第107話『消えた麹精霊』
舞台の上では、祭りの進行役が喉の奥を鳴らすように大きく息を吸い込んでいる。
「それでは――」
その声に引き寄せられるように、広場を埋め尽くした人々が一斉に舞台へと視線を向けた。
「麹精霊祭りを――」
ドンッ!!
腹の底を揺さぶるような、重く乾いた大太鼓の音が真夏の空気を切り裂く。
「始めるぞぉぉぉぉ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
割れんばかりの歓声が、夏の青空へと一気に弾けた。
太鼓の連打と、空気を震わせる軽やかな笛の音色。広場は一瞬にして、むせ返るような祭りの熱気と活気に包まれていく。
色鮮やかな手ぬぐいを頭に巻いたゆうこも、胸の高鳴りに合わせて思わず両手をパンと叩いた。
「始まったっ!」
隣では、ほかてんが期待に満ちた瞳を輝かせながら、満面の笑みを浮かべている。
「今年はどんな麹精霊に会えるかなぁ。去年の子たちも、すっかり大きくなったし……」
その時。
祭りの喧騒を断ち切るように、舞台の中央に鎮座していた古びた大きな木箱の蓋が、ゆっくりと押し開かれた。
瞬間、ひんやりとした甘い香りと共に、中からふわりと純白の光が溢れ出す。
「おおっ……!」
「来たぞ、今年も!」
「待ちに待った麹精霊だ!」
群衆の中から、次々と感嘆の声が漏れ聞こえる。
大小さまざまな小さな光の粒が、夜空へ昇る星屑のように、ゆっくりと夏の空へ向かって昇っていく。
そして。
ぽんっ、と可愛らしい小さな音が響いた。
光のヴェールが霧散し、その中から手のひらサイズの小さな白い生き物が、きょとんとした様子で姿を現す。
「わぁ……っ!」
ゆうこは息を呑み、吸い寄せられるように目を輝かせた。
肌を撫でるのは、新雪のようにふわふわとした微かに温かい毛並み。
愛らしい小さな手足がぴくぴくと動き、頭の上にはちょこんと、熟成された最高の麹の粒を模したような小さな宝珠が乗っかっている。
「かわいい……!」
感嘆の声を漏らしながら、ゆうこは思わず身体を大きく乗り出した。
舞台の上の麹精霊は、見慣れない群衆の多さに驚いたのか、きょろきょろと大きな黒い瞳を忙しなく動かしている。
「しゅ……」
綿菓子が溶けるような、か細く愛らしい鳴き声を零した。
その仕草に、広場を埋める人々から再び温かい歓声が沸き起こる。
「今年も元気に来てくれたぞ!」
「お前さん、まるまるしてて可愛いなぁ! さぁ、今年も大事に育てて最高の酒を仕込もうじゃないか!」
ほかてんも嬉しそうに両手を大きく振って声を張り上げた。
「おーい、こっちだよ!」
ほかてんの声に反応するように、麹精霊がクルリと首を巡らせてこちらを見る。
「……?」
ほかてんはふと、首を傾げた。
何かが決定的に、おかしい。
肌で感じる違和感。頭の中で弾いていた計算と、目の前の現実が噛み合わない。
本来ならば、この祭りのオープニングでは、何十匹もの麹精霊がまるで雪吹雪のように舞台から舞い踊るはずだった。
一匹。
二匹。
三匹。
数えても数えても、祭りの会場に現れた麹精霊は、たったそれだけだった。
ざわ……。
熱気に満ちていたはずの広場の空気が、冷たい水を浴びせられたように、ほんのわずかに凍りつく。
「……あれ?」
前方に立っていた酒造りの職人が、怪訝そうに呟いた。
「三匹だけ……か?」
「去年の半分どころの騒ぎじゃないぞ、もっといたはずだ」
「一昨年なんて、十匹以上がこの広場を埋め尽くしていたはずだが……」
人々の波から、どことなく不安を孕んだざわめきが波紋のように広がっていく。
ほかてんの顔から、さっきまでの弾けるような笑顔がスッと消え去った。
「……そんな、嘘だろ」
青ざめる少年の横顔を見つめ、ゆうこは不安げに視線を戻す。
「ほかてん、どうしたの? 何か変だよ」
ほかてんは答えなかった。ただ、乾いた唇を噛み締め、舞台の上にぽツンと佇む三匹の寂しげな麹精霊を凝然と見つめている。
その硬質な表情には、さっきまで祭りを楽しんでいた無邪気な少女の面影は、もうどこにもなかった。
