第106話『焼酎の国』
徐々に近づくにつれ、視界のなかに芋ノ里の全景がその輪郭を大きくしていく。
頑丈そうな家々。
ずらりと並ぶ巨大な酒蔵。
湯気を上げる蒸留所。
そして――。
「……あれ?」
ゆうこが目を細め、前方を凝視する。
里の入口には、見上げるほどに大きな木製の看板が堂々と立っていた。
そこには、勢いのある力強い筆致でこう書かれている。
【ようこそ! 芋ノ里へ!】
その下には、さらにたくさんの文字が並ぶ。
【本日のおすすめ】
【焼き芋】
【芋天】
【芋団子】
【芋まんじゅう】
【芋焼酎】
「…………」
ゆうこは完全に言葉を失い、無言で固まった。
隣では、サクがひょいと首を伸ばして看板を覗き込んでいる。
「全部、芋ね」
「やっぱりぃぃぃ!!」
ゆうこの絶叫が、どこまでも澄んだ青空へパーンと響き渡る。
ポコちん龍は彼女たちの驚きをよそに、そのまま優雅に高度を下げていく。
眼下では、これから始まる祭りの準備に追われているらしい人々が、忙しそうにあちこちへ走り回っていた。
視界を彩る色とりどりの旗。
あちこちに転がる巨大な酒樽。
活気に満ちた数々の屋台。
そして、広場の中央には、驚くほど巨大な木製の特設舞台までしっかりと設置されている。
「お祭りなの?」
ゆうこが眼下に問いかけるように呟く。
少し離れた場所で、クルスが別の立て札を見つけて声をあげた。
「どうやら、麹精霊祭り、と書いてあります」
「麹精霊祭り?」
ゆうこが首をかしげながら聞き返す。
その瞬間だった。
――『ふぉっふぉっふぉっ』
頭のなかに直接響くような、アルケラの老練な笑い声。
「うわっ!」
不意打ちの気配に、ゆうこは肩を激しく跳ねさせる。
――『焼酎の国ではな、麹精霊は非常に重要な存在じゃ。この国では、毎年この精霊たちを手厚く迎えるための盛大な祭りが開かれておる。そして今年も、まさにまもなく始まるようじゃのう』
「なるほど……」
納得したように、ゆうこは再び広場を見下ろす。
これから始まる祭りを楽しみにしている人々の笑顔。
最後の仕上げに追われる職人たちの真剣な横顔。
楽しそうに駆け回る子どもたちの足音。
そんな活気ある光景を見ているうちに、さっきまでの驚きが嘘のように消え、自然と胸の奥が弾むような高揚感を覚えた。
「なんだか、すごく楽しそう!」
サクもつられてふわりと笑みをこぼす。
「面白そうね、活気があって」
「では、まずはお祭りの様子を見てみましょう」
クルスが静かに頷いた。
ポコちん龍は人々の邪魔にならないよう、祭り会場の少し外れへ向かってゆっくりと優しく降下していく。
やがて。
ドォォォンッ!!
地響きとともに、巨大な龍のしなやかな身体が、広場の外れの空き地へしっかりと着地した。
乾いた土煙が、ふわりと周囲に舞い上がる。
ゆうこは、ポコちん龍の温かな背中からゆっくりと慎重に降りた。
足の裏がしっかりと地面をとらえる。
カサカサと乾いた土の確かな感触。
鼻をくすぐるのは、どこか優しく甘く、そして香ばしい発酵の匂いだった。
「……いい匂い」
ゆうこが深く息を吸い込みながら、辺りを見回す。
そこには、これぞ焼酎の国といわゆる圧倒的な景色が広がっていた。
味わい深い木造の建物が立ち並び、至る所に大きな酒樽が据えられている。
軒先には杉玉が飾られ、少し離れた場所にはどこまでも続くかのような広大な芋畑が広がっていた。
畑の向こう側では、収穫を手伝う人々の姿も小さく見える。
「ここが……噂の芋ノ里」
ゆうこは胸に手を当てながら、小さく呟いた。
その時だった。
「……いまの、龍?」
子どもらしい誰かの声が、ざわめきのなかから聞こえてきた。
はっと振り返る。
一人の少年が、目の前にそびえるポコちん龍を見上げて完全にフリーズしていた。
その小さな両手には、さきほど収穫したばかりの、泥つきの大きな芋がしっかりと抱えられている。
少年はしばらくの間、彫像のように固まっていたが。
やがて。
「龍だぁぁぁ!!」
世界が割れんばかりの大声を上げた。
その少年の叫び声に反応するように、周囲で作業をしていた人々が次々とこちらへ視線を向ける。
「なんだ、今の声は? おい、あっちを 見ろよ!」
