③ロスタイム
―ポンプ室の鍵がない。
キーチェーンのついたカラビナに残っているのは、管理室の鍵だけだ。そしてキーボックスにポンプ室の鍵はかけられていない。
…そういえば、ポンプ室の鍵についていたキーリングは、少々緩んでいた。
もしかして、落としたのだろうか。
私は、キーチェーンを入れていたズボンの右ポケットを探った。
ない。
続いて左ポケットを探った。
これも、ない。
段々血の気が引いていった。もう一度カラビナを確かめ、キーボックスを確かめ、そこにポンプ室の鍵がかかっていないことを確かめると、またズボンの両ポケットに手を突っ込み探す。
特に右ポケットが怪しい。
キーリングが緩んでいたということはカラビナから抜けてしまったのだろうが、それでもカラビナを取り出す機会は限られていた。ほんんどの時間、カラビナは右ポケットに入れていたのだ。
ならばポケット内に落ちている可能性が一番高いはずである。
しかし、どれだけ右ポケットを探っても、何も見つからない。ポケットを強引に裏返し、引っ繰り返してみてもそこにはなにもなかった。
ポンプ室の鍵を落としてしまった。
そんなことが有りえるのか。
私は記憶を必死に探る。
もしやそもそもポンプ室の鍵を借りていなかったのではないか。
いやいや、それは有りえない。
私は確かにポンプ室を開けてポンプの正常を確かめた。それに、たった今キーボックスを確認してポンプ室の鍵がそこにかかっていない事実を確認したばかりではないか。
どこかに落としたに違いない。どこに落としたのだろうか。
こういう時は、確実に存在した場面を思い出す必要がある。
絶対に有ったと断言できるのは、ポンプ室の施錠をしたところまでだ。
ポンプ室の鍵を使って扉を開け、また閉めたのだから当たり前である。
ではその後はどうか?ポンプ室の鍵を閉めた後、私は倉庫1、倉庫2の中を確認し、エントランスに戻ってエレベーターで屋上に上がり、屋上の巡回をした後は各フロアの清掃を実施した。
どこでなくしたか。
私は、倉庫や屋上扉、集会室の扉を開けたときのカラビナの様子を思い出そうとした。カラビナにかかった各種鍵を使用したとき、そこにポンプ室の鍵が存在していたか?
これは分からなかった。
カラビナには計6本の鍵がかけられていたのである。それがいつのまにか5本に減っていたとしても、意識していなければ気付かないし、また思い出そうとしても困難である。
一方、カラビナから鍵が抜け、それが右ポケット以外に落ちるというケースは、「鍵を使用したときに落ちた」場合以外には考えられない。
もし鍵を使用していない時にカラビナから鍵が抜けたら、右ポケットにその鍵が残っているはずだからだ。
つまり怪しいのは、鍵を使用した時。倉庫1、倉庫2、屋上扉、集会室、そして最後に戻ってきた管理室。このいずれかの鍵を使用した時に、落としたと考えられる。
ならば、これらの場所を探せばいいはずだ。
私は管理室の壁掛け時計を再び見た。時刻は15時15分といったところか。
主要場所を探し、16時までに戻ってくるには充分な時間に思えた。
ない。見つからない。
全ての場所を探した。鍵を使用した場所以外も、屋上は勿論、各階の廊下も念入りに探した。
しかしどこにもなかった。
このマンションは各階の廊下に特別な装飾やポーチ等もないから、探しやすいはずだ。例えば玄関先に植木鉢が置いてあったりしたら、その中身まで見なければならないが、幸いそういった鍵の入りそうな物は廊下に置かれていなかった。
私は管理室のパイプ椅子にもたれてしばし途方に暮れた。
ない、どこにもない。それに他に探すところなんて。
そこで思い付いた。エレベーターの中は探していない。
私は管理室を出て、エレベーターを呼んだ。扉が開き、中へ入る。
エレベーターの中には何もなかった。それもそうだ。6人乗りのエレベーターに探す場所などあるはずもない。
どうしよう、他に探すところはあるか?