「少なすぎる……」
絞り出すような小さな声が、ざわめく空気に溶けていく。
「今年だけじゃない。……ここ数年、確実に、少しずつ減っているんだ」
ゆうこは言葉を失い、黙ったまま舞台の上で寄り添う小さな背中を見つめた。
祭りの音楽は鳴り続けている。
けれど。
誰もが心待ちにしていたはずの祝福の使者は、明らかに、数え切れないほど足りていなかった。
広場には、先ほどまでの威勢のいい歓声が空疎に響いている。
しかし、人々の表情から熱狂の灯火が消え、代わりに重苦しい鉛のような影が落ちていた。
「……今年も、これだけなのかよ」
「三匹だけなんて、前代未聞だぞ」
「これじゃあ、今年の仕込みが到底間に合わない……村の酒蔵がどうなっちまうんだ」
あちこちから、焦燥と恐怖を帯びたヒソヒソ声が漏れ聞こえてくる。
ゆうこはごくりと唾を飲み込み、周囲の険しい顔つきの大人たちを見回した。
「ねぇ、ほかてん。これって……そんなに大ごとなの?」
ほかてんはすぐには答えず、しばらくの間、拳を固く握りしめたまま俯いていた。
やがて、覚悟を決めたように小さく頷く。
「うん……大変なことなんだ」
「麹精霊は、この地で美味しい焼酎を造るために絶対に欠かせない存在なんだ。もちろん、人間だけでも発酵の作業自体はできるけれど……」
ほかてんは痛ましげな眼差しで、舞台上の小さな生き物たちを見つめる。
「この国では、昔から麹精霊たちと心を通わせ、共に歩みながら最高の焼酎を造り上げてきたんだよ。だから、その数が年々減るってことは……」
そこまで言いかけて、ほかてんは息を詰まらせた。
言葉の続きを飲み込み、代わりに祭りの向こう側に広がる景色へと視線を移す。
そこには、杉板の壁が黒光りする、歴史あるいくつもの大きな酒蔵が静かに並んでいた。
「焼酎が、もう二度と造れなくなるかもしれないってこと?」
ゆうこが胸騒ぎを覚えて問いかける。
「すぐに明日の酒が全滅するわけじゃないよ。仕込みの技法や蓄えもあるからね」
ほかてんはかぶりと首を横に振る。
「でも、このまま減り続けたら……いつか、この国で脈々と受け継がれてきた焼酎造りそのものが、完全に続けられなくなる日が来るんだ」
「そんな……」
ゆうこの瞳が大きく揺らぐ。
祭りを心から楽しみにしていた村人たちの笑顔。
豊かな恵みを実らせる広大な畑。
町並みに立ち並ぶ年季の入った酒蔵たち。
そのすべての美しい営みが、たった一筋の細い糸で繋がっているのだと、痛いほど理解できた。
「じゃあ、なんで……どうして麹精霊がそんなに減っちゃってるの?」
切実な声でゆうこが尋ねる。
ほかてんは力なく、再び地面に視線を落とした。
「……分からないんだ」
「前は、毎年この時期になるともっとたくさん生まれて、村中がもっと活気に溢れてた。でも、数年前から少しずつ、理由も分からず数が減り始めて……」
「原因を突き止めるための手立ては、何もないの?」
「うん、大人の人たちも調べてくれたけど、誰も分からないって……」
――『原因が分からぬというのは、厄介じゃのう』
ふと、どこかから響いたような重みのある声を思い出し、ゆうこは小さく頷き返す。
「そうだね、原因が分からないのが一番怖いよね……」
その刹那。
舞台の上から、ひときわかそけき、怯えた鳴き声が聞こえた。
「……きゅっ」
先ほど姿を現した三匹のうちの一匹が、まるで冷たい風に怯えるように、小さな身体をブルブルと激しく震わせている。
ほかてんはハッと顔を上げ、舞台へ駆け寄った。
「……どうしたの?」
麹精霊は人間の言葉には応えない。
ただ、何かに怯え切った様子で、一歩も動けなくなっている。
そして、その潤んだ瞳は、祭りの賑わいとは真反対の方向――村の外れをじっと見つめていた。
「……あれは、森の方角?」
ほかてんが呟く。
ゆうこもまた、精霊の怯える視線を辿るように、顔を向けた。
視線の先にあるのは、里の外れに深く口を開けた、深い木々が生い茂る鬱蒼とした森だった。
