第104話『旅人たちの置き土産』
「……え?」
たったそれだけの文字。
それ以上の説明など、どこにも見当たらない。
「何これ? 黒歴史を隠す? どういう意味よ……」
ゆうこは小さく首を傾げ、瞳を丸くする。
何度読み返しても、脳裏に浮かぶのは疑問符ばかり。
すると、そのすぐ横にも、別の誰かが刻み込んだ新しい文字が目に飛び込んできた。
『忠告を笑った俺が馬鹿だった』
さらに、その隣を覗き込む。
『頼む。学生時代の日記だけは持って行くな』
『初恋の話は絶対するな』
『ポエムを書いてる奴は覚悟しろ』
「えぇぇぇ……」
ゆうこの頬が、信じられないものを見るかのようにぴくりと引きつる。
冷たい風が吹き抜ける中、背筋を這い上がるような悪寒。
「何なのよ、この国は……」
嫌な予感しかしない。
心臓がトクトクと早鐘を打つ。
そんな相棒の様子など気にする素振りも見せず、サクはその落書きを眺めながら、どこか楽しげに唇を綻ばせた。
「ふふっ、面白そうじゃない」
「いや、笑い事じゃなくて不安になるでしょ!」
ゆうこは勢いよく体を翻し、バシッと空中にツッコミを入れる。
「黒歴史を隠せって何なのよ!? そんな物騒な国に突っ込む気!?」
波立つ心を落ち着かせようと、再び冷や汗を拭いながら落書きへ目を向ける。
すると、一番下の隅っこに、控えめな小ささでこう刻まれていた。
『でも、最高に笑える国だった。』
その最後の一文を読んだ瞬間。
胸の奥で重く渦巻いていた不安の澱みが、ほんのわずかな期待へと色を変える。
焼酎の国。
一体、その土地には何が待ち受けているのか。
まだ誰にも、その答えは分からない。
――ガタン、と。
小さく揺れる天空酒鯨の背中で、サクが心地よさそうに伸びをした。
「ねぇ、少しここで休んでいかない?」
サクが目の前の木造りの東屋を指差しながら、柔らかく微笑む。
「ポコちん龍も、ずっと飛んでいて少し疲れているみたいだし」
「そうね、賛成」
ゆうこも深く頷き、こわばっていた肩の力を抜く。
雲の上の旅路は想像以上に快適だったとはいえ、絶えず吹き付ける強風に晒され続けた身体は、思いのほか疲労を蓄積させていた。
一行は足を向け、東屋の渋い木製ベンチへと腰を下ろす。
すると、古びた木の香りが漂う机の上に、一枚の綺麗に磨かれた木札が置かれていることに気付いた。
そこには、墨汁で書かれた丁寧な文字。
『旅人へ。必要な分だけ飲み、必要な分だけ食べよ。そして帰る時は、次の旅人へ何か一つ残していこう。』
「へぇ……」
ゆうこは思わず感心したように息を漏らす。
「素敵な文化ね。なんだか心が温まるわ」
興味を惹かれるまま、すぐ傍らにあった素朴な木箱の蓋をそっと持ち上げる。
中には、香ばしい干し肉や甘い木の実、保存の利く硬めのパンがきれいに整列していた。
隣の樽からは、ひんやりと冷えた澄んだ湧き水の気配。
さらにその奥の小樽には、名もなき旅人たちが置いていったのであろう、様々な銘柄の美酒まで並んでいる。
どれもが、ほんの少しずつ。
誰か一人が独り占めすることなく、次にやってくる見知らぬ旅人のことを思いやりながら、そっと残していったものなのだろう。
――『昔から続いている助け合いの文化じゃよ。ここは世界中の様々な旅人が立ち寄る、束の間の休息地じゃからのぅ』
脳裏に響く声に、ゆうこは小さくうなずく。
「困った時はお互い様ってことね。本当に、いい文化だなぁ」
