29話 四つ目
「それが始まりの儀式だったの」
彼女は静かに、けれど心の奥底に溜まった熱を吐き出すように告げた。
僕はその熱に当てられるように思い出した。
『当たり前になってしまったものは、途中でやめるのは不可能に近い』
朽木先輩がくれた紙の隅に書かれていた言葉だった。
「だから始めてしまったのよ。爪の絵を」
「まさか……」
僕は思わず口を押さえた。知らず声に出していたらしい。
「それから侵食が始まったの。毎年、繰り返さずにはいられない。それが今に繋がっている」
彼女は、手を広げて見回した。
「それでも、気づいた人はいたのよ。こんなのおかしいって、ってね」
「それが朽木姉妹だった?」
「正解。君、すごいよ」
正解と言われても、嬉しくなかった。
「でも、本当はちょっとだけ違う。見てる場所は良かったんだけど、逆なのよ」
「逆? 逆って」
僕の推理が根底から崩れた。
一体どこからが逆なのか?
「そんな言い方したら。ほら、太郎ちゃん悩んでるでしょ?」
「ごめん。ちょっとからかいたくなって。だって、おばあちゃん、私たちが時間をかけて見つけたものを、すぐにわかっちゃうんだもん。なんか悔しくて」
「ほら、言って上げなさい」
「はーい」
二人の会話が耳の片隅に聞こえる。
間違ってないはずだ。
嘘をついている。
僕は、ノートに書いた数字を思い浮かべる。
これのどこが逆だというんだ。
「君の性格だったら、偶数じゃなくて、奇数を見つけると思ったんだけど、本当に不規則が嫌いなんだね」
言葉が出なかった。
気づいたのは偶数の名前の人で、奇数の人は最初から排除した。
図書室の絵が空白になっていた場所は五箇所あった。
僕は、その五人を選び出した。
それが1989年から続いて、最初の年の人の名前は奇数だったはず。
一体誰なんだ。
「始まりは五十嵐淳子、七文字よ。次の年も奇数が続くの。そして、偶数の名前の人が気づきはじめた。ここまでは推理通り。じゃあなぜ絵がないのか?」
「四周期ごとに偶数の名前。その人が気づくものは……」
僕は考えた。
これがきっと足りないピースだ。
なにが足りない。
どんなピースだ。
「ヒント。最初に戻ってみて」
「最初に戻る? 最初、最初……」
言葉を繰り返す。
僕は、あっと大声を出した。
それは初心に帰ること。
僕が最初に見たものは、
「暖簾! 爪切りの暖簾だ!」
彼女は、パチパチと手を叩く。
「ご名答。彼女、彼たちは、絵そのものを考えたんじゃなく、使われた爪、そしてそれを切る道具の爪きりに着目したの」
「そっか。それでか」
合点がいった僕は、朽木先輩に言われた言葉を思い出した。
赤い爪切りを使いなさい。
白は使ってはだめだと。
だが、それが意味するところがまだピンとこない。
まだ謎は解けていない。
「あの家にあった、廊下の暖簾。爪切りの暖簾は、毎年増えていく。それに気づいた人がいたけれど、継承されなかった。唯一継承されたが」
「朽木姉妹だった……」
僕はそう呟いた。
歪な形でピースがはまる。
それも、朽木という名前で。
「彼女たちが見つけたの。そして私に託してくれた。もう終わりしようって」
「そうだったんですね」
「四つ目の爪切り。これが継承されたことなの」
彼女は、ポケットから爪切りをひとつ取り出した。
見た感じ、普通の爪切りに見えた。
「どうぞ、受け取って」
僕が固まっているのと、「大丈夫、手にしても問題ないから」と微笑んだ。
僕は、恐る恐る手を伸ばし、冷たい金属に触れた。
重さも、見た目も何処にでもある爪切りに見えた。
「これが、四つ目の特別な爪切りなんですか?」
僕は思ったことをそのまま口にした。
貰った爪切りのなかで、二つ目の爪切りによく似た金属だけで出来た爪切り。
「見た目は同じよ。テコの部分を動かしてみて」
言われるがまま、テコをスライドさせて爪が切れるようにセットする。
その状態でも、なにが変わっているのか分からない。
「よく見て、テコのやすりの部分。角度を変えてみると分かるから」
一度、彼女を見て、そしてヤスリになっている箇所を見た。
最初は分からなかったが、ズラしてみて、驚いた。
「文字が、見える」
「うん。おばあちゃんのお孫さんの爪切り。それで最初の絵を作った。愛着があったのね、ヤスリの部分に名前を書き込んだの」
僕は角度をあれこれ変えて、書かれた文字を読もうとしたが、上手くいかなかった。
「さあ、これで。すべて揃ったわ。最後はあなたが決めるのよ」
彼女は一歩後ろに下がった。
横には、笠井ばあちゃんが立っている。
「ごめんね。変なことに巻き込んで」
「え、どういうことですか?」
二人の視線が僕に集中する。
「お願い、それで爪を切って。そしたら世界はもとに戻るわ」
「……」
「さようなら。楽しかったわ」
そう言った彼女の目に光るものが見えた。
僕は手にした爪切りに視線を落とす。
これが最後なのか。
本当に最後なのか。
再び動き出す思考に、僕は爪を切ることを躊躇ってしまった。
本当は、今すぐにでも切りたかった。
でも、彼女の涙を見た瞬間、とても大切なものを見たような気がしたからだ。
彼女の名前は……。
口に出して言えなかった。
あなたは、どんな気持ちでこの世界にいて、終わらせようとした?
その答えがどうしても聞きたくてしかたがなかった。