真昼の明るい陽射しが燦々と降り注いでいるというのに、なぜかその森の奥だけが、不気味なほどの漆黒の闇に覆われているように見える。
「もしかして……」
ゆうこが言いかけたその瞬間。
耐えきれなくなったように、怯えた麹精霊が突然、ぴょんと宙に跳ねてほかてんの腕の中へと飛び込んできた。
「きゅっ……!」
「わっ、おっと……!」
ほかてんは慌てて両手を差し出し、小さな身体をしっかりと受け止める。
胸元で抱きしめられた白い塊は、小刻みに震えを止まらないでいた。
「……すごい怯え方だね、何かに怯えてる」
すぐ隣で、旅の仲間であるサクが静かに呟いた。
少し離れた場所から、同じく仲間であるクルスも眉をひそめながら森の影を見つめている。
「……どうやら、ただの気まぐれではなさそうですね。あそこに、何か尋常ならざるものがいるのかもしれません」
祭り会場の喧騒はなおも続いているが、人々は誰も、その異様な気配を放つ森へ近づこうとはしない。ただ恐怖を遠ざけるように、目を背けているだけだった。
しかし。
この小さな麹精霊だけは、はっきりと知っている。
この里の平穏な日常の裏側で、静かに、そして確実に何かが狂い始めているということを。
目の前で恐怖に震える麹精霊の姿が、どうしてもゆうこの脳裏から離れなかった。
居ても立っても居られず、ゆうこはほかてんの腕の中に丸まる小さな背中をそっと覗き込む。
麹精霊はぎゅっと目をつむり、今にも消えてしまいそうなほど小さな身体を縮こまらせていた。
「そんなに、あの森が怖いの?」
「きゅ……ぅ……」
か細く切ない鳴き声が返ってくる。
そして、恐怖に潤んだその瞳は、やはり村外れの暗い森から一瞬たりとも離れようとはしなかった。
ほかてんもまた、精霊の視線に導かれるように、再びあの鬱蒼とした木々を見上げる。
「……あの森に、一体何があるんだ」
「ねぇ、ほかに何か知ってることはないの?」
ゆうこが切実に尋ねる。
ほかてんは少しの間だけ思考を巡らせ、苦しそうに首を横に振った。
「分からない。普段は山菜採りにも使う普通の森だし、昔は子供たちの遊び場だったんだ。でも……麹精霊たちがこうして減り始めた時期と、あの森が妙に不気味になり始めた時期が、奇妙に重なってるんだよ」
「昔は普通に入ってたのに?」
「うん、昔はあんなふうに怯える子なんて一人もいなかった」
ゆうこは黙り込み、再び重苦しい静寂を纏う森をじっと見つめた。
初夏の心地よい風が木々の葉を揺らし、どこか遠くからお囃子の音がかすかに流れてくる。
一見すれば、どこにでもあるのどかで穏やかな田舎の風景だった。
それなのに。
この小さな精霊だけが、あそこには近づいてはならない何か恐ろしいものが潜んでいると、全身で訴えかけている。
「……ねぇ」
ゆうこは決心したように、まっすぐな声で口を開いた。
「一度、みんなであの森を調べてみない?」
「えっ……?」
ほかてんは驚いたように大きく目を見張り、振り返った。
「原因が分からないって言ってても、ここで指をくわえて待ってるわけにはいかないでしょ。本当は何が起きているのか、実際に行ってこの目で確かめるしかないよ」
「でも、あそこは……」
ほかてんは不安そうに、腕の中で震える麹精霊の頭を優しく撫でた。精霊の小さな身体は、まだ小刻みに震えている。
すると、ふわりと柔らかな気配を纏いながら、サクが一歩前に歩み出た。
「私も賛成よ。このまま見て見ぬふりをして、村の伝統も精霊たちも失われていくのを黙って見ているわけにはいかないもの」
「俺も同行します」
木刀に手を添えながら、クルスが頼もしく静かに頷いた。
「村の危機であるならば、見過ごすわけにはいきません」
ほかてんは三人の顔を順番に見つめ返した。仲間たちの揺るぎない決意の宿った瞳を見て、心の中でも何かがカチリと音を立てて定まる。
やがて、ほかてんはぐっと力強く拳を握りしめた。
「よし、決まりね」
その時だった。
緊迫した空気を断ち切るように、背後から落ち着いた、しかし芯のある女性の声が響いた。




