第105話『酒霧の向こう側』
その巨大な背中は少しずつ小さくなり、やがて青空へ溶け込むように見えなくなった。
「……よしっ!」
ゆうこは両手で自分の頬を力強く叩く。
パチン、と乾いた音が響き、意識のスイッチが切り替わる。
次に待っているのは、まだ見ぬ蒸留酒大陸。
どんな人たちが暮らし、どんな美酒が生まれ、どんな騒動が待ち受けているのだろうか。
期待を胸いっぱいに膨らませながら、彼女は大きく息を吸い込む。
三人と一匹を乗せた黄金の龍は、さらに南の空へ向かって巨大な翼を広げた。
ゴォォォォォォォォッ!!
黄金の翼が大きく羽ばたくたび、気圧が変わり、空気が激しく震える。
巻き起こる暴風に白い雲が左右へと押し流されていく。
どこまでも果てしなく広がる青空。
眼下には、太陽の光を反射して輝く、ゆるやかな波をたたえる南の大海原。
時折、群れを成した海鳥が龍の横を追い越し、まるで旅の案内役を務めるかのように優雅に旋回していく。
しばらくは、穏やかな空の旅が続いていた。
吹き抜ける風は心地よく、心地よい疲労感と相まって眠気を誘うほどに平和な時間。
「ふぁぁぁ……」
ゆうこは両手を高く掲げ、大きな伸びをする。
「こんな絶景を見ながら飛んでると、なんだか眠くなっちゃうわね」
「そういう時は、逆らわずに寝るのが一番よ」
サクは龍の背にふわりと寝転がり、ほんの数秒であっという間に規則正しい寝息を立て始める。
「自由ねぇ……」
思わず苦笑が漏れる。
「しゅわ〜」
しゅわ丸も龍の頭のてっぺんで器用に丸くなり、心地よい揺れに身を任せてトロトロとまどろんでいた。
そんなマイペースな仲間たちを見やりながら、クルスだけは龍の首元にしっかりと立ち、鋭い眼光で南の空を静かに見据えている。
「フッ……。まだ見えぬか、蒸留の聖域よ。俺の右腕が疼くその時こそ、新たな戦いの幕開け……」
「まだその厨二病設定、続行中なのね」
ゆうこは呆れたような苦笑いを浮かべながら、再び前方の空を見上げた。
その時だった。
ふわり、と。
頬を撫でる風の質感が、わずかに変わる。
今までの潮の香りに混じって、どこか甘く、香ばしい芳醇な匂いが鼻先をくすぐった。
「……あれ?」
ゆうこは小さく鼻を鳴らし、香りの出どころを探す。
「何だろ、この良い匂い……」
「焼き芋みたいな、香ばしさね」
サクが、いつの間にか目を覚まし、のそりと起き上がる。
「もしかして、気づいた?」
「え?」
「蒸留酒大陸がもうすぐ近いっていう、動かぬ証拠よ」
「えっ!」
ゆうこは反射的に身を乗り出し、勢いよく立ち上がる。
慌てて眼下の景色を見下ろすが、そこに広がるのは相変わらずどこまでも続く蒼い海だけだった。
「まだ何も見えないけど?」
「もう少しの辛抱よ」
サクは楽しげに前方を指差す。
「よく目を凝らしてみて」
ゆうこは言われるがままに目を細め、水平線の先を凝視した。
遥か遠く。
世界の果てのような場所に、小さな白い帯のようなものがぽつんと浮かんでいる。
「あれって……ただの雲じゃないよね?」
――『あれは普通の雲ではないぞい。蒸留酒大陸をすっぽりと包み込む、天然の酒霧じゃよ』
「酒霧?」
――『蒸留酒は発酵酒よりも圧倒的に酒気が強いんじゃ。長い年月をかけて大地から放たれ続けた膨大な酒気が、大陸全体を覆う分厚い霧へと変化したのじゃわぃ』
ゆうこは思わずゴクリと息を呑んだ。
霧という言葉には似合わないほど、それはあまりにも巨大だった。
空と海の境界線を完全に覆い隠し、まるでこの世界と外界を隔てる巨大な白い壁のようにそびえ立っている。
その瞬間。
ゴォォォォォォッ。
ポコちん龍が低い唸り声を上げ、ゆっくりと飛ぶスピードを落としはじめる。
「どうしたの?」
クルスはピクリと反応し、静かに自分の右腕を見つめた。
黒衣の下で、黄金の紋様が怪しく淡く輝いている。
「……警戒しているらしい」
クルスは低い声で呟く。
「この霧の先には、今まで旅してきたどの国とも違う、強烈で濃密な酒気が満ちているようだ」
いつもの厨二病口調ではない。
珍しく、研ぎ澄まされた真面目な声音だった。
サクも表情を引き締め、真剣なまなざしで前方を睨む。
「ここから先は、本格的な蒸留酒大陸の領域よ。気を引き締めていって」
ゆうこは無意識に、白衣の胸元をぎゅっと力強く握りしめた。
胸の奥で高鳴る、抑えきれない期待感。
全身を駆け巡る高揚。
そして、未知の領域に対するほんのわずかな緊張感。
そのすべての感情をしっかりと胸に抱え込みながら、ゆうこは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「よしっ……!」
ポコちん龍が再び力強く翼を広げ、気合の入った咆哮をあげる。
ゴォォォォォォォォッ!!
