い込ませた男たちが、ものすごい土煙を豪快に巻き上げながら、目の前の道を猛然と駆け抜けていく。
ズドドドドドドドッ!!
「近い、近すぎるっ……!」
あまりの迫力に、ゆうこは悲鳴を上げながら慌てて真後ろへ飛び退いた。
その直後。
先頭をデッドヒートの末に競り勝った大男が、地響きを立てる勢いで地面を強く蹴り上げる。
「ぬおおおおおおおっ……!」
ドンッ!!
ついに迎えたゴール。
男は弾みで数歩駆け抜けたのち、肩に担いでいた超重量の巨大樽を、そのまま豪快に地面へと降ろした。
ドスンッ!!
再び大地が底から大きく揺らめく。
「……いまの、地震?」
「ただの樽の着地音よ」
隣でサクが、冷ややかな声音で淡々と指摘する。
「ただの樽で地面を揺らさないでほしいんだけどっ!」
大男は荒々しく息を整えながら、熱を帯びた額の汗を逞しい腕の筋肉で豪快に拭い去った。
焼け焦げるような太陽の下で鍛え上げられた褐色の肌。
ちぎれんばかりに盛り上がった太い腕。
服の上からでもはっきりとわかる極限まで鍛え抜かれた肉体は、どう見ても穏やかな焼酎職人というより、過酷な戦場を生き抜く戦士のそれだった。
「今年もトップでゴールしたのはこの俺だぁぁぁっ!!」
男が力強く天に向かって拳を突き上げる。
「おおおおおおおっ!!」
周囲を取り囲む観衆から、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
その様子を見つけて、ほかてんがパッと顔を輝かせて大きく手を振る。
「ガンバさーん!」
「ん?」
呼ばれた大男が、ぎょっとしたようにこちらへと視線を向ける。
「……おまっ、ほかてんじゃねぇか!」
顔いっぱいに豪快な笑みを浮かべ、そのままズカズカと大きな足音を立てて歩いてくる。
「おいおい、久しぶりだな!」
「ガンバさん、相変わらず元気に走り回ってるね!」
「当たり前だろ!」
ガンバは自慢げに分厚い胸をそびえ立たせる。
「最高の麦焼酎を仕込むためには、何よりもまず強靭な足腰が必要不可欠だからな!」
「やっぱり焼酎造りにそのムキムキな筋肉必要なの!?」
たまらず、ゆうこが会話の隙間に割って入る。
ガンバは初めて見る顔であるゆうこに気づき、興味深そうに視線を据えた。
「……んで、そっちは誰だ?」
「あ、私はゆうこ。よろしくね」
ゆうこは軽く会釈を返す。
「いろんなお酒の国を巡りながら、旅をしてるんだ」
「ほうっ!」
ガンバの険しい顔立ちが、一瞬にしてパッと明るい笑みに変わる。
「酒を求めて旅する若者か! 気に入ったぜ!」
バシンッ!!
「いったぁ……!?」
歓迎のつもりか、強烈な一撃が背中に叩き込まれ、ゆうこの身体は前のめりによろめいた。
「力加減っていうものを覚えてよっ!」
「がっはっはっは!」
豪快に笑い飛ばすガンバの横で、ほかてんもつられて楽しそうに目を細めている。
どうやら二人は古くからの気心知れた間柄らしい。
「で?」
ガンバは太い腕を組み直し、低く響く声で尋ねる。
「芋ノ里の職人が、わざわざこの麦ノ里まで何の用だ?」
その問いかけに。
先ほどまで弾けていたほかてんの笑顔が、ふっと薄曇っていく。
「……実はね、麹精霊のことで、ガンバさんに聞きたいことがあるの」
その言葉を聞いた瞬間、ガンバの表情がピクリと引き締まった。
それは本当に、ほんの一瞬の出来事だった。
けれど、鋭い観察眼を持つゆうこには、はっきりと分かってしまった。
さっきまで豪快に笑っていた男の双眸に、隠しきれない重い不安の色がよぎったことを。
「やっぱり……芋ノ里の方でもか」
ほかてんが痛ましそうに小さく頷く。
「今年、私たちの里に来てくれたのはたったの三匹だったの」
「三匹……か」
ガンバは腕を組み、深く考え込むように視線を落とす。
そして、重々しく口を開いた。
「こっちはもっとひどい。たったの二匹だ」
「えっ……?」
ゆうこは思わず我が耳を疑い、おもわず聞き返す。
「たったの、二匹だって……?」
「ああ、間違いねぇよ」
ガンバは、さっきまで職人たちが地響きを立てて走っていた道の向こうへと、切なげな視線を投げかける。
