①出勤〜昼休憩
マンションの管理人と一口に行っても業務内容は千差万別である。
高級マンションの管理人ならば、マンションに常駐し住民や工事業者、郵便配達人とやりとりしたり、マンション内を巡回して各設備の点検、照明の点灯確認をする必要があるのだろう。
一方で、安上がりのマンションの管理人といえば、「管理」といいつつマンション内の清掃業務以外やることがない場合もある。
私の場合は後者である。私―片平勝彦は7階建てマンション「パークサイドカワモト」の管理人だ。
パークサイドカワモトは都心から離れた郊外に建っている。「パークサイド」という名の通り、公園が隣にあり休日は子供たちの声がよく聞こえてくる。
私は自転車を講演の駐輪場に停め、マンションのエントランスまで歩いた。本来はマンションの駐輪場を使用すべきだが、以前、私が停めた自転車のせいで住民とトラブルが起きた経験があるため、公園の駐輪場に停めることにしたのだ。
エントランスからマンション内に入ると、すぐ左手に管理室がある。そのドアノブにかかっているダイヤル式のキーボックスの中に管理室に入る鍵がある。
ダイヤルを回し、管理会社から教えてもらっている4桁の暗証番号を揃えるとキーボックスが開き、中から銀色の鍵が出てきた。私はその鍵をキーチェーンのカラビナ(金属製のリング)に引っ掛け、落とさないようにする。
キーチェーンは私のズボンのベルトループ(ベルト通し。ベルトを通す輪っか)と繋がれている。キーチェーンのカラビナに鍵を付ける。これで、もし鍵をポケットから落としたとしても失うことはない。
管理室を開け、電気をつける。
四畳半程度の雑多とした部屋。入って左手の窓からはエントランスが見える。管理室から住人の出入りが見えるようにしているのだ。
反対側は分電盤や各種機械類が並ぶ。その周辺には建築関係の図書や過去の工事で使用したらしい書類が山積みとなっている。
奥にはトイレ。それ以外にはパイプ椅子と壁掛け時計がある程度で、雑多としている割には実用的なものが少ない。
マンション1階の隅に位置するせいか湿気が篭りやすく、むっとした臭いがする。
換気扇を付けると、部屋内のしけった空気が多少は改善された気がした。
奥のトイレの扉を開ける。
トイレ内に置いてある緑色のバケツを取り、便器の反対側にある蛇口で、バケツに水を汲む。続いてトイレ内の壁に立てかけられたモップを複数手に取る。
これが掃除道具だ。
モップとバケツを両手に持って、一旦管理室を出て、扉のすぐ脇にそれらを置いておく。
すぐに管理室へ戻る。
分電盤の横に置いてあるB5程度の金属製ボックスを開ける。これが「パークサイドカワモト」の各扉を開けるメインのキーボックスだ。
ボックスの中はフックがずらりと並んでおり、そこに数々の鍵が引っ掛けられている。全部で15個程度あるだろうか。
マスターキーなるものがあれば便利だが、ここにはない。私の前任者がマスターキーを紛失したため、以降、マスターキーは管理会社保管となり、マンション内には存在しないのである。
私の主な業務はマンション内の清掃だが、それ以外に、巡回業務もある。そのために入らなければならない箇所が多々あり、複数の鍵が必要だ。
ポンプ室キー、屋上扉キー、倉庫キー1、倉庫キー2、2階集会室キー。全部で5つ。
キーにはそれぞれ輪っか状のキーリングが付けられている。それらを一つずつキーチェーンのカラビナに通す。これで落とすことはない。
ふと、ポンプ室キーに付けられたキーリングが緩んでいることに気付いた。危ないだろうか。
キーチェーンのカラビナに掛けていたとしても、肝心のキーについているキーリングそのものが破損すれば鍵を落としてしまう。
新しいキーリングに変えるべきだろうか。
私は雑多とした管理室を見る。探せば新しいキーリングがあるかもしれない。
しかし面倒だ。
では他の使用しない鍵のキーリングと交換するか?
