第109話『朝から樽を担いで走る里』
芋。
麦。
米。
黒糖。
そば。
それぞれに異なる焼酎を造り上げ、土地ごとの深い文化を育んできた里々。
その旅の果て。
麹精霊たちが姿を消してしまった本当の理由へと、私たちは少しずつ、しかし確実に対峙していくことになる。
とはいえ。
すぐさま次の土地へ旅立てるわけではなかった。
なにしろ本日は、年に一度の盛大な『麹精霊祭り』の真っただ中。
数は減ってしまったとはいえ、こうしてせっかく姿を見せてくれた尊い精霊たちを盛大に歓迎しないわけにはいかない。
「というわけで!」
ほかてんが晴れやかな笑顔で両手を勢いよく叩く。
「今日はいっぱい食べて、いっぱい飲もう!」
「切り替えのスピードが早すぎるでしょ!」
ゆうこは思わず突っ込みを入れつつ、遠い目を向ける。
つい先ほどまで、国中の麹精霊が激減しているという深刻な危機について話し合っていたはずなのだから。
周囲を見渡せば、祭りの太鼓が再び威勢よく鳴り響き、一時中断していた賑わいが力強く動き出している。
「深刻に悩んでたって、麹精霊たちは勝手に戻ってきてはくれないんだからね!」
ほかてんはケラケラと快活に笑い飛ばす。
「明日からしっかり探す! 今日は、今日来てくれた可愛い子たちを全力で歓迎する! それがこの麹精霊祭りなんだから!」
「……なるほどね」
ゆうこも呆れたような、しかしどこか納得したような笑みをこぼす。
調子のいい言い草ではある。
けれど、嫌いではない。
むしろ、この泥臭いまでに前向きな思考回路は、今のゆうこにとって心地よくさえあった。
その瞬間。
ふわり、と。
鼻腔をくすぐる、甘く香ばしい匂い。
「……ん?」
ゆうこは思わず首を巡らせる。
視線の先に広がるのは、祭り特有の熱気を帯びたずらりとした屋台の列。
香ばしく焼き上げられた焼き芋。
サクサクと音を立てそうな芋天。
ホクホクの芋団子。
湯気をあげる芋まんじゅう。
もっちりとした芋餅。
そして、そのすべてを受け止めるかのように並ぶ、並々注がれた芋焼酎の数々。
「…………」
右を向く。
芋。
左を向く。
芋。
奥を覗き込む。
見渡す限り、すべてが芋。
「本当に、どこもかしこも芋しかないじゃないっ!」
ゆうこの絶叫めいたツッコミが、広場いっぱいにこだました。
「当たり前じゃない!」
ほかてんが胸をそっくりと張ってみせる。
「ここ、芋ノ里だもん!」
「ツッコミの余地がないほど名前に偽りなしだわ!」
周囲で聞き耳を立てていた職人たちが、腹を抱えて豪快に笑い声を上げる。
そんな中、サクはすでに屋台のカウンターに陣取っていた。
「ゆうこ。これ、すごく美味しいわよ」
差し出された手には、黄金色に輝く揚げたての芋天。
「って、もう食べてるし!」
「だって美味しそうな匂いが我慢できなかったもの」
サクはふんわりと微笑みながら、もう一口ガブリと頬張る。
さくっ、と軽やかな音が響いた。
「……ん、美味しい」
その言葉通り、彼女の端正な顔立ちは満足げにとろけていく。
たまらず、ゆうこのお腹が盛大に鳴り響いた。
ぐぅぅぅ……。
「…………」
「…………」
いたたまれなさに固まるゆうこを見て、ほかてんが楽しそうに目を細める。
「食べる?」
「……食べるわよ!」
結局のところ。
ゆうこたちはそのままの勢いで、盛大な祭りへと飲み込まれていくことになった。
熱々の芋料理をハフハフと頬張り。
香り高い芋焼酎を喉の奥へ流し込み。
目の前で跳ね回る麹精霊たちと無邪気に触れ合う。
祭りの中央では、三匹の小さな麹精霊たちが職人たちの手拍子に合わせ、その小さな身体を嬉しそうにぷるぷると弾ませていた。