ゆうこは木箱から素朴なパンを一つ取り出し、小さくちぎって口に運ぶ。
噛みしめるほどに小麦の甘みが広がる、どこか懐かしい味。
けれど、不思議と胸の奥からポカポカと温かくなっていくのが分かる。
「しゅわ♪」
足元では、しゅわ丸が自分の身体ほどの木の実を両手で抱え込み、嬉しそうに夢中で頬張っていた。
その愛らしい様子に、三人の表情がふっと緩む。
軽やかな食事を終えたゆうこは、白衣のポケットにごそごそと手を突っ込み、何かを探し始める。
「あっ! そうだわ」
日本酒の国を旅立つとき、お世話になった酒蔵の職人たちから、餞別として持たされた包みがあったことを思い出す。
ざらりとした手触りの竹の皮を広げると、中からはふっくらと握られたおにぎりが二つ、湯気ではないが瑞々しい姿を現した。
「これ、一つここに置いていこうかな」
「きっと、次に通りかかった旅人がすごく喜ぶわね」
サクの賛同を得て、ゆうこは木箱の隅っこへ、そっとおにぎりの包みを滑り込ませる。
それに倣うように、サクも優しく微笑みながら、自慢の小瓶に入った美しい葡萄酒を一本並べた。
「ワインの国で手に入れた、とっておきのお土産よ」
最後に、一連の流れをじっと見つめていたクルスが、真剣な表情を浮かべて大きな荷物を漁り始める。
「よし。俺も、旅人の役に立つ珠玉の品を置こう」
ゴソゴソ、と物騒な音が響く。
期待と不安が入り交じる視線の先で、クルスが誇らしげに引き抜いたもの。
それは、ぐるぐる巻きにされた新品の純白の包帯だった。
「…………」
「…………」
「…………」
東屋の空気が、一瞬にして冷える。
ゆうことサクの視線が、スルスルと無言でその包帯へ集中した。
「いや、なんで包帯?」
「旅の安全において、これほどの必需品はありません」
クルスは微動だにせず、真っ直ぐな瞳で力強く言い切る。
「不意の負傷に見舞われた時、この包帯ほど心強く、頼りになる物などこの世に存在しません」
「確かに間違っちゃいないけどさぁ!」
ゆうこはあまりの斜め上のチョイスに、思わず盛大に吹き出す。
「もっとこう、他の選択肢があるでしょ! 干し肉の備蓄とか、旅の疲れを癒やすお酒とかさ!」
「俺の価値観においては、どんな美味な酒よりもこの包帯の方が気高い価値を持ちます」
「価値観が完全に戦闘狂なのよ!」
乾いた風にのって、東屋に賑やかな笑い声が弾ける。
その楽しげな声の波につられるように、下で待機していた天空酒鯨も、大気震わせるように声を漏らす。
ブォォォォォォォォ……。
どこか愛嬌のある、嬉しそうな鳴き声が、どこまでも続く大空へ響き渡っていくのだった。
穏やかな時間は、まるで砂時計の粒が落ちるように、あっという間に過ぎ去っていく。
肌を撫でる風は相変わらず心地よく、天空酒鯨の背中には、これまで通り過ぎていった無数の旅人たちの笑い声が染み込んでいるかのような、不思議な温もりがあった。
「さて、そろそろ出発しましょうか」
サクがスッと腰を浮かせ、背筋を伸ばす。
「目指す蒸留酒大陸までは、ここからまだまだ距離があるものね」
「そうね、行こっか」
ゆうこは少しだけ名残惜しさを覚えながら、自分の足元や周囲の景色をゆっくりと見渡す。
初めて降り立った見ず知らずの場所なのに、なぜか離れがたくなってしまう。
そんな、居心地の良さと優しさが、この天空酒鯨の背中には満ちていた。
「しゅわ〜……」
しゅわ丸も名残惜しそうに小さく甘えた声を漏らし、トコトコと歩いて天空酒鯨の大きな鼻先へとぴょんと飛び移る。