「で、でかいトカゲ……いや、龍がいるぞ!」
「本物なのかこれ!? 夢じゃないよな!?」
少しずつ、好奇心の塊のような野次馬が集まってくる。
子どもたちは物珍しさに目を輝かせて恐る恐る近づき、大人たちは少しだけ警戒したような距離を保ったまま、興味深そうにその巨体を眺めていた。
「すごいな、すごい注目度だ……」
「体表が黄金色に輝いてるわよ」
「こんな立派な生き物、初めて見たぞ」
ざわめく周囲の視線を浴びて、ゆうこは少しだけ気恥ずかしそうに戸惑いながら、傍らのポコちん龍を振り返った。
「やっぱり、ここでも相当珍しいんだね」
サクがクスリと微笑みながら言った。
「そりゃそうよ。空を飛ぶ本物の龍なんて、日常のなかでそうそう見られるものじゃないもの」
クルスも周囲の様子を冷静に観察しながら頷く。
「ふむ、すでにかなり注目を浴びていますね」
「うぅ……なんだか少し恥ずかしいかも」
ゆうこは苦笑いを浮かべ、自分の服の裾をキュッと引っ張った。
「私まで、なんだか珍しい見世物になってない?」
そんな賑やかなやり取りをしていると。
ガヤガヤとした人だかりの向こう側から、パッと明るくよく通る声が聞こえてきた。
「ちょっと、みんな何の騒ぎをしてるの?」
人々の波をかき分けるようにして、一人の元気な女性がこちらへ歩いてくる。
年齢は二十代半ばほど。
南国の太陽を思わせる、健康的で美しい日焼けした肌。
肩まで伸びた艶やかな栗色の髪を後ろで一つにキュッと束ね、頭には鮮やかな赤い手ぬぐいがきっちりと巻かれている。
動きやすそうな仕事着の上には、特製の芋色の前掛け。
腰のあたりには、職人の証である小さな酒樽がぶら下がっていた。
女性は人だかりの隙間からひょいと顔を出し、目の前のポコちん龍を見上げる。
「……わぁっ」
その大きな瞳が、星屑のようにぱっと眩しく輝いた。
「本物の、龍だ……」
そして。
「すごい、すごすぎるっ!」
心の底から嬉しそうに、満面の笑みを浮かべる。
彼女が笑うと、その頬には愛らしい小さなえくぼがふわりと浮かび上がった。
女性はそのままポコちん龍の足元へスタスタと近づくと、まるで子供のように目を輝かせ、興味津々といった様子でその巨体をじっくりと眺め始める。
「ねえ、これって本物なの?」
「うん、本物だよ」
ゆうこが少し驚きながらも答える。
「私たち、これに乗ってきたの」
「これに、乗ってきたぁっ!?」
女性の目が、さらに信じられないほど丸く見開かれた。
「へぇ……そいつはたまげた……!」
そのあまりにも裏表のない素直すぎる反応に、さっきまで緊張気味だったゆうこも、思わずつられてふっと笑みをこぼす。
「そんなに珍しいものなの?」
「そりゃあ珍しいに決まってるでしょ!」
女性は間髪入れずに即答する。
「私なんて、生まれてこのかた本物の龍の姿なんて見たことないもん!」
「そっか、そうだよね」
ゆうこはなんだか急に嬉しくなり、胸のつかえが取れたような気持ちになった。
すると女性は、ふと何かを思い出したようにハッと姿勢を正し、自分の胸をポンと叩いた。
「あ、いけない! 自己紹介がまだだったね!」
女性は誇らしげに胸を張る。
「私は、ほかてん!」
「この芋ノ里で腕を振るう、一人前の焼酎職人だよ!」
「ふたりとも、遠いところよく来てくれたね。よろしく!」
その言葉とともに、周囲にパッと明るい笑顔が広がる。
「私はゆうこ」
「こっちはサクと、クルスだよ」
「これからよろしくね、ほかてんさん」
「うん! よろしく!」
ほかてんは嬉しそうに何度も力強く頷いた。
その時だった。
遠くの方から、腹の底に響くような低い太鼓の音がドーン、ドーンと届いてきた。
ドン……。
ドン……。
ゆっくりと、しかし確かな一定の間隔を保って空気を震わせている。
その音にハッとして、ほかてんがくるりと振り返った。
「おっ、そろそろ時間のようだね」
「そろそろって、何が始まるの?」
ゆうこが少し身を乗り出して尋ねる。
ほかてんは活気づく広場の中央へ、期待に満ちた目を向けた。
そこには、いつの間にかものすごい数の人が集まり始めていた。
風に揺れる色とりどりの旗。
積み上げられた大きな酒樽。
頑丈な木製の舞台。