そこには、どこまでも果てしなく広がる黄金色の麦畑が広がっていた。
吹き抜ける初夏の風。
黄金色の穂が一斉にざぁぁぁと波打つ。
「昔はな」
ガンバは遠い目をして、ぽつりぽつりと語り始める。
「祭りの時期ともなれば、あの麦畑が見えなくなるくらい無数の麹精霊たちが飛び回っていたもんだ。あまりに多すぎて、精霊を追いかけ回す子どもたちの方が先にバテるくらいにな」
ゆうこは言われた通りに麦畑を見つめる。
けれど、どれだけ目を凝らし、視界を隅々まで探してみても。
どこまでも続く黄金色の穂の間に、小さな精霊たちの姿形は見当たらない。
「今年の祭りに、精霊は……いないんだね」
「ああ、どこを探してもいやしない」
ガンバは短く、けれど重みのある声で肯定した。
その場に、言い知れない重たい空気がずっしりと落ちる。
その静寂を破るように、野太い声が遠くから飛んできた。
「おいおい、ガンバぁっ!!」
別の酒蔵の前から、別の職人が大声で叫ぶ。
「いつまでサボってやがるんだ!」
「これからすぐに二周目を始めるぞぉぉぉっ!!」
「…………」
あまりのマイペースさに、ゆうこは再び呆然と固まる。
しかし、その声を聞いたガンバの目が、再びカッと力強く輝いた。
「おうっ!! 今すぐ行くぞ!!」
「ちょっと、まだ二周目があるの!?」
「当たり前だろ!」
ガンバは屈強な両手を伸ばし、再びあの巨大な酒樽をひょいと軽々と肩に担ぎ上げる。
「一周目なんて、ただの軽い準備運動にすぎねぇからな!」
「今のが準備運動だったの……!?」
ゆうこの魂の抜けたツッコミを完全に置き去りにし、ガンバは再び猛然と走り出した。
「ぬおおおおおおおっ!!」
ドドドドドドドドドッ!!
再び凄まじい土煙が巻き起こる。
ゆうこはしばらくの間、その豪快すぎる背中をただぽかんと見送るしかなかった。
そして。
「……ねぇ、麹精霊が減った謎の理由より、あの人たちの底知れない体力の原因の方を詳しく知りたいんだけど」
サクはあまりのシュールさに耐え切れず、思わず吹き出して笑い声を漏らす。
「あははははっ、本当にそれね!」
こうして笑い合う、そんな一見すると何気ない賑わいに満ちた麦ノ里であっても。
現実として、麹精霊は確実に姿を消していた。
それは芋ノ里だけの局地的な問題などではない。
単なる偶然の気まぐれでもない。
ゆうこたちは、この恐るべき異変が、焼酎の国という世界全体の根幹を揺るがし始めているのだという事実を、肌身に染みて実感し始めていた。
それからしばらくして。
地獄のような二周目の樽担ぎ競走をまるで散歩でもしてきたかのような涼しい顔で、ガンバが何事もなかったように戻ってきた。
「いやぁ、良い汗をかいた! 待たせたな!」
「元気があり余りすぎてて怖いくらいなんだけど……」
ゆうこは半ば呆れ果て、引きつった笑みを浮かべる。
あれほど規格外の巨大樽を担いで全力で走破したというのに、息ひとつ乱れていない。
ガンバは肩から重そうな樽を下ろすと、その場にどっかりと豪快に腰を下ろした。
「で、さっきの麹精霊の件だったな」
「うん、そうなの」
ほかてんも真剣な面持ちで隣にちょこんと座る。
「何か、里の中で変わったこととか、不審な前触れはなかった?」
「変わったこと、か……」
ガンバは両腕を組み、額に皺を寄せて必死に記憶の糸をたぐり寄せる。
「パタリと姿を見かけなくなったこと以外は、特にこれといって変な出来事はないな」
「じゃあ、ある日突然いなくなっちゃった感じなの?」
ゆうこが身を乗り出して尋ねる。
「いや」
ガンバは首を横に大きく振る。
「最初は、誰もそんなこと気にしちゃいなかったさ。去年より少し数が少ないな、とか。その程度にしか思ってなかったからな」
けれど。
残酷なことに、時は確実に経過していった。
年を追うごとに、その数は目に見えて減り続け。
黄金色の麦畑を飛び交う無邪気な姿が消え。
夜の酒蔵へ遊びにやってくる愛嬌のある姿も消え。
そして迎えた今年。
祭りの奇跡を頼りに現れたのは、わずか二匹だけだった。
