第03話 胸騒ぎ
「ふぅーー……。」
三好長逸は、夜明け前の冷えた空気を肺に入れ、ゆっくりと吐き出した。
東の空はまだ白みきらず、陣中には湿った土と汗の匂いが漂っていた。
自身が率いる八千の兵力。
それは戦うための数ではない。
相手に『数えさせる』ための数だ。
「……静かすぎる」
独りごちると、傍らに控えていた三好政康が、低く応じた。
「松永が大仏殿を焼いた翌日だ。
泣き叫ぶ僧も、討伐を叫ぶ民も、今は我らの背に味方している」
「だからこそだ」
長逸は視線を陣の外へ向けた。
「追い詰められた獣ほど、奇妙な動きをする」
岩成友通が、地図を広げながら鼻を鳴らす。
「奇妙も何も、相手はあの松永だ。
大仏殿を燃やし、今は満足しきっているだろうよ」
「親父はな」
長逸は、はっきりと言った。
「だが……。息子は違う」
一瞬、沈黙が落ちた。
「確かに、我らは義輝様が邪魔だった」
「しかし、打倒は叫んでいても、殺そうとは思っていなかった」
「将軍弑逆……。儂にそんな度胸はなかった。お前らはどうだ?」
松永久通。
その名はまだ広く知られていない。
だが、燃え盛る大仏殿の中で、前線に立っていた若武者の噂は、すでに耳に入っている。
「ふんっ……。若造ゆえの恐れ知らずだろ」
政康は、鼻で小さく笑った。
「いや……。」
長逸は首を横に振った。
「あの小僧は、恐れを『知った上で』立っている」
それは、拭えぬ胸騒ぎだった。
「兵糧の運びは?」
そんな我らの問答を打ち切るように、岩成が家臣に視線をくれた。
家臣が即座に答える。
「川沿いより一段引いた山間に。
街道から外し、夜襲も警戒しております」
「十分だ」
八千の口を、十日は黙らせられる量だ。
その先を買い支える金も、すでに運ばれている。
「松永が夜襲など考えるはずがない。
あれは『見せつける戦』しかしない男だ」
長逸は、その言葉に小さく頷いた。
それでも、胸の奥のざらつきは消えない。
「……ならば、なぜだ」
「何がです?」
「なぜ、松永が動かぬ」
大仏殿を焼いて、満足した。
それ自体は、理解できる。
しかし、満足しきったとは思えない。
昂った激情のまま、打って出てもおかしくはないはずだ。
それが、ない。静かすぎた。
「兵を割いた形跡は?」
「ございます」
家臣が神妙に頷いた。
「目立つ部隊が、正面に配置されました。
威圧の構えかと」
「……なるほど」
岩成は、肩を揺らして笑った。
「分かりやすい。
やはり、松永だ」
だが、長逸は笑わなかった。
威圧と正面。
派手で分かりやすい『いつもの松永』だ。
それでも、胸の奥で、小さな棘のような違和感が残った。
「正面の動きは、囮ではないか?」
政康が、ぽつりと口にした。
岩成が眉をひそめる。
「囮? 何を囮に?」
松永久秀は、政には邪道を好む。
しかし、戦においては、奇策に溺れぬ男だ。
岩成が眉をひそめるのも、無理はない。
だが、息子の松永久通は、まだ未知数だ。
「……分からぬ」
長逸は地図を見下ろす。
我らが布陣した奈良盆地の北。
川と山に挟まれた地形。
補給に適し、守りやすい場所。
そして、兵糧。
視線が、自然と一箇所に留まった。
「……まさか」
視線が、そこから離れなかった。
理屈では否定できても、本能が拒んでいた。
その呟きに、二人が顔を上げる。
「長逸?」
「いや……。考えすぎかもしれん」
胸の奥で警鐘が鳴っていた。
「警備を……」
言いかけて、長逸は口を閉ざした。
根拠がない。
疑念だけで兵を動かせば、逆に隙を晒す。
それは、長逸がこれまで何度も彼を救ってきた判断基準だった。
我々の敵は『松永久秀』だ。
その、まだ海とも山とも知れぬ息子に、これ以上、意識を割くのは得策ではない。
息をつき、首を左右に振る。
「……いや、現状維持だ」
そう命じた自分の声が、わずかに硬いことを、長逸自身が理解していた。
夜明けが来る。
だが、その光はなぜか、希望よりも不安を照らしている。
「……松永」
長逸は、その名を噛みしめる。
「松永久通……。」
その名を呼んだ瞬間、理由の分からぬ寒気が、背を撫でた。
それが、警告だったと知るのは、まだ先の話だ。




