第04話 闇夜の支配者
「くっくっ……。おっと」
思わず笑みが漏れそうになった口を固く結ぶ。
夜は、音を吸い込む。
流れる雲は月を隠し、奈良盆地を覆う闇は深かった。
獣すら戦の気配に声を潜め、風が草を撫でる音だけが、かすかに耳を打つ。
俺に従うは、精鋭が百二人。
武は当然。それ以上に、口の固さで選び抜いた者たちだ。
月が出れば止まり、闇が戻れば走る。
そうして、ここまで来た。
火はない。
火種も、松明も、すべて置いてきた。
鎧もない。
沈黙と素早さが、すべてだ。
各々が携えているのは、刀一本と、奪ったものを持ち帰る背負子のみ。
「……大当たり」
森の木々の隙間に幾つもの明かりが見えた。
後方で、家臣が小さく頷いた。
誰も声は出さない。この場での言葉は、刃より重い。
やがて、揺れる影が伸びて現れた。
月明かりに照らされた黒ではない。
篝火が作った黒だ。
布をかけられた荷車。
低く組まれた柵。
寝ず番で歩哨する足軽。
三好の兵糧庫だった。
「残念だ……。警戒が浅い」
警戒はしている。
だが、恐れてはいない。
当然だ。
親父だったら、火を使わず、夜に忍ぶなど、想像の外だ。
俺は、ゆっくりと手を上げた。
精鋭たちが、音もなく止まる。
続けて、左右を指さすと、腰を落としながら散った。
「さて……。」
乾いた唇を、舌でなぞる。
刀をゆるりと抜き、その身を木の影に滑り込ませる。
開幕の合図は、俺に委ねられている。
足軽までの距離は約十メートル。
俺の真正面を、足軽が通り過ぎた刹那。
「ふっ!」
俺は息を鋭く吐き、闇を渡った。
足軽が、何かを感じ取ったように振り向く。
俺はその背に回り、左手で口を塞ぎ、刃を首に引いた。
「……俺の名は、松永久通。
地獄の閻魔によろしく伝えてくれ」
「むぐっ!?」
言葉になる前に、鮮やかな赤が、静寂を汚す。
一拍の間をおき、足軽は膝を折り、前のめりに倒れる。
なかなか味わい深い緊張だった。
刀を血払いし、鞘に収めた、その直後。幾つかの悲鳴が闇に裂けた。
「ちっ……。」
思わず舌打ちを漏らす。
誰かが、余計な音を立てたらしい。
だが、まだ致命ではない。
敵は『何が起きているか』分かっていない。
俺は即座に判断を切り替えた。
隠密は、終わりだ。
「敵襲だ! 松永が来たぞ! 東だ!」
どうせ騒ぎになるなら、俺の方から騒がせてやる。
俺は、溜め込んでいた沈黙を叩き割るように、声を張り上げた。
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「つまらん……。慢心しすぎだろ」
周囲では、兵糧庫のあちこちで怒号と足音が交錯している。
だが、八千の腹を満たす兵糧庫を守るには、あまりに手薄だった。
もはや、この一角だけが、戦から切り離されたかのように静かだ。
「そう言える若が、私は恐ろしゅうございます」
「……そうか?」
家臣の声に振り返る。
俺の背を、何度も戦場で守ってきた男。
『奥田忠高』だ。
「敵をあえて自分におびき寄せての大立ち回り。
まさしく、修羅……。三国志に呂布が、重なって見えました」
風が吹き、篝火が一瞬だけ大きく揺れた。
雲の合間から月が姿を現し、地に転がる影を歪める。
「くっくっ……。褒めすぎだろ?」
喉の奥で、笑いを殺した。
「いや、悪口なのか? 呂布は裏切りの代名詞だし」
「け、決して、そのような意味では……。
た、ただ、あまりにお強すぎて……。」
軽口を返すと、忠高の言葉は、後半になるほど小さくなっていった。
「分かってる、分かってる」
俺は手を振った。
「でも、俺は張遼の方が好みだ。
張来々ならぬ、松永来々……。悪くないだろ?」
「はぁ……。」
忠高は、諦めたように息を吐いた。
「さて、軽口はここまでだ。
さっさと奪って、さっさと立ち去るぞ」
俺は、声の調子を一段落とした。
「御意!」
即座に返る声。
今回の戦い初めにあったような迷いはない。
「いいな? 持って、走れる分だけだ」
俺は周囲を一瞥する。
「欲張る乞食は置いてゆく。へばって捕まるような馬鹿は知らん」
「徹底させます」
忠高は短く頷いた。
「しかし……。本当によろしいのですか?」
俺が歩き出そうとすると、忠高の慎重な声が、背後から追ってきた。
「何がだ?」
「これだけの兵糧、三割も奪えません。どうせなら、燃やしては?」
俺は、鼻で小さく笑って息を吐いた。
「燃やす?」
言葉を切って、あえて間を置く。
「それで、三好が困るのは何日だ?」
「十日前後は……。」
「……だろ?」
視線を、山積みになった兵糧へゆっくりと移す。
「兵糧を燃やすのは、親父のやり口だ。
派手で、気持ちはいいが……。終わりが早い」
低く、吐き捨てるように続けた。
「だが、奪って、残せば話が違う。
次は奪われまいと、必ず警戒が増す」
あちこちで、精鋭たちが荷を背負い始める音が始まった。
まだ忠高はここにいる。
指示は、まだ通達されていない。
それでも、闇が静まり返った瞬間、己の役目を果たそうと動く精鋭たちを、久通は心の中で密かに喝采した。
「人は、守ろうとした瞬間に隙を作る」
実に、素晴らしい。
この精鋭こそ、俺が欲していた手駒だ。
「三好の戦は『見』が多い。
待ち、測り、確かめる」
俺は、こらえきれず闇に紛れて笑った。
今回の働きは、記録には残らない。
しかし、俺の記憶にはしっかり刻まれた。
精鋭たちの手柄が、略奪品だけでは足りない。
俺の直属に加え、地獄を共に歩む仲間になってもらおう。
「長引けば、長引くほど……。苦しみは増える」
「やはり若は恐ろしい……。
そのような戦い、今までしてきませんでした」
無論、その最初の一人は忠高だ。
忠高のかすれた声に、俺は立ち止まり、口の端を吊り上げた笑みを振り向かせた。
「なら、慣れろ。
俺について来たやつは、
死に方くらいは、選ばせてやる」
闇の中、精鋭たちの動きがさらに活発になる。
夜は、まだ深い。




