第102話『空を泳ぐ酒鯨』
黄金の龍が巨大な翼を広げ、どこまでも続く厚い雲海を豪快に切り裂きながら、遥か南方に眠る『蒸留酒大陸』を目指して大空を駆け抜けていく。
眼下には、激戦を繰り広げた日本酒の国を取り囲んでいた緑豊かな山々が豆粒のように小さくなり、やがて一面の果てしない青い海原だけが広がっていた。
上空の冷涼な気流から吹き抜ける風はどこまでも心地よく、ゆうこの頬を優しく撫で、長い黒髪をサラリと揺らしていく。
ゆうこは龍のゴツゴツとした鱗の感触を背中に感じながらしっかりと腰を下ろし、吸い込まれそうなほどに広大な眼下の景色へと視線を向けた。
どこまでも広がる、底知れぬ蒼い海。
燦々と降り注ぐ強烈な陽光を浴びた水面は、まるで無数の宝石を無造作に散りばめたかのように眩しくきらめき、ゆるやかな波が穏やかな表情を幾重にも描いている。
胸を突くようなその圧倒的な絶景を眺めているだけで、異世界を旅しているというリアルな実感が、熱を帯びて胸いっぱいに広がっていくのだった。
「綺麗……」
思わず零れ落ちた小さな呟きは、轟音を立てる風のなかにかき消されていく。
日本酒の国での死闘が、まるでずいぶん昔の出来事だったような、どこか遠い幻影のように感じられた。
その隣では、サクが龍の背中に大の字に寝転び、頭上をハイスピードで流れていく綿菓子のような雲をぼんやりと見上げながら、気だるげに口を開く。
「蒸留酒大陸は、この世界のずっと南の果てにあるって聞いたことがあるわ」
「南?」
ゆうこは小さく首を傾げ、サクの横顔を覗き込む。
「ええ。かなり遠いらしいわよ。このまま真っすぐ南へ飛び続けても、数日はかかるくらいにはね」
「そんなにかかるの!?」
ゆうこの目が驚きでまん丸に見開かれる。
これまでの大陸間を移動してきた旅路も、決して短い道のりではなかった。しかし、それをも優に上回る途方もない距離感に、思わず息を呑む。
冷や汗を拭いながら、旅立ちの際にアルケラから託された古びた世界地図を広げた。
醸造酒大陸よりさらに遥か南。
まるで他のすべての文明から距離を置くように、世界の縁っこに一つだけぽつんと描かれた、圧倒的な存在感を放つ巨大な大陸。
「どうしてこんなに離れているの?」
ゆうこが不思議そうに首を捻りながら呟いた、その瞬間だった。
どこからともなく、頭に直接響くような聞き慣れた、ひょうきんで陽気な神の声が響き渡る。
――『おっ、そこ気になりおったかぃ』
「アルケラ!?」
――『ぐびっ……ぷはぁ~! そういう知的好奇心をくすぐる質問をすると思って、ずっと待っとったんじゃ』
「いや、あんた一体どこから声出してのよ! って、早速ちゃっかり酒飲んでるじゃないのよ!」
――『はっはっは! 空の旅の友に美味い酒は必須じゃろうが! で、なんだ、蒸留酒の由来が知りたいか?』
――『蒸留酒というのはのぅ、一度醸された発酵酒をさらに熱して気化させ、それを冷やして液体に戻す……つまり、極限まで旨味を凝縮して造る酒なんじゃ』
――『一度生まれた酒をさらに極限まで磨き上げ、より強く、より鋭く、より澄み切った魂のような酒へと仕上げた存在じゃな』
「ふむふむ、なるほどねぇ」
ゆうこは神の講義に思わず真面目に深く頷く。
――『当然、そこから立ち込める酒気もめちゃくちゃ強い』
――『大昔は発酵酒大陸のすぐ隣にぴったり寄り添って暮らしておったんじゃが、あまりにも酒気が強すぎて色々と大迷惑な事件が頻発してのぅ』
「色々って、具体的に何があったのよ」
――『そこらに置いてあった熟成樽が勝手に爆発したり、酔っぱらいのオヤジがくしゃみ一つで千キロ先まで吹っ飛び続けたり、酔いすぎたドラゴンが酔っぱらって空を逆さまに飛んで迷子になったりじゃな』
「最後のは絶対盛ったでしょ! ドラゴンを馬鹿にしないでよ!」
――『細かいことは気にすでなぃ! わしは神じゃし!』
「開き直ったこの神様、マジでどうにかしてよ……!」
サクは呆れたように苦笑しながら、サラサラとした銀髪を風になびかせる。
「……神様の言うことが本当かどうかは分からないけれど、蒸留酒の持つ酒気が発酵酒より圧倒的に強烈っていうのは、まぎれもない事実よ。だから昔、面倒に思った神様が、大陸ごとずっと南の彼方へ大隔離したって言われているわね」
「へぇ……」
ゆうこは感心しながら、改めて手元の世界地図へと再び視線を落とした。
果てしなく遠く離れた南方の未知なる大地。
まだ見ぬ蒸留酒大陸。
そこには、これまで訪れたどの国とも違う独自の文化があり、強烈なアルコールの香りが満ちる酒があり、一癖も二癖もある頑固な人々が暮らしているに違いない。