絶対的な数は少ない。
それでも。
ここに集う人々は、今この瞬間に来てくれた小さな命を、心からの愛情で歓迎している。
その温かな光景をぼんやりと眺めながら、ゆうこは手元の小さな杯を傾けた。
「……美味しい」
唇を湿らせた瞬間、ふわりと広がる芳醇な甘い香り。
昨日まで知っていた日本酒のキレとも違う。
ビールの喉越しとも違う。
ワインの複雑な果実味とも違う。
芯から力強いのに、どこまでも包み込むように優しい味わい。
「これが、芋焼酎……」
ゆうこは手の中の小さな杯をしげしげと見つめ直す。
この豊かな一杯を。
この里に生きる人たちは、長い年月をかけて麹精霊たちと共に紡ぎ上げてきたのだ。
そう実感した瞬間、先ほど聞いたばかりの重い現実が、胸の奥で確かな重みを持って響き渡る。
「絶対に、見つけ出してみせる」
ゆうこは夜空に向かって、決意を込めた呟きをこぼした。
「え?」
隣で杯をあけていたほかてんが、くりっとした目を丸くして振り返る。
ゆうこは杯を夜空にかざすように掲げた。
「いなくなっちゃった麹精霊たち。全員見つけて、この里に連れて帰ってきてあげるんだから」
ほかてんは一瞬だけ息を呑み、そして――。
「……うんっ!」
満面の、これ以上ないほど明るい笑顔で力強く頷いてみせた。
その夜の熱気は、夜更け過ぎまで途絶えることがなかった。
◇
そして、爽やかな朝の光が里を包み込む。
ゆうこたちは新たな目的地へ向け、活気あふれる芋ノ里を後にした。
次なる目標は、どこまでも広がる黄金色の麦畑が待つ場所――麦ノ里。
焼酎の国を巡る壮大な旅が、今、本当の意味で幕を開けようとしていた。
翌朝の澄んだ空気の中。
ゆうこたちは、ほかてんとおゆという心強い、あるいは手のかかる面々を加えた総勢五人で、芋ノ里の門出を迎えていた。
移動の手段はもちろん、頼もしい相棒であるポコちん龍の背中である。
「うわぁぁぁぁぁっ、すごいっ!」
雲ひとつないどこまでも高い青空。
ほかてんの興奮に満ちた歓声が、風を切り裂いて響き渡る。
彼女は安全ベルトもそこそこにポコちん龍の背から身を乗り出し、眼下に広がるミニチュアのような世界を夢中になって見下ろしていた。
「すごいよ! さっきまでいた芋ノ里があんなに小さくなってる!」
「ほかてん、あまり身を乗り出すと本当に落ちるわよ!」
サクが冷静に彼女の服の裾をぎゅっと掴んで引き戻す。
「大丈夫大丈夫、落ちないって!」
「本当に大丈夫な人は、そんなにスリリングな体勢にならないのよ!」
ゆうこも慌てて反対側から彼女の背中を引っ張り上げる。
その背後では。
おゆが風に髪を揺らしながら、静然と座っていた。
昨日の夜のすさまじい暴れっぷりが嘘だったかのように、いつもの涼しげで澄ました表情に戻っている。
「…………」
ゆうこは疑わしげな横目を向けた。
「ねぇ、おゆ」
「なんでしょうか、ゆうこさん」
「昨日の夜の記憶、ちゃんとある?」
「もちろん、鮮明に覚えております」
「覚えてるんだ!?」
ゆうこの声が無意識に裏返る。
おゆは微塵の狂いもない優雅な仕草で、静かに頷いてみせた。
「少々、感情のタガが外れてしまったようです」
「『少々』どころの騒ぎじゃなかったでしょ!」
ゆうコの脳裏に、昨夜のトラウマティックな光景が生々しく蘇る。
『何飲ませやがったコラァァァァァ!!』
どう冷静に振り返っても、あれを少々と表現するのは無理があった。
「……とにかく、今日はお湯。もう一滴も飲まないでよね」
「善処いたします」
「そこは即答で約束してよっ!?」
隣でそのやり取りを聞いていたサクが、小さく肩を震わせてクスクスと笑う。