黄金色の巨大な体躯は、迷うことなく一直線に厚い酒霧へと突入した。
視界が真っ白な世界に染まる。
わずか数メートル先すら見えないほどの濃密な霧。
ひんやりとした湿った空気が肌を包み込み、微かにアルコールを含んだ風が頬を優しく撫でる。
まるで、現実からまったく別の異世界へと通じる扉をくぐり抜けているような、不思議で幻想的な感覚。
そして。
静寂と白銀の世界が進むこと数分。
包み込んでいた霧が、まるでカーテンを引くようにゆっくりと晴れ始めた。
最初に見えたのは、どこまでも澄み切った鮮やかな青空だった。
続いて、その眼下に広がる、目に染みるような深い緑の絨毯。
そして。
ドォォォォォォォォンッ!!
まるでこの世界を支えているかのような、圧倒的な存在感を放つ巨大な火山が、三人の視界いっぱいにその姿を現した。
「うわぁ……っ!」
ゆうこは圧倒され、思わず感嘆の声を漏らす。
山肌はごつごつとした黒々しい岩肌で覆われ、その頂上からは純白の噴煙が途切れることなく力強く立ち昇っている。
しかし、恐ろしさを感じさせる景色ではない。
噴煙はどこか柔らかく、上空の雲と溶け合うように優しく空へ昇っていき、火山そのものが生き物のように大地の息吹を伝えていた。
その火山の麓には、息をのむほど広大な一つの巨大な街。
いや、それは街という枠を超え、まさに「酒蔵の都」と呼ぶべき光景だった。
無数の木造蔵が整然と美しく建ち並び、その建物の間を縫うように、空へ向かって伸びる高い蒸留塔が何本もそびえ立っている。
塔の先端からは白い蒸気が途切れなく噴き出し、街全体がふわりとした温かな湯気に包まれていた。
まるで、町そのものが巨大な一つの蒸留器として機能しているかのようだった。
「すごい……。こんな景色、生まれて初めて見た……」
ゆうこは瞳をキラキラと輝かせながら、息を忘れて眼下を見つめる。
さらに視線を遠くの地平線へと向けると、街の外側には圧倒的な広さの畑がどこまでも続いていた。
風を受けるたびに波打つ、一面の黄金色の麦畑。
目に鮮やかな緑の葉が広がる、広大な芋畑。
たわわに実った黄金色の稲穂が頭を垂れる美しい田んぼ。
可憐な白い花を咲かせたそば畑。
さらに、その向こう側には、太陽の光を浴びて輝く背の高いサトウキビ畑までが隙間なく広がっている。
「畑ばっかり! あれ、全部お酒の材料になるものなの?」
――『その通りじゃ。焼酎というものは、二次仕込みで何を選ぶかによって味わいも香りもガラリと変わる。だからこそ、この国では多種多様な作物が大切に育てられておるのじゃよ』
「へぇ……。つまり、この目の前に広がる景色のすべてが、美味しい焼酎になる可能性を秘めているってことね」
――『うむ、まったくその通りじゃな』
ゆうこは深くうなずき、思わず感心のため息をつく。
ビールの国には、どこまでも大麦畑が広がっていた。
ワインの国には、太陽を浴びた一面の葡萄畑があった。
日本酒の国には、澄んだ水が流れる美しい水田がどこまでも続いていた。
それぞれの国には、それぞれのお酒を育むための固有の風景が存在している。
そして今、目の前に広がっているのは。
あらゆる原料を寛大に受け入れる、焼酎の国ならではの圧倒的な営みの景色だった。
ゆうこはしばらくの間、言葉を失って眼下に広がる大パノラマを眺め続けていた。
ふと、視界の端に違和感を覚える。
「……あれ?」
巨大な酒蔵の都から少しだけ離れた、見晴らしの良い場所。
黄金色の畑に囲まれるように、温かみのある赤茶色の屋根が可愛らしく並んでいるのが見えた。
その小さな集落の周囲は、見渡す限りの芋畑で埋め尽くされている。
「ねぇ、あそこにも小さな町があるよ」
サクがトントンと肩を叩き、指差す。
「うん。地図で確認したけど、あそこがこの旅の最初の目的地ね」
クルスは手元の古びた紙の地図をめくりながら答える。
「『芋ノ里』です」
「芋ノ里……」
ゆうこはその名前を口の中でそっと転がすように呟いた。
名前を聞いただけで、なぜだか嫌な予感というか、どんな場所なのかが容易に想像できてしまう。
「……まさかとは思うけど」
ゆうこは遠い目をして、ジトッとした視線を向ける。
「あの町の中、芋だらけだったりしないよね……?」
サクはくすりと悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「さぁ、どうかしらね? 自分の目で確かめてみれば、すぐに分かるわ」
「その言い方、絶対になんか裏があるでしょ!」
ゆうこが思わず声を張り上げて抗議する。
その声に反応するように、ポコちん龍が翼を大きく羽ばたかせた。
ゴォォォォォッ!!
轟音とともに、足元に広がる黄金色の畑の風景が、一気に後方へと飛ぶように流れていくのだった。