そう想像するだけで、冒険者の血が騒ぎ、胸の奥が熱く高鳴っていく。
――『まぁ、言葉でぐちぐち聞くより、実際にこの目で見た方が早いわい』
アルケラは天界のどこかで腹を抱えているのか、楽しそうに豪快に笑う。
――『焼酎、ウイスキー、ラム、ウォッカ、ジン、テキーラ、ブランデー……。あそこは、あらゆる酒好きにとって一生に一度は踏み入れたい夢のパラダイスじゃ』
――『せいぜい飲みすぎて、またあの世へ逆戻りして死ぬでないぞ? ふぉっふぉっふぉ!』
「一回本当に死んでるんだから、その冗談はもう勘弁してよ!」
ゆうこのキレのあるツッコミの余韻だけを残し、アルケラのふざけた笑い声は、どこまでも広がる青空の彼方へと溶けるように消えていった。
その頃。
クルスは龍の最も高い首元に仁王立ちし、整った前髪を激しい風に思い切りなびかせながら、不敵に両腕を組んでいた。
「フッ……。南天に眠る魂の蒸留聖域か。長き時を経て、ついに俺の右腕がこの地へ導く刻が来たようだな……世界よ、震えて眠れ」
「……ねぇ、サク」
ゆうこは深く溜息をつきながら、サクの耳元へこっそりと小声で尋ねる。
「あの人、まだ中二病モード続いているの?」
「安心して。龍に乗っている間は、基本的にずっとあんな調子よ」
「長っ! 精神力お化けか何か?」
その瞬間だった。
ゴォォォォォォッ!!
足元を支えるポコちん龍が、まるで主のテンション同調するかのように、気持ちよさそうに野太く一声鳴き声を上げる。
龍はさらにぐっと高度を上げ、進路を完全に真南へと固定した。
太陽は少しずつ天空高くへ昇り、肌を撫でる空気にもわずかな変化が現れ始める。
最初は身震いするほどひんやりとしていた上空の風が、次第に包み込むような柔らかな暖かさを帯びていくのを感じる。
見下ろす海原の色さえも、少しずつ劇的に変わり始めていた。
深い群青色だった海は、南へ進めば進むほどに透き通るような鮮やかなエメラルドブルーへとシフトしていく。
海の所々には真っ白な珊瑚礁の輪郭が浮かび上がり、色鮮やかなトロピカルフィッシュの群れが水面近くを優雅に泳いでいるのが、この異様な高空からでもはっきりと見て取れた。
「うわぁ……ちゃんと南国へ近づいてるって感じがするわね」
ゆうこは肺の奥底まで心地よい潮風を思い切り吸い込み、頬を緩ませる。
まだ地平線の向こう側に目的の蒸留酒大陸の姿は見えない。
それでも、自分たちが確実に前へ進んでいるという確信がある。
三人と一匹は、これまで誰も踏み入れたことのない新たな大陸へ向かって、途方もない大空を飛び続けていた。
どれほどの時間が経ただろうか。
太陽はゆっくりと頭上の真上へと昇り詰め、海から吹き上げる風も完全に穏やかな暖かさを纏い始めている。
眼下には、どこまでも果てしなく続く南の大海原。
白い雲のちぎれた影が輝く海面をゆっくりと滑るように流れ、時折、巨大な魚の群れが銀色の美しい軌跡を描いて水面を飛び跳ねていた。
あまりにものんびりとした、平和すぎる空の旅。
余りの平穏さに、ゆうこは思わず小さく涙ぐむほどの大きなあくびを漏らす。
「ふわぁぁぁ……よく食べよく寝る子は育つって言うけど、これじゃただの寝正月ならぬ寝空の旅ね」
「本当に平和ねぇ。こんなに何も事件が起きないと、逆に緊張の糸が切れて猛烈に眠くなってくるわ」
サクは龍の温かい背中に寝転んだまま、くすくすと楽しそうに笑う。
「空の旅なんて、本来はそういうものよ。たまには命の危険がない、こういう穏やかな時間も悪くないじゃない」
「それもそうね。敵に追われないって、こんなに素晴らしいことだったんだ……」
ゆうこは眩しい青空を仰ぎ見ながら、両手を上に高く伸ばしてゆっくりと大きく背伸びをした。
その、誰もが油断しきっていた刹那だった。
ゴォォォォォォッ!!
足元のポコちん龍が、突如として身震いするような不穏な叫び声を上げる。
それに連動するかのように、これまで一定だった飛ぶ速度が急激に落ち始め、巨大な翼がブレーキを踏むように大きく羽ばたいた。
「んっ……?」
「どうしたの、急に?」
ゆうこは違和感を察知し、前方の雲の切れ目へと慌てて目を凝らす。
クルスも腕を組んだまま、隻眼のような鋭い眼光を細めて前方を睨みつけた。
「……来るぞ」
「来るって、何が!?」
「天空の覇者を統べる者の絶対的な気配だ! 我が右腕に刻まれた封印の聖痕が、今こそ目覚めよと警鐘を鳴らしている……!」
「あぁもう、また始まったわこの人!」
ゆうこが呆れ果てたように深く肩を落とした、その瞬間だった。
ザバァァァァァァァンッ!!