それも面倒だ。
キーリングを外したり付けたりするには指先で細かい作業をする必要がある。出来ないこともないだろうが、面倒くさい。
私はもう一度ポンプ室のキーリングを確認する。確かに錆びて緩んでいるため、キーから外れてしまいそうな気もする。
しかし…私はキーリングを軽く摘んでみる。少々力を入れても壊れなさそうだ。
大丈夫だろう。
私はそう判断して管理室を出た。
管理人といっても就業形態は所謂パートである。8時30分から16時00分まで「パークサイドカワモト」で管理業務を行う。
管理業務。大層な言い方だが、実際にやることはマンション内の清掃と巡回であり、所謂軽作業の範囲内である。
しかし、この年になるとただ歩き回るだけで疲れるものだ。
数年前に、ある会社を退職した後、暇をもてあましてパート求人を漁り、この職に巡り合った。
管理人となって二年ほどだが、年齢は68歳だ。何をするにも疲れる年である。ただし、年を言い訳にするのもよくないだろう。私を雇用している管理会社、ABCサポートの社員によると「片平さんはまだまだ若い方」「70過ぎて働いている人もいますから」とのことだ。
70を越えて労働するとは世も末という気もする。
しかし当の私も、退職して暇になったからこの仕事に就いたのだ。案外、そういう人も多いのではないだろうか。
特に私のような独身の男性には。
どうせ家にいても、やることなどないのだから。
「管理人さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」
エントランスの床を清掃していると、住民と度々すれ違う。
大半の住民が声をかけてくれる。
挨拶だけで雑談もあまりしないのだが、挨拶をしてくれるだけで少し嬉しい気持ちになる。もっとも、住民によってはこちらが挨拶をしても返さない人もいる。
それは人それぞれだ。忙しい人もいるだろう。
エントランス周りの清掃を続ける。バケツの水に浸したモップで、床を磨く。
続いて乾いたモップで空拭きをする。
週5回も清掃していれば汚れなど貯まりようがない。だからこれ以上綺麗になりようがなく、清掃の成果はあまり感じられない。
一方、清掃業務は場所と時間を管理日誌に書き込まなければならない為、怠るわけにはいかない。日誌に嘘を書いてもいいのだが、それではクレームになった時、言い訳し辛い。
何より、清掃をサボタージュしたところで他にやることもない。
管理室で延々と休憩してもいいが、エントランスの窓から管理室の中が見えてしまうため、住民に見咎められる可能性がある。
もっとも、誰かが見回りに来ることなどほとんどない。だからサボろうと思えばいくらでも工夫はできる。
例えば、汚れやゴミの目立つところのみ清掃して、裏の駐車場の木陰でのんびりするとか、2階の集会室に閉じこもってスマホでもいじっているとか。
しかし、私はそれを良しとしない。
サボって遊んでも、罪悪感が芽生えて、素直に楽しめない。
人間は罪悪感に弱いものだ。
誰でも一度くらい仮病で学校を休んだ経験はあるだろうが、休んだ分思い切り楽しく遊べたという人はむしろ少ないのではないか。
課せられた仕事をこなした後だから、休みが光り輝くのである。
エントランス周りのモップがけが終わると、次に外回りの巡回、清掃を行う。
ここで鍵が役に立つ。
エントランスから外に出る。春の日差しが眩しい。
マンションのエントランス側から建物裏側へ歩いていくと、駐車場が広がっている。駐車場を歩き不審なものやゴミ等が落ちていないことを確認しつつ巡回し、マンションの真裏へ向かう。
マンション正面には出入り口しかないが、裏側には扉がいくつかある。
一つはエントランスの裏側へ繋がる裏口。他は二つの倉庫とポンプ室。
まずポンプ室の扉を開ける。もう古いからか、鍵が固く開けにくい。
中には各部屋へ水を送るポンプが置いてある。それ以外は何もなく、また何か置けるだけのスペースもない。本当に小さい部屋だ。
ポンプを見て水漏れが無いか、異音がないかを確認する。といっても、私は点検業者ではないから、本当に軽く外形を見るだけだ。
実を言うと、管理人の仕事にポンプの確認なんて業務はない。元々、私の前任者はポンプ室に出入りなどしていなかったはずだ。
だからこれは私が自主的に行っていることである。
