第108話『お湯を飲んではいけない女』
「待ってください! 私も行く!」
石畳を蹴る軽やかな足音が響き、ほかてんは振り返る。
一人の女性が、夕暮れの提灯の明かりを浴びながらこちらへと歩いてくる。
年は二十代半ばほど。乱れのない整った黒髪が揺れ、涼しげな目元が夜風を捉えている。
祭りの喧騒と威勢のいい掛け声の渦中にいながら、彼女の周囲だけは不思議なほど静謐な空気が漂っていた。
「おゆさん!」
ほかてんの表情がぱっと明るくなり、弾かれたように声を上げる。
おゆと呼ばれた彼女は、静かに足を止めると、軽く会釈をした。
「森へ行くのでしたら、私も同行します!この辺りの地形なら把握していますので」
「助かる!」
ほかてんが安堵の笑みを浮かべる。
その隣で、ゆうこも軽く頭を下げた。
「私はゆうこ。よろしくね」
「おゆです。よろしくお願いします」
返ってきたのは、淡々とした低めの口調。 物静かで、いかにも冷静沈着そうな佇まいだった。
その時。
「おゆさーん!」
祭りの準備に追われていた若い職人が、額に汗を浮かべながらこちらへ駆け寄ってくる。
片手には、湯気がうっすらと立ち上る白磁の湯飲みが握られていた。
「朝からずっと祭りの準備してたでしょう? 休憩してください!」
「あら。ありがとうございます」
おゆは差し出された湯飲みを両手で受け取る。手のひらに伝わる温かさに、目を細めた。
「ちょうど喉が渇いていました」
「どうぞどうぞ!」
職人はやり切ったような満面の笑みを浮かべ、胸を張る。
「冷たいお茶を用意したつもりだったんですけど、さっき間違えてお湯を入れちゃって!」
「…………」
ぴたり。ほかてんの顔から、さっきまでの和やかな笑顔が音を立てて消え失せる。
「え?」
ゆうこが怪訝そうに首を傾げた。しかし、警告を発するには時すでに遅かった。
ごくっ。
おゆの喉が小さく鳴り、熱い液体が胃の奥底へと落ちていく。
次の瞬間、彼女の全身の動きが凍りついたように止まった。
「…………」
数秒間の重苦しい沈黙。おゆがゆっくりと視線を下ろし、手の中の湯飲みをじっと見つめる。
そして、冷え切った面持ちでふっと顔を上げた。
「……おい」
「はい?」
職人が能天気な笑顔で返事をする。おゆの涼しげだったはずの目は、完全に据わっていた。
「てめぇ……。アタシに何飲ませやがった?」
「え? お、お湯ですけど……」
「分かってんだよコラァァァァァ!!」
「ひぃぃぃぃぃ!?」
男の絶叫とともに、職人が腰を抜かしたように飛び上がる。ゆうこは驚愕のあまり、飛び出しそうになった目を両手で押さえた。
「誰ぇぇぇぇぇ!?」
先ほどまでの物静かな美女の面影は微塵もなく、おゆは湯飲みを片手に職人の胸倉へと猛然と詰め寄る。
「喉渇いてる奴にお湯渡す馬鹿がどこにいんだオラァ!!」
「す、すみません! 間違えただけなんです!」
「間違えたら何でも許されると思ってんのかァ!?」
「思ってません!」
「じゃあ謝れやァ!!」
「今謝りましたぁぁぁ!!」
「怖っ!!」
ゆうこが引きつった声を張り上げる。その傍らで、サクは口元に手を当て、肩を細かく震わせていた。
「ふっ……ふふっ……」
そして、もう耐え切れなくなったのか、サクは声を発する。
「あはははははっ!!」
腹の底から湧き出るように、快活な笑い声を響かせ始めた。
「ちょっと、何なのこの人! さっきと全然違うじゃない! 笑ってる場合じゃないから!」
ゆうこが必死にツッコミを入れる。
クルスも珍しく丸い目をさらに見開き、呆然と呟いた。
「……人格まで変わるんですね」
「誰の人格が変わったっつったコラァ!!」
「聞こえてたんですか」
その喧騒の横で、ほかてんだけはどこか遠い目をして、諦めたように小さく息を吐き出していた。
「……また始まった」
「また?」
ゆうこが慌てて振り返る。ほかてんはやれやれと首を振った。
「おゆさんね」
「お湯を飲むと、ブチ切れるの」
「なんで!?」
「分かんない」
「本人も?」
「分かんない」
「怖すぎるでしょ、お湯!!」
ゆうこの乾いたツッコミが、祭りの夜空へと虚しく吸い込まれていく。
すると、おゆはガリリと首を鳴らし、突然ギクリとするほど鋭い視線を闇を孕んだ森へと向けた。
「で? さっきから何の話してやがった」
「え?」
「森がどうとか言ってただろ」
ゆうこは背筋を凍らせながらも、恐る恐る口を開く。
「麹精霊が……あの森を怖がってるみたいで」
「…………」
おゆは漆黒の森の奥を睨みつける。そして、歪んだ笑みを浮かべた。
ニヤリ。
口元が凶悪に吊り上がる。
「上等じゃねぇか」
ゴキリと、両手の拳が不気味な音を立てる。
「どこのどいつか知らねぇけどよ。麹精霊ビビらせて喜んでる奴がいるなら――」
おゆは震える指先で森の奥を指し示した。
「アタシが直接、話つけてやるよ!!」
「話し合う顔じゃない!!」
ゆうこの的確な絶叫に重なるように、サクの弾けるような笑い声が再び広場に響く。