突如として、遥か眼下の静まり返った海面が、まるで大規模な爆弾でも落ちたかのように激しく爆発した。
何百トンもの海水が混ざった巨大な水柱が空高く猛烈に噴き上がり、無数の白い飛沫が燦然と輝く太陽の光を受けて、鮮やかな七色の虹を描き出す。
「な、何っ、爆撃……!?」
ゆうこは腰を浮かせ、身を乗り出して下の様子を探る。
そして、次の瞬間。
ズモォォォォォォォォッ!!
人間の常識を完全に粉砕するような、信じられないほどのスペクタクルが目の前に広がった。
青い海からゆっくりと現れたのは、一頭の想像を絶する巨大なクジラだった。
いや、それは単なるクジラではない。
その巨大な巨体は海面から完全に飛び出したまま、重力など無視したかのように空中で静止している。
まるで海の代わりに大空を悠然と泳ぐことが、この世界においてごく自然の摂理であるかのように、気高く美しい巨体がそのままふわりと雲の中へ身を躍らせた。
「うそぉぉぉぉっ!? クジラが空を飛んでる!?」
ゆうこの目が驚愕で見開かれ、心臓がバクバクと激しく脈打つ。
全長は優に百メートルを軽々と超えているだろうか。
全身を包み込むのは、神秘的なまでに美しい青白い巨体。
酒の樽のように丸々とした愛嬌のある身体つきでありながら、その背中には気が遠くなるような長い年月を物語る深い苔や、硬い貝殻がびっしりと張り付いている。
驚くべきことに、その背中の小さな森からは、青々とした木々までが風に揺られて生い茂っていた。
まるで一つの独立した小さな島が、そのままの生態系を維持して大空を泳いでいるかのような、言葉を失うほどの神秘的な光景。
「すごい……綺麗……」
ゆうこは圧倒的な自然の営みに息を呑み、ぽっかりと口を開けたまま完全に言葉を失っていた。
――『おっ、さっそく見つけおったか! そいつはな、『天空酒鯨』と呼ばれる伝説の魔物じゃよ』
「天空酒鯨……?」
――『うむ。文字通り、大気中に漂う微量の酒気を吸い込んで生きる、極めて温厚で優しい生き物じゃ。この世界中の酒気が濃いスポットを好んで空を旅し、世界中を何年も何十年も優雅に泳ぎ続けておる』
「酒気を栄養にして生きるクジラがいるなんて……」
ゆうこが呆気にとられながら呟いていると、アルケラの解説はさらに調子を上げて続く。
――『見てみい。あの背中に生い茂る苔や木々を』
「うん、すごいよね。本当の島みたい」
――『なにせ長生きしすぎて、甲羅代わりに島を背負ったようになった個体も珍しくないんじゃ。それに、あやつらは基本的に滅多に人間を襲わん。むしろ好奇心旺盛で、旅人の楽しそうな姿を見つけると、挨拶代わりに自分から近寄ってくるんじゃよ』
「へぇ……見た目に反して、かなり人懐っこいんだ」
ゆうこが納得したように深く頷いた、その時だった。
空飛ぶ巨大な天空酒鯨は、その巨体に似合わない機敏かつ優雅な動きで、こちら側の龍へ向かってゆっくりとフワフワと近づいてきた。
圧倒的な巨体とは対照的に、その眼差しはどこまでも深く、温和だった。
透き通るような青い瞳には敵意など欠片の微塵もなく、旅人を見つめるような優しい慈愛さえ感じられた。
「なんだか……すごく可愛い目をしているわね……」
「しゅわっ!」
相棒のしゅわ丸も、恐怖心などどこへやらといった様子で嬉しそうに小さな体をぴょんぴょん跳ねさせながら、短い両手を元気にぶんぶん振ってアピールする。
すると、目の前の天空酒鯨もその挨拶に応えるかのように、ぶわっと巨大な尾びれを優雅に揺らした。
――『ふぉっふぉっ! すっかり気に入られたようじゃのぅ! 実はな、天空酒鯨は酒気だけじゃなく、旅人たちの心からの楽しそうな笑い声も大好物なんじゃよ』
――『だからあやつらは、旅人の笑い声を嗅ぎつけて空を旅しているとも言われておる』
「えっ、それ本当に本当の生態なの?」
――『さぁな! 今の喋りながらテキトーに思いついたわぃ!』
「適当かーーい!!」
ゆうこの全力の鋭いツッコミが、青く澄み切った大空へパーンと響き渡る。
それに呼応するかのように、天空酒鯨はまるで人間のように嬉しそうに微笑んだかのように、「ヴォォォォォン……」と心の底まで響くような、優しくどこか切ない鳴き声を大空へと大きく響かせたのだった。




