30話 偶数だった
握った爪切りをゆっくりと持ち替えた。
左手の親指。
僕は、いつもここから始める。
そしてテコに指を乗せたとき、ヤスリの文字が、偶然目に入った。
確信を得た僕は、さよならと言った彼女の手を握った。
「……」
赤縁のメガネの奥が、揺れている。
「ぼくはどうしても知りたい」
「……なにを?」
声は震えている。
「僕は、あなたのことをずっと朽木琴音だと思っていた。お姉ちゃんのために、この世界を終わらせたい。だから協力したんだ。でも、それは違ってた」
彼女は小さく頷いた。
「あなたは僕と同じ奇数の人だ。だから偶数の名前で、四周期毎に現れる人に、この狂った世界を終わられてほしかった。でも、上手くいかなかった」
彼女はぼくの顔をみて何も言わなかった。
だから僕は、かまわず続ける。
「2022年の絵はなかった。完成した絵を隠したんだ」
早口になるのを堪えた。
「なぜか。それは僕が現れたからだ。四周期目の奇数の人間。あなたは僕を特別な人だと思わせる必要があった。なぜか? 2022年の朝霧めぐみさんが奇数の人で、特別だったが上手くいかなかった。原因は……」
僕は一瞬、口ごもった。
ここから先は、完全に僕の憶測だ。
でも、今まで見て、聞いた違和感をつなぎ合わせれば、何とかなるはず。
間違っているかも知れないが、それでも言わずにはいられない。
「原因は、爪切り暖簾の種明かしを偶数の人に引き継いだ。2023年、朽木静香さんに」
心臓が高鳴るの必死に抑える。
「そして、妹の琴音さんにも伝わった」
僕は朽木先輩からのメールを思い出した。
未来の爪切りは、まだ使われていない、と。でも、二人はもうここにいない。
「それが金属の爪切り、未来だったんだ」
そこまで言ってから、僕はずっと彼女の手を握っていることに気づいて、ごめんと言った。
「ううん。いいよ」
「……あなたは、白と赤の爪切りは説明したが、金属の爪切りについては、何も言わなかった。それが爪切りの謎に繋がらるからだ。未来の爪切りを使った二人は、この世界から居なくなった」
朽木家の違和感がここに繋がっていた。
庭先の芝生。
未来に行ったであろう彼女たちは、この世界の時間を止めたんだ。
「やっぱり君は気づく人だったんだね」
彼女の頬を光る粒が流れる。
「二人は未来の爪切りを使って、違う世界にいったのかもしれないし、元の世界に戻ったのかもしれない。でも、この世界は変わらなかった」
彼女は静かに頷いた。
「僕じゃなければ、まだ続いてましたか?」
彼女は、かすかに答えた。
僕はそれだけで十分だった。
「あらあら。可愛い顔が台無しだね」
笠井ばあちゃんが、ハンカチを渡した。
どうしようなく、悲しい物語だった。
誰が悪いのか。
何がいけなかったのか。
被害者は誰で、加害者は誰なのか。
侵食された、閉ざされた世界では、正解も正義もない。
だからといって、否定も悪もない。
ただただ救われない。
僕は大きく深呼吸をする。
「この爪切り。僕に預けてくれませんか?」
「……どうするの?」
彼女はハンカチを握りしめ尋ねた。
「うん。ちょっとだけ考えてみます」
「……わかったわ。もし決心がついた教えて。それと」
彼女は何かを言いかけて止めた。
僕は、じっと彼女の目を見ていた。
「うん。もうすぐ冬休みだね。元に戻るなら、年内には切らないでね」
「はい。ありがとうございます」
僕はそう言って、頭を下げた。
2025年12月31日 天気、晴れ。気温5度
気象予報士の予想はハズレそうだった。
灰色の空は、すぐにでも降りそうだ。
僕は最後に、彼女の家を尋ねた。
もちろん、居ないことは分かっている。
表札には、『朽木』の文字。
彼女の家ではない。
ちょっと気になって、門から奥の方を少し覗くと、庭先には青々とした芝生が生えていた。
それから、笠井ばあちゃんの定食屋にも寄った。
引き戸には、休みと書かれた札がかかっていて、人の気配はなかった。
ひとり。
この世界で、僕の知る人間はもういない。
厳密に言うと、あと二人いるけど、親しい関係でもないから会わないことにした。
ハウスクリーニングの望月さんはきっと、いじめた生徒の親で、絵を燃やそうと決めたのは斎藤先生なのだろう。
そして、クレームに屈した役場には、僕の面倒をみさせる。
なかなかどうして、大した役者だ。
僕は一人歩きながらほくそ笑んだ。
でも、あの瞬間を思い出すと、まだ胸がざわつく。
「あなたは……」と言いかけたとき、僕は本当はもっと違う答えを期待していたのかもしれない。
世界を操る何か、別の次元の存在、または完全に「人」じゃない何か。
なのに、出てきたのは、ただの名前。
それが正解だったとわかった瞬間、拍子抜けしたような、でもどこかホッとしたような、複雑な気持ちになった。
正解なのに、なぜか「これで終わりじゃない」と思った。
僕はゆっくり首を振り、降り出しそうな暗雲の中を歩き続け、そして、旧校舎を訪れた。
木造建築の古い建物。
定礎には1870年と書かれていた。
彼女はここで学び、そして亡くなった。
最初に飾られたのが、あの図書館もどきだったのかもしれない。
ポケットには冷たい爪切りが入っていた。
それから……。
「お邪魔します」
玄関から声が聞こえた。
新しい文化祭の委員が来たのだろう。
「うん。どうぞ、遠慮しないで」
女子生徒は、一瞬で驚いた表情になった。
そのリアクション、僕と同じだ。
「うん。欲しかったら、持って帰っていいよ」
そう言って、僕は暖簾をくぐった。
ゆれ動く、爪切り暖簾。
あのとき、僕は「初心に帰る」と思った。
文化祭の委員に選ばれた日、初めて玄関で見たあの不揃いな列。
最初に感じた違和感は、そこにずっとあったんだ。
爪切りそのものに着目すれば、すべてが繋がる。
だからこそ、僕は今、ここに立っている。
手には、彼女が最後に託した爪切りがあった。
指先でテコを動かすと、ヤスリの中の文字が見え隠れる。
結局僕は最後まで、彼女の名前を口にしなかった。
ううん、違う。
口にできなかった。
始まりの子。
「JYUNKO」
彼女の代償は、ズレた世界で生き続けること。
それが何年、何十年と続いている。
終わらせたい。
それがいつしか彼女の願いに代わったのだろう。
でも、あのときの「逆なのよ」という言葉が、今でも頭に残っている。
僕は不規則が嫌いだから、奇数を避けて偶数を探した。
でも本当は逆だったんだ。
この世界では、奇数を探すことが、ループを維持する罠だった。
不規則を嫌う僕の性格が、逆に残る側を選ばせていた。
だからこそ、彼女は僕を選んだんだ。
気づける人、でありながら、ルールに縛られる人として。
2022年、四周期目に奇数の人間、朝霧めぐみが当たってしまった。そのズレが、僕を呼び込んだのかもしれない。
そうだとしても、僕に名前をいつわる必要があったのだろうか。
僕が知らない謎がまだあるということか。
あ、そうだ。
僕は振り返って、
「君、名前は?」
爪切り暖簾の前で女子生徒が名乗ると、僕はその名前の文字を、ひとつずつ数えた。
ダイニングの台所には、先輩が残した三つの爪切りがあった。
その中に、ひとつだけ未来のような金属の輝きを放つものがあった。
まだ、切っていない。
彼女の名前は、偶数だった。
了




