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②休憩明け〜作業終了

 管理室で休憩を済ませると、再びモップとバケツを手に取り、エレベーターで7階へと向かった。

 1階と屋上は清掃完了。残るは各階の廊下である。

 

 再び7階でエレベーターを降りる。

 先程と同様に強い風邪が頬を打つ。しかし先程の強風と比べるとやや弱くなっている。これなら掃除もやりやすい。


 私は廊下の清掃を開始した。


 パークサイドカワモトは7階建てのマンションであり、1階は共用部分のみ。これは先程説明したとおりである。

 各住居は3号室まである。7階なら701、702、703号室が並び、下の階は601、602、603と、各フロアが同じように並ぶ(2階だけは202号室が集会室となっており住民は入居していない)。

 各住居前の廊下は10mほど。

 屋外廊下になるため風雨にさらされる。とはいっても、住居と反対側に続く腰壁は120センチほどある。また、上階の廊下部分がそのまま下階の天井部分となっている。そのため、よほどの豪雨でない限り、雨も多くは降りこまない。

 あまり、汚れやすくはない。

 私は毎日モップで床を掃除しているが、これだけ掃除を続けると汚れもたまらない為、少々やり甲斐に欠ける。

 各住居は黒色のドアが玄関となっている。

 ドアは柵などに囲まれておらず、所謂「ポーチ」は存在しない。廊下側から見ると、ただドアと窓、そしてインターホンがついているだけである。

 廊下だけの掃除だとすぐ終わってしまうため、ドアや窓を拭いてもいいのだが、少し気が引ける。

 一応、マンションなのだからドアや窓は個人の所有物といっていいだろう。赤の他人が自宅の窓やドアを雑巾で拭いていたら不快に思っても不思議ではない。

 破損や目立つ汚れがないか、目視するだけで充分だろう。


 …と思ったのだが。


 703号室のインターホンに白い汚れがあった。

 鳥の糞だ。べったりとついている。


 先程の理屈からすると、インターホンは個人の所有物なのだから、触るべきではないだろう。放置して問題ない。住民が気付いたら自分で拭き取ればいい。私の清掃を責められるわけではない。

 一方で…私は管理人と言いながら清掃員でもある。清掃を業務とするものが、明らかに鳥の糞で汚れている物を前に、無視して素通りするというのは、如何なものだろうか。


 文庫本程度のサイズのインターホン。黒色のそれに、白い糞は妙に映える。


 私は尻のポケットからポケットティッシュを取り出した。数枚のティッシュを抜き取り、念入りに重ねる。

 重ねられたティッシュでインターホンについた糞を拭き取ろうと試みる。

 最近付着したらしく、1,2回ほど拭くと大体綺麗になった。

 しかしまだ白い跡が残っている。

 ティッシュに水を浸せばあっさり取れそうだが、インターホンを水拭きするのはあまりよろしくないだろう。

 仕方なく、私は何度もインターホンを拭いた。

 丁寧に、力を入れて、根気よく。

 