それを察知したのか、天空酒鯨は嬉しそうに目を細め、巨体に似合わない繊細な優しさで、大きな鼻先をそっと持ち上げた。
まるで「またいつでも遊びにおいで」と語りかけているかのような、温かな交流。
「しゅわ♪」
しゅわ丸も嬉しそうに小さな前足で鼻先をぽんぽんと叩き返す。
その微笑ましい光景に、ゆうことサクの頬が自然と柔らかく緩んだ。
「すっかり仲良しさんね」
「動物同士は、言葉がなくとも心を通わせるのが早いものだわ」
一方、そんな和やかな様子を少し離れた場所から腕組みで見つめていたクルスが、わざとらしく小さく咳払いをする。
「……フッ。大いなる天空酒鯨よ。我が盟友であるスライムを歓迎したその心意気、特例として褒めてやろう」
天空酒鯨の反応は――。
ブォォォォォォ……。
何の変哲もない、ただの低い息の音。
一切の返事もせず、あからさまにフイと大きな頭を別の方向へ逸らした。
「完全に無視されたわね」
「微塵も相手にされてないわね」
ゆうことサクの冷ややかなツッコミがハモる。
「…………」
クルスだけが、彫像のようにピタリと静止して固まっていた。
「い、今の沈黙はだな、きっと照れている証拠だ」
「うん、そういう大人な解釈にしておきましょうか」
ゆうこは引き攣る笑いを必死に堪えながら、愛車のポコちん龍の背中へとひょいと乗り込む。
サクも愛おしそうにしゅわ丸を腕に抱き上げ、それに続くように軽やかに座った。
全員がそれぞれの定位置についたことを確認すると、クルスは気を取り直すように龍の首元へ立ち上がり、遥か南の空へ鋭い視線を据える。
「行くぞ、我が不世出の盟友よ!」
ゴォォォォォォォォッ!!
ポコちん龍が、大地ならぬ雲を揺らすほどの雄々しい咆哮を轟かせる。
その戦闘開始の合図に呼応するように、天空酒鯨も負けじと大きな胸板を膨らませ、たっぷりと空気を吸い込んだ。
ブォォォォォォォォォォッ!!
頭上の巨大な噴気孔から勢いよく噴き上がったのは、いつもの酒ではなく。
光を吸い込んで眩しくきらめく、無数の虹色の泡だった。
大小さまざまなシャボン玉のような泡が、どこまでも続く青空いっぱいへふんわりと舞い上がり、降り注ぐ太陽の光を浴びて七色に乱反射する。
それは息を呑むほどに幻想的な光景。
潮風に乗ってふわりふわりと流れていく泡は、まるで三人と一匹のこれから始まる新たな旅路を、心から祝福しているかのようだった。
「わぁ……綺麗……」
ゆうこは感嘆の息を漏らし、思わず言葉を失う。
泡はポコちん龍の周囲を名残惜しそうにくるくると舞い踊りながら、やがて空気に溶けるように静かに弾けて消えていく。
その弾けるたびに、まるでガラス細工が触れ合うような、小さな鈴の音に似た澄んだ音色が青空へ響き渡った。
チリン。
チリン。
チリン。
サクが目を細め、穏やかな微笑みを浮かべる。
「きっと、天空酒鯨流の最大級のお見送りね。旅人が次の目的地まで無事に辿り着けるようにって願う、祝福の泡なのよ」
「素敵な習慣だなぁ……」
胸がいっぱいになったゆうこは、最後にもう一度だけ名残惜しそうに天空酒鯨の方を振り返り、両手を大きく振った。
「ありがとう! 元気でね!」
「また絶対に会いに来るわよー!」
ブォォォォォォォォ……。
天空酒鯨は低く優しい鳴き声でそれに応えると、ゆったりと巨体を翻し、どこまでも広がる雲海の彼方へと優雅に泳ぎ去っていくのだった。




