第103話『空飛ぶ酒場』
その瞬間だった。
ぷしゅううううううっ!!
頭上の巨大な噴気孔から、ありえないほどの勢いで黄金色の液体が天に向かって噴き上がる。
「へ?」
ゆうこが間抜けな声を漏らした、まさにその次の瞬間。
ザッバァァァァァァァァンッ!!
大量の美酒が、頭上から豪雨のように降り注いだ。
「ぶはぁぁぁっ!!」
「ちょっ、何これぇぇぇぇっ!?」
一瞬にして全身びしょ濡れ。
愛用の白衣から黄金色の芳醇な液体がぽたぽたとしずくを垂らし、肌に張り付く。
鼻腔をくすぐるのは、どこまでも芳醇で甘やかな熟成香だった。
サクは顔にかかった酒を指先で優しくぬぐうと、そのままぺろりと舐めとる。
「ん~、美味しい! 乾杯♪」
「乾杯じゃなーーい!!」
あまりの理不尽さに、ゆうこがひっくり返りそうな声で叫んだ。
一方、クルスは全身すっかりずぶ濡れになりながらも、微動だにせず仁王立ちをキープしている。
「フッ……」
不敵な笑みを浮かべる。
「歓迎の酒雨か。悪くない歓迎だ」
「格好つけてる場合じゃないでしょ!」
ゆうこの的確すぎるツッコミが飛ぶも、クルスはどこ吹く風といった優雅な様子で腕を組んだまま、悠然と空を見上げている。
そんな賑やかな二人のやり取りをよそに、ポコちん龍は文字通り気持ちよさそうに大空を悠々と滑空していた。
周囲にはどこまでも澄み切った雲ひとつない青空が広がり、南から吹く心地よい暖風が、濡れた頬を優しくなでていく。
なんという穏やかな時間。
さっきまでの激しい戦いの緊張が嘘だったかのような、ゆるやかで贅沢な空の旅が続いていた。
その時だった。
「しゅわ〜♪」
しゅわ丸が何か面白いものでも見つけたようにぱっと目を輝かせると、前方の空間へ向かって小さな両手をぶんぶん激しく振り始める。
すると。
ブォォォォォォォォォ……。
天空酒鯨が、すべてを包み込むような穏やかな鳴き声を響かせた。
巨大な尾びれをゆっくりと揺らしながら、こちらへ巨体を近づけてくる。
敵意のかけらもない。
それどころか、どこか嬉しそうですらある様子。
「わっ、こっち来た!」
ゆうこは反射的に身構え、キュッと肩をすくめた。
山のように巨大な身体が近づくにつれ、その圧倒的なスケール感が肌でひしひしと伝わってくる。
見上げるほどに高くそびえる背中。
長い年月をこの大空で生きてきた誇りの証のように、無数の歴戦の傷跡が刻まれている。
さらに背中の一角には小さな草花が群生し、岩肌のようにごつごつした場所には立派な木までしっかりと根を張っていた。
それはもはや生き物というより、一つの美しい浮島そのものだった。
天空酒鯨はポコちん龍のすぐ横まで並んで泳いでくると、愛情深そうに大きな頭をしゅわ丸へ優しく擦り寄せる。
「しゅわ♪」
しゅわ丸も負けじと小さな頭をこつん、とぶつけた。
一匹と一頭は、出会って一瞬にして心を通わせ、すっかり仲良くなってしまったらしい。
「……可愛い」
強張っていたゆうこの頬が、ふっと自然に緩む。
その微笑ましい様子を温かい目で見ていたサクが、くすっと上品に笑った。
「なんか、私たちのこと歓迎してくれているみたいね」
その時、天空酒鯨がふわりと大きく身体を傾ける。
まるで、旅人である私たちに広い背中を差し出すかのように。
「……ん?」
目を凝らしてよく見ると、背中の中央には驚くほど平らなスペースが広がっていた。
頑丈な丸太で作られた小さな桟橋。
使い込まれた木製のベンチ。
大きな樽を代用した即席の机が並ぶ休憩スペース。
さらに、その奥には風情のある小さな東屋までがしっかりと建っている。
「えぇぇぇぇぇっ!?」
ゆうこは思わず両目を見開き、声を裏返させた。
「何あれ!?」
――『ふぉっふぉっふぉっ! 気になりおったかぃ! あやつらはのぅ、ただの天空酒鯨ではない。大空を旅する者たちの、とびきり贅沢な天然の休憩所じゃ』
「休憩所ぉ!?」
信じられないといった様子で、ゆうこは再び素っ頓狂な声を上げる。
――『何日も過酷な空の旅を続ける者は、あやつらの背中へ降り立ち、一休みするのじゃ』
――『腹が減れば旨い飯を食い、疲れたら青空の下で昼寝をし、酒好きならば極上の酒を飲む。昔からそうやって、多くの旅人たちを静かに見守ってきた存在なんじゃよ』
「そんな素敵な文化があるんだ……」
ゆうこは感動に染まった瞳で、目の前の天空酒鯨をしみじみと見つめた。
――『じゃから旅人たちは決して天空酒鯨を襲わん。天空酒鯨もまた、旅人たちに危害を加えることはない。互いに助け合いながら、この果てしない大空を旅しておるというわけじゃな』
「なんだか、すごくロマンチックね」
サクも穏やかに微笑みながら、こくりと大きく頷いた。
「私も古文書の類いで話には聞いていたけれど、実際にこうして自分の目で見るのは初めて! 思っていたより、ずっと優しくて温かい生き物なのね」
黄金の龍は、その天空酒鯨の背中へ向かってゆっくりと優雅に高度を下げ始める。
