第006話:氷の令嬢の戦慄と、家路での商談(アプローチ)
1. 砕かれた絶対零度のプライド
四月八日、月曜日。
週末の狂乱が嘘のように静まり返った、放課後の生徒会室。
氷室冴香は、手の中のスマートフォンを握りしめたまま、彫像のように硬直していた。
数分前まで、彼女の画面にはギルドの極秘データベースから不正に抽出された「佐藤通」の個人プロファイルが表示されているはずだった。金曜夜の『渋谷事変』で唯一無傷に近い状態で生還し、週末のSNSを「悲劇のヒーロー」として席巻した少年の真実。だが、彼女が核心部分へ指先を滑らせようとしたその瞬間、画面は電気的な悲鳴のようなノイズと共に真っ赤に染まり、網膜を焼くような文字列が躍り出た。
『NO UNINVITED GUESTS(招かれざる客はお断りだ)』
「会長、どうしたんですか? 顔色が……」
「……何でもないわ。少し、端末の同期が不安定なだけよ」
側近の心配そうな声を冷たく遮り、冴香はスマホをデスクに置いた。
投げ出された指先が、目に見えて微かに震えている。彼女にこのデータを提供した、裏社会でも名の知れた凄腕のハッカー。彼からは直後に「身を隠す。二度と連絡するな」という、恐怖に引き攣った短いメッセージが届き、通信は完全に断絶した。
(レベル10の新人……? 冗談じゃないわ。三日前の金曜夜に覚醒したばかりの子供が、私の雇った専門家を瞬時に逆探知して、警告を叩き込んできたっていうの?)
彼女の脳裏に、入学式で見かけた、あの銀のモノクルをかけた少年の瞳が浮かぶ。
「悲劇の生存者」というヴェールを纏いながら、その裏側で世界をあざ笑うような、圧倒的な知性と武の質量。
「佐藤通……。あなた、三日間で一体何をしたの」
2. 帰路の対峙と、冷徹な契約
駅前の雑踏を抜け、家路を急ぐ通の前に、一つの影が落ちた。
「佐藤通くん。……少し、時間を頂けるかしら」
夕日に照らされた帰路の途中で、まるで獲物を待ち構える蜘蛛のように、氷室冴香が立っていた。
通は足を止め、モノクルの奥の瞳を冷ややかに細めた。
「おや、会長。僕のような一介の生存者に、何か御用ですか?」
「とぼけないで。……あなたのスマホ、今すぐここで見せてくれない?」
「ハラスメントの申告ですか? それとも、連絡先の交換のお誘いかな」
冴香は距離を詰め、他人に聞こえぬほど低い、殺気を含んだ声で囁いた。
「さっきの地下ダンジョン。……あなたが『掃除』したんでしょう? ハッキングの件もそう。レベル10なんて、笑わせないで。……あなた、本当は何者なの」
通は、彼女の至近距離から漂う熱量を感じながら、ふっと口角を上げた。
「会長。ビジネスにおいて、重要な情報の開示には相応の対価が必要だ。……そうでしょう?」
通は彼女の瞳を真っ向から見据えた。
「僕が誰であれ、今のところあなたの敵ではない。……むしろ、あなたが喉から手が出るほど追っている『高純度魔石の流通経路』について、極めて有益なビジネスパートナーになれるかもしれない。……そうは思いませんか?」
冴香の瞳が、驚愕で大きく見開かれた。彼女の実家が不眠不休で調査していた極秘情報を、得体の知れない少年が口にしたのだ。
(対象:氷室冴香。好感度:ERROR……数値が激しく乱高下。……警戒心が40%低下、代わりに『執着』が60%上昇)
「……あなたは、一体……」
「続きは、また今度。定時ですので、失礼します」
通はモノクルを指先で軽く叩き、彼女の横を、まるで春風のように優雅に通り過ぎた。
残された冴香は、自分の鼓動が今まで感じたことのないほど速く、激しくなっていることに気づいた。それは正体不明の恐怖なのか。それとも、三日前の絶望を上書きするような高揚感なのか。
3. スーパーの買い出しと、夜の「残業」への備え
冴香を背に家路につく通のスマホに、新たな通知が届いていた。
『父さんより:今日の夕飯はカレーだ。週末に話した例の「散歩ルート」の件、検討しておけよ』
「……親父も、相変わらず抜け目がないな」
通は苦笑し、道すがら近所のスーパーに立ち寄った。母に頼まれていた牛乳と、妹が欲しがっていた新作のアイスクリームをカゴに入れる。
冷たいレジの電子音が響く中、通はモノクルの度数を「探索モード」へと切り替えた。 学園生活、経済戦争、そしてダンジョンに眠る真実。
三十二歳の精神を持つ十五歳の少年にとって、この週末を経て始まった新生活は、前世のどんなオフィスよりも刺激的な「職場」になりつつあった。
【現在の佐藤通:レベル130。氷室冴香との直接交渉を開始。父・一真との秘密の共有。……本日の残業(ダンジョン探索)を開始】