そして、その中央には、神聖な雰囲気をまとった祭壇のような場所がしっかりと設けられている。
「麹精霊祭りだよ」
ほかてんが少し声を弾ませながら呟く。
「この里で、毎年大切に開かれてる伝統のお祭りなんだ」
まだこれから何が始まるのか、ゆうこには完全には分かっていない。
けれど。
そこに集まる人々の表情は、誰もが例外なく明るく輝いていた。
小さな子どもたちは待ちきれない様子で広場を駆け回り、大人たちは笑い声を上げながら酒樽をせっせと運び込んでいる。
芋ノ里という場所のすべてが、この祭りの始まりを心から待ちわびている熱気に包まれていた。
「なんだか、こっちまでワクワクしちゃうね」
ゆうこが柔らかく微笑む。
ほかてんもそれに同意するように、嬉しそうに大きく頷いた。
「うん! 今年も、きっと最高に楽しい祭りになるよ!」
だが――その言葉の裏側に潜んでいるかもしれない、これから訪れる小さな異変の影を。
この時のゆうこたちも、そしてほかてん自身も、まだ知る由もなかった。
ドン……。
ドン……。
再び、重低音を伴った太鼓の音が響き渡る。
今度はさっきよりもほんの少しだけ大きく、力強さを増していた。
その音に誘われるように、広場の中心へ向かって人々がさらに雪崩れ込むように集まっていく。
「いよいよ始まるよ」
ほかてんが楽しそうに白い歯を見せて笑う。
「さあ、行こう!」
「うん!」
ゆうこたちも、人の波の勢いに少し押されながら、楽しそうに歩き出した。
広場の中央に組まれた巨大な木製の舞台は、間近で見ると圧倒的な迫力がある。
その周囲には、酒樽や精巧な蒸留器を模したユニークな飾りがずらりと並び、色鮮やかな布が初夏の風に心地よく揺れていた。
「わあ、すごく綺麗……」
ゆうこは感嘆の声を漏らしながら、キョロキョロと辺りを見回す。
この大きなお祭りを心から楽しみにしているのは、もちろん大人たちだけではない。
あちこちの特等席で、子どもたちも今か今かと舞台の上をじっと見つめていた。
「ねえ、ほかてんさん。その麹精霊って、いったいどんな姿をしてるの?」
歩きながら、ゆうこが興味津々といった様子で尋ねる。
「人によってどんな姿に見えるのかは、全然違うって言われてるんだよね」
ほかてんが振り返りながら答えてくれる。
「ある人には、とっても小さな子どもの姿に見えたり、また別の人には可愛らしい動物みたいに見えたりするらしいよ」
「へぇ……不思議だな……」
「でもさ、姿かたちは違っていても、里の誰もが知ってる共通点が一たつだけあるんだ」
ほかてんはわざとらしく声を少しだけ潜め、神秘的な雰囲気を醸し出す。
「それはね、とにかく焼酎が大好きってこと!」
「そこはやっぱり共通なんだね」
ゆうこは思わず吹き出して、楽しそうに笑う。
サクも優雅に扇子を少し動かしながら、興味深そうに舞台を眺めていた。
「いったい、どんな子たちが姿を見せるのかしらね」
「ふむ、今からとても楽しみですね」
クルスも静かに頷きながら同調する。
やがて。
ガヤガヤとした喧騒のなか、舞台の上へと一人の男性が堂々と現れた。
背中には巨大な酒樽を背負った、いかにも腕の立ちそうな恰幅のいい職人だ。
男性は舞台の中央へとどっしりと立ち、観客に向けて両手を大きく力強く広げた。
「芋ノ里のみんなぁぁぁ!! 調子はどうだぁぁぁ!!」
「おおおおおっ!!」
「今年も、待ちに待ったこの日がやってきたぞぉぉぉ!!」
「うおおおおおおっ!!」
割れんばかりの凄まじい歓声が、広場の空気を大きく揺らす。
ゆうこもその熱気に当てられ、思わず満面の笑みを浮かべた。
いよいよ。
年に一度の麹精霊祭りの幕が上がる。
男性職人がさらに気合の入った声を張り上げた。
「それでは――!」
その瞬間、周囲の喧騒がピタッと止まり、一拍の静寂が訪れる。
広場全体が、息を呑んでその一挙手一投足に注目した。
「今年の、栄えある麹精霊を――」
その時だった。
誰の目にも留まらないほどのわずかな隙に。
舞台のすぐ脇にポツンと置かれていた小さな籠が、中身を失ったかのように、ぽっかりとひとつだけ空になっていることに。
ほかてんは、まだ微塵も気付いていなかった。