もしやエレベーターの扉の隙間から下に落ちたとか。確かにそういった経験はたまに聞くが、しかしエレベーター内で鍵束を出した場面などないのに。
エレベーター内で考えていると、突然、エレベーターが上昇していき驚いた。
いや、驚く必要はない。誰かが他の階からエレベーターを呼んだだけだろう。
気が動転していると、少しのことでも驚いてしまう。
エレベーターは上昇を続け、7階に着いた。扉が開き、入ってきたのは、703号室の住人、佐賀崎さんであった。
こちらに気付いた彼女は、「あ」と少し声に出して頭を下げた。私も咄嗟に「どうも」と返す。
その瞬間、思い付いた。彼女が拾っているという可能性はないか。
今日起きたイベントといえば彼女と話をしたことくらいだ。なら、そのとき雑談に夢中で無意識の内に落としたとか有りえないだろうか。
クレームになるかもしれないと思い、焦って、なぜか右手のポケットに手を入れて鍵を弄んでいたらキーリングが外れてさらにポケットから鍵が飛び出して行った、なんてことはないか。およそ有りえなさそうな仮説だが、もし実際起こったとしたら、703号室付近に鍵は落ちたはずであり、それを彼女は拾った…なんてことはないだろうか。だからこそ、先ほどマンション内を探し周った時は見つからなかったとすれば。これで辻褄が合うではないか。
そんな淡い期待を抱きつつ彼女の顔を覗き込む。しかし彼女はそんな私の様子に気付きもせず、エレベーターに入ると手早く1階のボタンを押した。
…どうやら彼女は鍵を拾っていないらしい。もし鍵を拾っていたとしたら、私の顔を見るなり「落ちてましたよ」とか「ちゃんとしてください」とか言って、鍵を拾った旨、伝えてくるだろう。
しかし彼女は黙っている。つまり、そんなことはなかったのだ。
…本当にそうか?鍵を落とした私を非難するために鍵を取っておいて、あとから管理会社に送りつけようと思っているとか。あるいは、インターホンを勝手に掃除したのが本当は気に食わなくて、天才的なスリの技術でいつのまにか私のポケットからポンプ室の鍵を抜き取ったとか。
およそ有りえなさそうな可能性を必死に考えながら、エレベーターは6階、5階と緩やかに下降していく。古いマンションでエレベーターの更新も行っていないから、1階に降りるまで酷く時間がかかるのだ。
彼女の背中を睨んでいると、ふいに彼女がこちらを振り向いた。
「いつもご苦労様です」
言いながら、彼女は軽く頭を下げた。彼女からいきなり感謝されて、私は固まってしまう。
「管理人さんも大変ですよね。いつも働いていて」
「いえ、そんなことは」
「それで、言いにくいんですけど。私、結構かっとなりやすい性質で、よく管理会社にクレームを入れてしまうんです。ちょっと廊下の床が濡れてるとか、ゴミが落ちてるとか、つまらないことで」
彼女がクレーマー気質だということは知っている。
「だから、こんな機会もあまりないので、謝っておきます。ごめんなさい」
私はぽかんと口を開けたまま、動けなかった。突然謝られて、呆然としてしまう。
彼女は照れくさかったのか、1階に着くとすぐに駆け足でエレベーターから下り、エントランスを出て行った。
どうやら彼女も、しようのないことでクレームを入れたことに負い目を感じていたらしい。負い目を感じるくらいなら、最初からクレームなど入れなければ助かるのだが。
それは、人間の不思議という奴なのだろう。
当惑しながらも、時間が気になって、駆けていく彼女の腕時計を盗み見た。
時刻は16時を過ぎていた。
再び管理室に戻り、パイプ椅子に腰を下ろす。
鍵はない。もうどこにもない。ならばどうするべきか。このまま夜まで必死になって探すか。もしそれで見つかるのなら、徹夜でもしたいところだ…これだけ探して無いのに、見つかるとも思えない。
ならばやることは一つだけだ。