なぜこんなことをするのかというと、半年ほど前にポンプの故障があったからだ。
ポンプからの水漏れ。それだけならよかったのだが、水漏れが酷くなってしまい、ポンプの制御版を濡らし、制御盤ごと壊れてしまったらしい。制御盤が壊れると、当然ポンプ自体が使えない。メーカーが素早く対処してくれたものの、数日間はマンション全体で水が使えず、住民はとても困ったという。
責められたのはポンプ点検の業者である。ここまで大事になる前に気付かなかったのか。水漏れの初期段階なら制御盤ごと壊れることはなかったはずだ、という理屈である。
点検業者にも反論はあったようで、少々もめたらしいが、それはそれとして。
私は責められなかった。ポンプ点検など業務にないのだから当然だ。
しかし、多少の嫌味はいわれた。
「あなた管理人なんでしょう。毎日そこら中、清掃しているんでしょう。そんなにひどい水漏れだったなら気付きませんか?」
私を雇っている管理会社、ABCサポートの守柳さんの言葉だ。
私は説明した。私は清掃はするがポンプの点検はしないし、だからポンプ室も開けません。扉の外側からじゃそんなこと分からないですよ。
その説明に、守柳さんは納得した。納得したが少し本音を漏らした。
「まあ片平さんは清掃員ですからね」
私はちょっと頭にきた。
私は管理人といいながら清掃員の仕事をしているし、それを決していやしいとは思っていない。
だから別に「片平さんは清掃員」で構わない。しかし守柳さんの言葉は言外に
「所詮清掃員ですからね」
と言っているように聞こえた。
だからポンプ室の見回りをするようになった。制御盤やポンプの操作方法は、私には全く分からないが、異音が無いか、水が漏れていないかくらいは、私でも確かめられる。
それで問題がありそうだったら守柳さんに電話で報告すればいい。そこから先はあちらで判断するだろう。
私は、ポンプに外形的な異常がないことだけ確かめて、ポンプ室を出て鍵を閉めた。やはり古くなっており、鍵が中々まわらず、一苦労した。
続いて、隣の倉庫の扉を開ける。このマンションには倉庫が2つある。
一つは替えの電球や洗剤、新品のバケツにモップ、雑巾など、所謂予備品と呼ばれるものが入っている。
一応、この中のチェックもするようにしている。鍵をかけているから盗まれることはないだろうが、念のためである。
もう一つの倉庫は脚立やドライバー、各種工具類などが置かれている。こちらは私が使うことはほとんどないのだが、たまに工事や点検業者に貸すと喜ばれる。
念のため脚立や工具類が壊れていないかを確認する。
もし業者に貸した脚立が壊れて怪我でもされたら、あまりにも寝覚めが悪いからだ。
二つの倉庫の鍵をしめる。これで1階と外回りは終わりだ。マンションをぐるりと回り、再びエントランスへ戻ってくる。
腕時計を確認すると時刻は10時。昼の休憩には少し早い。かといって、各階廊下の清掃を始めてしまうと、中途半端な時間に休憩となるだろう。
とりあえず屋上まで終わらせておこう。そう思い、私はエレベーターで7階まで昇った。
エレベーターを降りると、突風に襲われた。
7階だから大した高さではないのだが、この辺りは高い建築物が少ないためか、風に勢いがある。
10m弱の吹きさらしの廊下が左右に伸びる。エレベーターから降りて右手から701、702、703号室の扉が並ぶ。
エレベーターの横には階段がある。6階へと降りる階段と、屋上へと上る階段。上る階段には鍵がかけられている。鍵がないとは入れないため、住民や外からの侵入者は屋上へ登ることが出来ない。
もし子供達が興味本位で屋上に登って怪我でもしたら大変である。その為の施錠だ。
右ポケットから鍵を出し、屋上へと続く格子戸を開ける。
階段を上っていくと、ますます風が強くなる。春になって、随分風の強さが増したらしい。
ふと、ズボンの左ポケットに入れたスマートフォンが気になった。強風に煽られてスマートフォンを落としたら一大事である。
もっとも、強風といっても軽く体が煽られるほどで、まさかスマートフォンを吹き飛ばすような風速ではないが。しかし、用心するにこしたことはないだろう。
私はスマートフォンを左ポケットから取り出して胸の内ポケットに入れようとするが…残念ながら大きくて入らない。
仕方ない。スマートフォンは左ポケットのままにして、腕時計や他の落としそうなものを胸の内ポケットにしまう。普段は使わないポケットだが、これなら落とす心配はない。