「もしかして、誰かが無理に捕まえようとしたりしたわけじゃ……」
「そんな馬鹿な真似をする奴がこの里にいるわけねぇだろ」
ガンバは即座に強い口調で否定する。
「俺たちにとって、麹精霊は酒を造るための単なる道具なんかじゃない。最高の相棒なんだからな」
「相棒……か」
その真っ直ぐな言葉に、ゆうこは小さく目を細める。
その響きには、この国に生きる職人たちと麹精霊たちの間に結ばれた、深い信頼関係が確かに宿っていた。
「じゃあ、やっぱり……」
サクが静かに口を開く。
「精霊たちが自らの意志で、どこか遠くへ去っていってしまったということ?」
「それすらも、今の俺たちにはさっぱり分からん」
ガンバは目の前に広がる黄金色の麦畑をじっと見つめる。
「ただな。昔から、この辺りじゃ妙な言い伝えはある」
「妙な言い伝え?」
ゆうこがすかさず聞き返す。
「ああ」
ガンバは周囲を気にするように、少しだけ声を落とした。
「麹精霊ってのは本来、自分たちの仲間が大勢いる場所に集まりやすい習性がある。一匹見つけたら、そのすぐ近くに何匹も群れている。昔はそういう奴らだったんだ」
「それが、どうかしたの?」
「今は、その法則が完全に逆転してやがる」
ガンバの表情に、かすかな恐怖の色が混じる。
「どこかで一匹だけ見つけても、その周りには誰一人としていやしねぇ」
「まるで……」
そこで言葉が途切れる。
ゆうこたち固唾を飲んで、次の言葉を待った。
「仲間だけが、見えない誰かにごっそり連れ去られたみてぇにな」
「…………」
ひゅるり、と風が吹き抜ける。
ざぁぁぁ……。
黄金色の麦穂が一斉に波打ち、不気味なざわめきを立てた。
ゆうこは、その言葉を脳裏で何度も反芻する。
連れ去られた。
もしその推測が事実なのだとしたら。
麹精霊たちは自らの意思で姿を消したのではなく、何者かによって意図的に奪われているということになる。
「他の里の状況も、自分の目で確かめなきゃいけない」
ゆうこはスッと力強く立ち上がった。
「芋ノ里と、ここ麦ノ里の二箇所だけじゃ、まだ確証には届かないわ」
「そうね」
サクも同じように立ち上がり、頷く。
「もし他の場所でも同じ証言が出るなら、これはもう偶然で片付けられる問題じゃない」
「次の目的地は、どちらにいたしましょうか」
クルスが懐から地図を取り出して尋ねる。
それを聞いて、ほかてんは少し首を傾げてから答えた。
「ここから一番近いのは……米ノ里だね!」
「よし」
ゆうこは決意を込めて前を向いた。
「じゃあ、次は米ノ里へ急ごう!」
その瞬間。
「ちょっと待て待て待てぇっ!!」
ガンバが慌てふためいてその場に立ち上がった。
「なんです急に?」
「わざわざこの麦ノ里まで足を運んでおきながら、うち自慢の最高の麦焼酎を一口も飲まずに立ち去るつもりか!?」
「えっ?」
ガンバは世の終わりを見たかのような信じられないものを見る目を向けている。
「旅人なんだろ!?」
「だったら、その土地で一番美味い酒を喉に通してから行くのが筋ってもんだろ!」
「いや、今めちゃくちゃ重要でシリアスな話をしてたよね!?」
「そんなもんとしのぎを削る話と、美味い酒を飲むのは完全に別腹だ!」
ガンバは自信満々に近くの巨大な酒蔵を指差す。
「ちょうど今朝、今年の仕込みで一番出来の良い樽の封を切ったところだ!」
「遠慮しないで飲んでいけ!」
「いや、でも、私たちは急ぎで……」
ふわり、と。
心地よい風に乗って、鼻腔をくすぐる芳醇で香ばしい麦の香りが漂ってきた。
「…………」
ゆうこの鼻先がピクピクと動く。
それを見たガンバが、勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「飲んでいけって。美味いぞぉ?」
「……じゃあ、一杯だけ」
「よし決まりだ!」
「あんなに渋ってたのに、見事な即落ちね」
サクが呆れたように小さく笑う。
こうして。
米ノ里へ向けた旅立ちの前に。
ゆうこたち一行は、もう少しだけこの麦ノ里の温かな誘惑に寄り道していくことになったのだった。