巨大な鯨は「ヴォォォォォン……」と低い歓迎の調べを響かせ、広大な背中を三人と一匹へ完全に預けた。
そこには何本もの太い杭がしっかりと打ち込まれ、かつて先人たちがロープで飛行魔物を繋ぎ止めていた名残が今なお残されている。
使い込まれた古びたベンチには、何度も誰かの手で修理された温かな跡。
無造作に置かれた酒樽には、旅の歴史を物語る無数の引っかき傷。
どれもが、この場所が途方もない長い年月にわたり、数え切れない旅人たちへ利用され続けてきた確かな証だった。
「それじゃあ、私たちも少し休んでいきましょうか」
サクが落ち着いた声でそう告げると、ポコちん龍は短く鳴いてふわりと高度を落とす。
ゴォォォォッ、と風を切る音。
天空酒鯨も応えるようにさらに速度を緩めた。
龍の巨体が、天空酒鯨の温かな背中へふんわりと静かに着地する。
ドスン、という重みのない心地よい衝撃。
「うわぁ……」
ゆうこはそっと足を下ろした瞬間、小さく感嘆の声を漏らした。
想像していたよりもはるかにしっかりとした足場。
柔らかな草が生い茂り、木陰の隙間には小さな野花まで健気に咲いている。
ここは空の上のはずなのに、まるで地上の牧歌的な島へ降り立ったかのような不思議な安心感に包まれていた。
「空の上なのに……ちゃんと地面があるみたい」
――『昔は旅人だけでなく、大陸中の商人もよく利用しておったわぃ。だからこの背中は、いつしか”空飛ぶ酒場”なんて洒落た名前で呼ばれることもあるぞぃ』
「空飛ぶ酒場……!」
ゆうこがワクワクしながら辺りをキョロキョロと見回す。
すると、東屋の太い柱に、風雨にさらされた古びた木の看板がぽつんとぶら下がっていた。
そこには、味わい深い手書きの文字でこう記されている。
『天空酒鯨へようこそ。旅人よ、旨い酒を飲んで一息つけ。』
「本当に、正真正銘の酒場なんだ……」
思わずゆうこの口元から楽しげな笑みがこぼれた。
さらに周囲へ目を向けると、柱やベンチ、酒樽の至る所に、かつてここを訪れた旅人たちが残した無数の落書きが刻まれている。
果てしない旅の思い出。
離れた仲間へのメッセージ。
大切な恋人への熱い愛の言葉。
そして、何十年、いや何百年も昔にこの空を駆けた旅人たちの名前の数々。
まるで、この天空酒鯨そのものが、世界中の旅人たちのロマンと思い出をたっぷりと乗せて、今も空を旅しているかのようだった。
「すごい……」
ゆうこは思わずその場に足を止め、じっと見つめる。
一つ一つの落書きに目を向けるたび、そこには文字の数だけ誰かの鮮やかな旅の物語が息づいていた。
『三十年前、親友と二人で世界一周達成!』
『またいつか、この青空で会おう』
『酒代を快く貸してくれたおっちゃん、本当にありがとう!』
『プロポーズ大成功!!』
真面目で胸が熱くなるものもあれば、思わずクスッと吹き出してしまうようなユーモアあふれるものまで実に様々である。
「あははっ! これ、すごく面白い」
ゆうこは一本の大きな樽を指差して声を弾ませた。
そこには、力強い筆跡でこう彫り込まれていたのだ。
『酒飲んでそのまま飛ぶな。絶対吐くぞ。』
「当たり前じゃない!」
思わず誰もいない空間に向けてツッコミを入れる。
しかも、その文字のすぐ隣にはさらに続きの落書きが足されていた。
『実際に盛大に吐いた。』
『↑俺も被害者です』
『↑↑僕も盛大にやりました』
「何これぇ!」
ゆうこは堪えきれず、耐えきれずに吹き出した。
「落書きだけで見事に会話が成立してるじゃない!」
隣にいたサクも、肩を小刻みに震わせながら楽しそうに笑う。
「旅人たちは、ここへ来るたびに何か一言残していく習わしがあるらしいわ。何十年、何百年もずっと受け継がれている素敵な文化なのね」
「本当に素敵ねぇ……」
感心しながら、ゆうこは木製のベンチへとゆっくり腰掛けた。
ふと見上げれば、どこまでもどこまでも広がる吸い込まれそうな青空。
足元では、巨大な天空酒鯨がゆったりと優雅に大空を泳ぎ続けている。
こんなにも不思議で、温かい休憩所がこの世界のどこかにちゃんと存在している。
それだけで、旅の疲れがスッと消えていき、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その時だった。
「しゅわっ!」
しゅわ丸がまた何かを見つけたのか、一際大きな一枚の岩に向かってぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねていく。
「どうしたの、しゅわ丸?」
気になるゆうこがすたすたと近付いた。
その平らな岩肌には、他のものよりもずっと新しく、深く刻まれた文字があった。
『焼酎の国へ向かう者へ』
たったそれだけの簡潔な一文を見た瞬間、ゆうこの楽しげな表情がわずかに引き締まる。
「焼酎の国……?」
息を呑み、さらにその下の文字をじっと続きを読むのだった。
『黒歴史だけは、絶対に隠しておけ』