スマートフォンはズボンの左ポケット奥へ押し込むことにした。屋上にいる間は、電話がかかってきても、無視することにしよう。
屋上にでると視界が広がり、同時に強風が襲ってきた。目に染みる風を右手で防ぎつつ、辺りを見回す。
風が強い代わりに、景色はよかった。屋上は一面に灰色の防水シートがしかれ、それ以外は何もない。転落防止用の柵もないため縁まで行くと危険だが、多少歩く程度なら危険はない。
防水シートに破れが無いか、鳥の糞や思わぬ落し物などないかを確認しつつ、軽く屋上を歩く。
実は屋上の点検も管理人の業務には含まれていないが、これはグレーゾーンに当たる。管理会社としてはやらないよりやってくれた方がいい、というスタンスなのだが、いざ事故がおきると責任問題になるからか、推奨はしていない。
一方で、前任者から仕事を引き継ぐ時、彼から、屋上の軽い清掃もやっておくよう教えられた。
私としてはどちらでもいいのだが、正直、屋上に出るのは気分がよかった。毎日同じところを清掃していると、少々気がめいるのだが、駐車場の草花を観察したり、屋上へ出て景色を見たりするといい気分転換になる。
ただの気分転換だけではさすがに申し訳ないので、軽く清掃をする。モップで擦りすぎると防水シートの劣化を招く為、本当に軽くである。
階段を下り、屋上から7階へ戻ると屋上への格子戸に鍵をかけた。鍵をかけた後、しっかりノブを握って、本当に鍵がかかったかを確認する。繰り返すが、子供が興味本位で屋上に登る可能性もある。だから、ここの施錠だけは忘れてはならないのだ。
施錠の確認と同時に、電話が鳴った。
「お疲れ様です。片平です」
「お疲れ様です。ABCサポートの守柳です」
守柳さんはこのマンション「パークサイドカワモト」の担当者である。
管理業務で困ったことがあれば彼が窓口になってくれる。
例えばモップがそろそろ悪くなったから変えて欲しいとか、電球が切れているから業者を呼んで欲しいとか。住民からの要望やクレームも、住民から直接伝えられるより、守柳さんを通して連絡が来る場合の方が多い。
今日も何か連絡事項があるのだろうか。
私は警戒しつつ話したが、特に用はないようである。困ったことが無いか、腕章をつけて作業をしているか、など雑談が続く。
私はそれらの話題に、適当に答えていく。
守柳さんという人はよく分からない。
そもそも、私は彼に一、二回しか会ったことがない。私がこの職に就くに当たり、直接会ったABCサポートの人物は、守柳さんと、私の前任者と、面接時の人事部の人しかいない。後者二人は、どちらも数年前に会ったきりだから名前も忘れてしまった。
守柳さんはこの物件の担当者なのだが、管理会社の担当者というのは、一つではなく数十件の物件を抱え込むものらしい。彼は他の物件で忙しいからか、ほとんどマンションに顔を出すことはないのだ。
電話での連絡は頻繁にするのだが、直接会わないものだから容姿や顔の記憶もおぼろげである。
おそらく街で会っても、お互い気付かないだろう。
「ところで片平さん、休憩は取れていますか」
「はあ、少ない時でも1時間弱はとれてますよ」
「お昼ご飯とか、ちゃんと食べてますか?マンション周りにはコンビニもないでしょう」
「郊外だから仕方ないですね。一応、弁当があるので」
「ああ、いいですねえ、奥さんに作ってもらうんですか?羨ましいなあ」
私は独身であるから、弁当は当然ながら自分で作る。ただ、訂正するのも煩わしかった。
「守柳さんこそ、いそがしいんじゃないですか」
「いえいえ。僕は全然。それより、最近体調不良の管理人さんが多くて、大変なんですよ。片平さんも、気をつけてくださいね」
なるほど、本当に言いたいことはこれだったか。
ABCサポートは百ではきかないほどの管理物件を抱えているが、その管理人はほとんどが高齢者と聞く。60代が普通で、70代も多いらしい。こうして声かけしておかないと、心配なのだろう。
余計なお世話だと思いつつも、彼も気を遣って大変だなという同情が先にきた。
「じゃあそろそろお昼ですから。ちゃんと休憩してくださいね。多少休憩が長くても、誰も文句は言いませんから」
守柳さんが電話を切った。スマートフォンの表示を見ると、11時を回っていた。少々早いが、休憩に入ろう。