そんな波乱の只中でも、ほかてんの腕にしっかりと抱かれた麹精霊だけは、森の暗がりを見つめたまま、小さく怯えたように震え続けていた。
その異様な震えに気づき、おゆの表情からふっと獰猛な笑みが消える。
「……おい」
低く、地を這うような声。
ゆうこが引きつった顔で振り返る。
「な、なに?」
おゆは、ほかてんの腕の中で縮こまる麹精霊をじっと見据えていた。
「こいつ、ずっと震えてんじゃねぇか」
「うん……」
「いつからだ」
ほかてんは眉根を寄せ、記憶を辿るように考え込む。
「今年に入ってから……かな。前は森の近くまで遊びに行く子もいたんだけど、最近は全然近づかなくなってさ」
「ふぅん……」
おゆの鼻先から熱い息が漏れ、さらに森の気配を威圧する。そして、再び不穏な関節の音が鳴り響いた。
ゴキッ。
「よし」
「何がよしなの!?」
ゆうこが反射的に声を裏返らせる。
おゆはドンと足を踏み鳴らし、そのまま森へ向かって歩き出した。
「決まってんだろ」
「原因探しに行くんだよ」
「今から!?」
「今行かなくていつ行くんだコラァ!!」
「なんで私が怒られてるの!?」
押し問答が続く中、背後から重々しい声が浴びせられる。
「待ちな!」
提灯の明かりが届かない広場の奥から、声の主がゆっくりと歩み出てくる。おゆの踏み出そうとした足がピタリと止まった。
歩いてきたのは一人の年配の職人だった。先ほどまで威勢のいい祝詞を上げていた男の顔には、当時の面影はなく、深い険しさが刻まれている。
「森へ行くのは構わん。だが、その前に聞いてほしいことがある」
ほかてんは怪訝そうに首を傾げた。
「聞いてほしいこと?」
男は重々しく頷く。そして、舞台の隅で身を寄せ合う三匹の麹精霊へ目を向けた。
「今年、麹精霊が少ないのは……」
言葉を一度区切り、男は苦い表情を浮かべる。
「芋ノ里だけじゃねぇ」
「え?」
ほかてんの血の気が引き、表情が固まった。
ゆうこも息を呑んで男の顔を見上げる。
「どういうこと?」
「今朝、他の里から知らせが届いた」
男はゴツゴツとした指を一本ずつ折りながら、冷徹な事実を告げていく。
「麦ノ里、米ノ里、黒糖ノ里、そばノ里、どこも同じだ。麹精霊が、ほとんど姿を見せてねぇ」
「そんな……」
ほかてんは言葉を失い、小さく息を呑む。
先ほどまで祭りの熱気に浮かれていた周囲の職人たちも、いつの間にか笑みを消し、静まり返っていた。
「じゃあ……」
ゆうこが乾いた唇を震わせ、ゆっくりと口を開く。
「この里だけで何かが起きてる訳じゃないって事?」
男は諦念を含んだ目で、重く頷いた。
「ああ。焼酎の国全体で、何かが起きてる」
ひゅるりと冷たい夜風が吹き抜ける。広場を囲むように飾られた色とりどりの旗が、一斉に音を立ててはためいた。
ほんの少し前まで、ここには祭りの到来を心待ちにする人々の無邪気な笑顔が溢れていたというのに。
今は誰もが言葉を失い、胸の内に同じ疑問を飼いならしている。
――麹精霊は、一体どこへ消えてしまったのか。
ゆうこは再び、暗い口を開けた不気味な森へと視線を戻す。
「だったら……。他の里も見てみた方がいいかもしれないね」
ほかてんがハッとして顔を上げる。
「他の里を?」
「うん」
ゆうこは力強く頷いてみせる。
「いきなり森に飛び込むより、まず何が起きてるのか調べようよ! 麦ノ里や米ノ里でも同じことが起きてるなら、何か共通点があるかもしれないし」
「なるほど……!」
ほかてんの曇っていた表情に、わずかに光が戻る。
サクもそれに同調するように深く頷いた。
「私は賛成よ」
「俺も、その方が安全だと思います」
クルスも冷静に言葉を継ぐ。
そして――。
「…………」
おゆだけが腕を組み、不機嫌そうに黙り込んでいた。
ゆうこが怪訝そうに覗き込む。
「おゆ?」
「……チッ」
「舌打ちした!?」
おゆは忌々しそうに森の梢を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「仕方ねぇな。まずは他の里とやらを見て回ってやるよ」
「なんでずっと上から目線なの!?」
「うるせぇ!!」
「やっぱり怖いこの人!!」
「あはははははっ!」
サクの晴れやかな笑い声が、再び夜空に弾けた。そのおかげで、張り詰めていた周囲の空気が、ほんの少しだけ弛緩する。
そんな穏やかな波音のなかで、ほかてんは腕の中にすっぽりと収まる麹精霊の背中を、優しく愛おしそうに撫でた。
「大丈夫だよ」
ほかてんは小さく、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「ちゃんと、みんなを見つけるからね」
「きゅ……」
麹精霊は安心したように、細く可愛らしい鳴き声を返した。
こうして、ゆうこたちは思いがけない事件の真相を追い求め、広大な焼酎の国を巡る旅へと踏み出すことになったのだった。