守柳さんに連絡する。ポンプ室の鍵を失くしましたと告げる。
するとどうなるのだろう。ポンプ室の鍵は施錠してしまっているから、業者に頼んでノブごと新しく代えてもらうのか。あるいは予備のキーからコピーして新しくキーを作るのか。予備のキーなどというものが存在するのかは知らないが。
いずれにしても、非難は免れないだろう。そう思うと、連絡するのは躊躇われた。
責任を取る為に、もしかしたら辞めさせられるかもしれないが、そこに未練はない。もう私も定年を超えているから、パートを辞めたところでお金に困らない算段は出来ている。
弁償も考えられるが、どれだけ高くても10万円は超えないだろう。それ以上パートに請求できるとも思えない。
だから、金銭的な意味で連絡をためらっているのではない。
もっと子供っぽい理由だ。
私は、自分の犯した過ちを認めたくないのだ。
鍵を落としました、申し訳ありません。その一言が、どうしても言いたくなかった。その結果辞めさせられるとか、お金を払うとか、怒られるとか、それらは恐れていない。
私が恐れるのはもっと単純に、自らの非を認めて謝ることなのだ。
例えばまったく私に落ち度がないことだったら、簡単に謝ることは出来る。
例えば誰かに盗まれたとか、鍵がさびていて折れてしまったとか。運悪く滑って転んで無くしてしまった場合でも、私は簡単に謝ることが出来る。
しかし今回の場合は違う。
私はポンプ室の鍵を取り出すとき、そのキーリングが緩んでいることに気付いた。
その時点で新しいキーリングに代えれば今回の事故は起こらなかったかもしれないのだ。新しいキーリングを見つけるために、雑多とした管理室を探すべきだったし、この管理室にないのなら、少々時間はかかるが、ホームセンターや100円ショップへ買いに行くべきだった。
しかし私はそれらをしなかった。
面倒くさかったから。そこまでする必要はないと考えたから。
理由はあるが、結果として、鍵を失くしてしまったのだ。つまるところ、私の判断が間違っていたということになる。
それを認めるのが、たまらなく嫌だった。
自分の非を認めることに、言いようのない嫌悪感と、恐怖を抱いた。
スマートフォンを握りながら連絡をためらっていると、新しい考えが湧き出てきた。
黙っていても構わないのではないか。
私がポンプの外形点検をするためにポンプ室の鍵を使用していることは、誰も知らない。私が自主的に行っているに過ぎないからだ。
ならばこのまま黙って放置していれば、いつか見つかるかもしれないではないか。住民が見つけて、持ってきてくれるかもしれない。もし見つかる前に、ポンプ室の鍵が紛失していることに気付いたらどうする?
これも対処できる。ポンプ点検の業者が失くしたことにすればいいのである。
彼らは過去に「ポンプの故障に気付くのが遅れた」落ち度がある。だから彼らが鍵を失くしたと嘘をついても、真実味が出るはずだ。
「なるほど、あの適当な業者ならやりかねない」と守柳さんは思ってくれるだろう。
もし「鍵がなくなっていたことに気付かなかったんですか?」と訊かれたら、こう答えればいい。「普段使わない鍵なので気付きませんでした」。
これは上手いのではないか。言い逃れで来そうだ。
一方でポンプ点検の業者は可哀想ではある。しかし、そもそも私が自主的にポンプ点検を実施しているのは、ポンプが壊れたのに長い間気付かなかった過去があるからで、それは元を辿れば業者の点検が不十分だったからに違いないのだ。そう、これは彼らにとって因果応報に過ぎない。
これで丸く収まる。そもそも後日見つかる可能性だってあるのだから、黙っていて問題ない…そのはずだ…
「だから、こんな機会もあまりないので、謝っておきます。ごめんなさい」
脳内に、先ほどの佐賀崎さんの声がよぎった。