そんな騒がしくも賑やかな一団を乗せ、ポコちん龍は焼酎の国の広大な大空を悠々と進んでいった。
やがて風の匂いが変わり、眼下に広がる景色が少しずつ、しかし劇的に変化し始める。
どこまでも規則正しく続いていた緑一色の芋畑が徐々に遠ざかり。
代わりに、まばゆい黄金色の絨毯が、大地を隅々まで埋め尽くし始めた。
「……わぁ」
ゆうこは息を呑み、思わず目を細める。
見渡す限りの麦畑だった。
心地よい風が吹き抜けるたび、無数の黄金色の穂が一斉にしなやかに波打つ。
ざぁぁぁ……。
ざぁぁぁ……。
心地よい摩擦音が響き、まるで黄金色の穏やかな海原が大地の上を駆け抜けていくようだった。
その波の向こう。
広大な麦畑の中央に、活気にあふれた大きな集落の姿が見えてくる。
先ほどまで過ごした芋ノ里とは、空気感からしてまるで違っていた。
広く整備された直線的な道。
軒を連ねる巨大な酒蔵の数々。
家の軒先には乾燥した麦の束が美しく吊るされ、その傍らには圧倒的な存在感を放つ木樽が無数に積み上げられている。
「見えてきたよ!」
ほかてんがピョンと跳ね上がりながら前方角を指差した。
「あそこが麦ノ里だよ!」
「ここが……」
ゆうこもまた、期待に胸を膨らませて身を乗り出す。
焼酎の国を構成する、二つ目の里。
芳醇な麦焼酎を愛し、その醸造に命を懸ける職人たちが暮らす場所。
ポコちん龍は人々のざわめきを察知したのか、ゆっくりと優雅に高度を下げていく。
と、その時。
里の入口へと続く大通りに、尋常ではない数の人間がひしめき合っているのが目に入った。
「……あれ、みんなあそこで何をしてるんだろ?」
ゆうこは怪訝そうに目を凝らす。
そこには何十人もの屈強な職人たちが、一糸乱れぬ様子でずらりと一列に並んでいた。
しかも、全員が全員。
その分厚い肩の上に、自分の体ほどもある巨大な木樽をしっかりと担ぎ上げている。
「…………」
ゆうこは信じられないものを見るように、大きく瞬きを繰り返した。
次の瞬間。
「全チーム、位置についてぇぇぇぇいっ!!」
どこからともなく、腹の底に響くような野太い号令が轟いた。
その合図と同時に、一列に並んだ職人たちが一斉に低い体勢へと腰を落とす。
「よぉぉぉい……っ!」
「って、嘘でしょ……?」
ゆうこの頬が引きつり、冷や汗が伝う。
ドンッ!!
空気を切り裂くような爆音が響き渡った。
「うおおおおおおおおおっ!!」
巨大で重そうな木樽を肩に担いだまま、筋骨隆々の職人たちが一斉に猛然と走り出した。
ドドドドドドドドドッ!!
凄まじい地鳴りと共に、大地からもうもうと土煙が舞い上がる。
あまりの迫力に大気が揺れている。
鍛え抜かれた職人たちが、樽を背負ったまま麦畑の一本道をものすごいスピードで爆走していく姿は、もはや圧巻の一言だった。
「…………」
ゆうこは開いた口が塞がらないまま、そのシュールで熱い光景をただ呆然と見下ろしていた。
「ねぇ、あのおじさんたち、一体朝から何をしてるの?」
隣でぽんっと手を叩きながら、ほかてんはさも当然だと言わばかりに答える。
「決まってるでしょ、樽担ぎ競走だよ!」
「なんで朝っぱらからそんな命がけのことやってるの!?」
「麦ノ里に伝わる、伝統の朝の基礎鍛錬!」
「焼酎造りにそんな無駄に無双な筋肉のキレが必要とされてるわけ!?」
ゆうこの盛大なツッコミの叫びが、黄金色の麦畑が広がる青空の果てへと吸い込まれていくように、どこまでも響き渡っていった。
どうやらこの麦ノ里も、芋ノ里に負けず劣らず、一筋縄ではいかない強烈な面々が揃っている場所らしい。