 やっと汚れが完全に取れたと思ったところで。

 誤ってインターホンを押してしまった。


 拭くのに夢中になって、手が、呼び出しボタンに触れてしまったらしい。


「はい、どちら様でしょうか」


 すぐに、インターホンから声が聞こえてきた。


「すいません、管理人の片平ですけれども」


 そこまで言って、私は迷った。

 間違って呼び出しボタンを押したことを、どう説明するべきだろうか。

 インターホンに鳥の糞がついていて清掃していたら誤って押してしまいました。

 こう言えば問題なさそうだが、人によってはインターホンを勝手に清掃していたことを不快に思うかもしれない。

 それは穿った見方だろうか?しかし・・・私は思い出す。

 703号室の住人は佐賀崎(さがさき)さんだ。この時間なら旦那や子供は家にいないから、奥さんが出て来るだろう。インターホンから聞こえたのも女性の声だった。

 この人はとてもうるさい。

 うるさいというのは声の大きさではない。細かく、うっとうしいという意味だ。

 休憩時間に管理室で寝ていただけでクレームを入れられたこともあれば、他の住民さんと雑談していただけで私語を咎められ、管理会社に連絡を入れられた経験もある。

 どうする。転んで偶然押したとでも言うべきか。いや、それではかえって不信感を煽る気もする。

 考えている間に、ドアが開いた。


「あれ、管理人さん。どうかしましたか」


 予想通り、佐賀崎さんが顔を出した。

 50代くらいだろうか。小太りで背の低い典型的な中年女性。顔は比較的整っているが、目が大きい上に目つきが鋭く、攻撃的な印象を受ける。

 今も、こちらの出方を探るように大きな瞳をねじ曲げて、じっと私を睨んでいる。

 我ながら情けないが、怖い。怖いが、だからこそ正直に言うしかないと思った。


「申し訳ありません。こちらインターホンが汚れておりましたので清掃をしていて」

「…他人の家のインターホンを、清掃ですか」


 不満気な声音であった。


「い、いえ。ただ汚れていたのではなく、鳥の糞がついておりまして。あの、あまりに汚かったから拭き取ろうと思って」


 言いながら、右手のティッシュの束を見せると、彼女は「きゃあ」と大げさに悲鳴を上げた。

 クレームになるだろうか。


「わたし鳥の糞とか絶対駄目なんです。だってあれ、雑菌ばかりで汚いし、色も気色悪いし、ほんといやらしいっ」

「…すいません。だから拭き取ろうと思って」

「……ああ、鳥の糞を拭いてくれてたのね」


 そこで彼女は、コロッと態度を変えた。


「ありがとう管理人さん。わたし本当に鳥の糞って駄目なの。絶対触りたくないの。だから助かるわ」


 どうやら私も助かったようだ。


「それにしても昼過ぎまで働いているなんて偉いですね。もう13時近いですよ」


 彼女はそう言って自身の腕時計を見せてきた。

 確かに、短針はもうすぐ「1」を指すところである。

 しかし私の勤務時間は16時までだ。まだ折り返し地点を過ぎたところである。

 そう伝えると、彼女は心底意外そうな顔をした。


「あら失礼。私、管理人さんは午前だけ出勤してるものと思い込んでいたの。一日中働いてるなんて、大変ですね」


 確かに、マンションによっては半日勤務の管理業務もあるらしいが…。

 …成る程。

 以前、私が休憩時間中に管理室で寝ていた時、彼女はクレームの電話を管理会社に入れたのだが、あれは「勤務時間中なのに寝ている」クレームではなく「勤務時間が終わったくせに帰らず管理室で遊んでいる」という意図のクレームだったのかもしれない。

 それならがまだ納得がいく。

 

 しかし分からないものだ。細かくクレームを入れてくる佐賀崎さんが、管理人の勤務時間を把握していなかったとは。

 管理人といっても、住民とは通りすがりに挨拶をかわす程度の関係だから、詳細を知らなくても仕方ないのかもしれない。

 私としても、佐賀崎さんが鳥の糞をこんなに嫌っていることは知らなかった。彼女がこれだけ鳥の糞を嫌っているのなら、もし私がインターホンの鳥の糞を無視して業務を終えていたら、却ってクレームになってしまったかもしれない。

 九死に一生を得た…とは言い過ぎだろうか。


 それにしても。何が、どういう因果で結果を生むのか。60年以上生きても、分からないことばかりである。


 佐賀崎さんと別れ、清掃へ戻る。

 まだ7階も終わっていないから、早く進めなければ。と思ったが、佐賀崎さんは先ほど「13時」と言っていたな。ということは16時まで3時間ある。清掃道具の片付けや業務日誌を書くのに30分かけたとしても、残り2時間30分。

 私の清掃スピードは1フロア20分程度だから、残り2から7階の6フロアで120分。むしろ丁度いい塩梅かもしれない。




 7階から2階までの清掃を終えて管理室に戻る。モップとバケツを床に置いてパイプ椅子に座り一息ついた。

 管理室の壁掛け時計を見ると、時刻は15時を少し過ぎたくらいだった。

 余った時間をどうするか。

 業務時間は16時までだが、それほど厳密に決まっているわけではないから、早く帰っても責められはしないだろう。

 しかしそれでは何となく気分が悪い。

 管理室の片付けを進めるか、あるいは裏口倉庫の在庫を細かくチェックするか。駐車場のゴミ拾いや草刈りを念入りにやるなんて手もあるが。

 考えながら、モップの水気を絞り、バケツの水を外の排水溝に捨て、着々と後片付けを進める。


 …よし、今日は管理室の片付けをするとしよう。


 住民からしたら目立つ場所ではない為、綺麗にする必要もないのだが。しかしエントランスから窓越しに覗き込めば管理室の中が見えるから、あまり汚いとみっともない。また、時折やってくる工事や点検会社の作業員が管理室に入室する時、整理整頓できていないと嫌な顔をする。

 管理室の整理をするなら、もう鍵は必要あるまい。

 私はポケットから鍵のついたカラビナを取り出し、B5サイズのキーボックスへ返却していく。

 管理室の扉の鍵以外は、全て返してしまおう。倉庫1、倉庫2、屋上扉、2階集会室。


 そこで気付いた。


 ポンプ室の鍵がない。

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