彼女は謝った。素直に謝った。自分に非があるとは限らないのに、悪いと思って私に謝ったのだ。
彼女は謝ったのに、私は謝らないのか。
私は仕事にある程度のプライドを持っている。だから過去、守柳さんに「所詮清掃員だから」というようなことを言われ、私は苛立ったのだ。
私のささやかなプライドが傷つけられたと感じたからだ。
仕事とはプライドを持って行うべきである。その考え方に私は同意する。
一方で。
自らに非があった時は素直に謝る。これも、仕事をする上で重要ではないだろうか。
いやむしろ、プライドを持って仕事をしているからこそ、その仕事に不備があったときは、素直に謝らなければならないのではないか。
不備を誤魔化すことこそ、プライドを傷つける行為に他ならないのではないか。
私はスマートフォンで電話をかけた。守柳さんはワンコールで素早く出た。
「お疲れ様です守柳です。どうしたんですか片平さん。もう業務時間は過ぎてますけど」
守柳さんの言葉に、私は咄嗟に腕時計を確かめようと左腕を見たが、そこに何もなかった為、管理室の壁掛け時計を見上げた。
時刻は17時。いつのまにか16時を過ぎてしまっていたらしい。
「守柳さんに伝えたいことがあって」
言いながら、私は瞬時に思考を走らせた。
腕時計がない?なぜ私は腕時計をしていないのだ。
思えば今日一日、ほとんど腕時計を見ていなかった。
管理室にいるときは壁掛け時計を見ていた。
休憩に入ろうとしたときは…スマートフォンの表示を見て時刻を確認したのだ。守柳さんからの電話に出た直後だったから。
703号室のインターフォンを掃除していて呼び出しボタンを押してしまったとき、佐賀崎さんが出てきた。彼女は腕時計をしていて、時刻を教えてくれた。その時刻から、清掃を終了するまでの時刻を頭の中で目算した。
その時に、彼女が腕時計をしていることを知った。
だから先ほどエレベーターで別れたとき、私は彼女の腕時計を盗み見て現在時刻を知った。
なぜ時刻を知る為に、彼女の腕時計を盗み見る必要があったのか。それは、自分が腕時計をしていないことを、無意識に自覚していたからに他ならない。
なぜ腕時計をしていないのだろう。自宅に置き忘れたのか?
いや、そんなはずはない。ポンプ室と倉庫の見回りをした後、私はエントランスに戻ってから自分の腕時計で時刻を確認している。その時、時刻は10時だった。10時だからまだ昼休憩には時間がある。だから屋上に行こうとして。
屋上に行って、私はどうしたのか。風が強くて危ないと思った。強風に煽られて何か飛ばされると危ないと思った。だから私は…腕時計を胸の内ポケットに入れた。万が一、強風で腕時計が飛ばされないようにと思ったのだ。
私の腕時計は胸の内ポケットに入っている。
―そして私は、腕時計と共に、ある物を入れた。そう、風に飛ばされないように、腕時計や他に落としそうなものを入れたのだ。私が、落としそうなものと認識していたある物を。
「片平さん。黙っちゃってどうしました?」
守柳さんの言葉を無視して、私はスマートフォンを持っていない方の手で胸の内ポケットを探る。
普段は使わないポケットだから勝手が分からない。
ポケットを探る指に、腕時計の感触。そしてその奥には固い、金属製の…
「片平さん、どうかしました?何も聞こえませんよ」
私はそれをポケットから救い出し、握り締めた。
「すいません。ちょっと電波が悪かったみたいで」
「今時珍しいですね。それで、用件はなんでしたか」
私は唾をごくりと飲んで、渇いた喉を潤した。
「実は守柳さんに謝らなきゃいけないと思ったんです。
申し訳ありません。キーリングが緩んでいて、ポンプ室の鍵を失くしてしまいました」
「…ええっ。大丈夫ですか。見つからないんですか」
「大丈夫です」
私は手の中のポンプ室の鍵を握り締めながら言った。
「失くしたモノは見つかりました」




