第006.5話:残業としての夜間清掃
1. 夜の帳と、コンビニへの「出張」
夜の渋谷は、昼間の喧騒とは質の異なる、粘着質な「魔力」に支配されている。
極彩色のネオンがアスファルトに毒々しい影を落とし、地下の亀裂からは、湿った土の匂いと混じり合った異界の残滓が絶えず溢れ出していた。
佐藤通は、父・一真が腕を振るったスパイスの香り高いカレーを平らげると、妹の華乃に「少しコンビニまで」とだけ言い残して家を出た。
自室ですでに、光を吸収する漆黒のタクティカルウェアへと身を包み、その上から重厚なハーフコートを羽織っている。
彼は住宅街の暗がりに紛れると、左目に銀のフレーム――『深淵のモノクル』を装着した。
「さて。本日の『残業』を開始するとしようか」
指先でモノクルの縁を軽く叩く。
刹那、レンズに極小の魔法陣が火花を散らすように浮かび上がり、視界から色彩が抜け落ち、代わりに膨大な情報の濁流が流れ出した。
(個体名:佐藤通。ログインを確認。……周辺2km以内のマナ・インデックスをスキャン。……特定しました。神泉地区、廃棄ビルの地下。大規模な魔力漏洩を検知)
「神泉か。準Aランク以上の制限区域だな。……在庫が期待できそうだ」
(肯定。現在のCF市場価格に基づくと、一時間の清掃で推定300万から500万円の純利益を見込めます)
「効率のいい現場だ。……よし、直行だ」
通は、ビルとビルの間に落ちる濃密な闇を繋ぎ、影となって疾走した。
時速100キロを超える異次元の移動。だが、彼が踏みしめる地面は、小石一つ跳ねさせることなく静まり返っている。レベル130の身体能力を、異世界の暗殺術「無音歩法」で完全に制御しているのだ。
深夜を歩く人々の目には、ただ冷たい夜風が通り過ぎたという記憶しか残らなかっただろう。
2. 吹き溜まりの群狼と、納期二秒の閃光
目的地は、蔦が血管のように絡まりついた古い商業ビルだった。
入口を封鎖する『立入禁止』のテープ。ギルドが施した魔封じの結界。だが、通がモノクルをかざすと、不可視の障壁に走る脆弱な結節点が、鮮やかな赤のラインとして網膜に浮き上がった。
「システム・ハック」
指先でその一点をなぞる。
結界は、まるで主を迎え入れる執事のように音もなくその身を裂き、通一人分だけの隙間を開けた。
地下へ続く階段を降りるごとに、空気の重みが増していく。肺を圧迫するような高濃度の魔力。そこは複数のダンジョンが地下で「癒着」し、魔物が煮詰められた異常箇所――通称『吹き溜まり』だった。
「ギャオォォォォン!!」
闇の奥、カビと腐臭が混じり合う空間から、複数の獣の咆哮が重なり合って響いた。
現れたのは、筋肉の塊のような巨躯を持つ二足歩行の狼――『ワーウルフ』の群れだ。
Cランク中位。プロのパーティですら全滅を覚悟する強敵。それが十数体、銀色の毛並みを逆立てて一斉に飛びかかってくる。
「OS。敵の攻撃パターンを予測。座標を脳内に直接投影しろ」
(了解。全24パターンの軌道を算出。……回避、および迎撃の最短経路を提示します。……納期は2秒です)
「……注文が厳しいな。だが、仕様通りに仕上げよう」
通はカバンから、いつもの警棒を取り出した。
さらに懐から一粒の魔石――昼間、意図的に換金せず残しておいた高純度の欠片を取り出すと、警棒の柄へと力強く押し当てる。
「オーバーロード(過負荷)」
魔石がパキィッという音を立てて砕け、その奔放なエネルギーが警棒の内部回路へと強引に流し込まれた。
鉄の棒が青白いプラズマを纏い、超高熱を放つ「光剣」へと変貌を遂げる。
一閃。
踏み込んだ通の体が、一条の光の糸となって群れの中心を貫いた。
ワーウルフたちは、己の肉体が断たれたことさえ自覚できない。
通が背後で警棒を鞘へと収めるカチリという乾いた音。それと同時に、十数体の魔物の胴体が、灼熱の切断線から滑り落ち、ドサリと崩れ落ちた。
「……ふぅ。現場の5割は片付いたか。次は、本命の不具合を叩きに行くか」
3. 都市の寄生虫と、デバッグの極致
ビルの最深部、かつての機械室。
そこには、巨大な結晶体が魔石を捕食し、異質な自意識を持った変異種、『CFクリスタル・イーター』が鎮座していた。
周辺の電力を吸い取り、不気味に明滅するその姿は、まさに都市の臓腑に食い込む巨大な寄生虫だ。
(警告。対象の魔力密度、特A級。通常の物理干渉では、反発魔力によりこちらが再起不能のダメージを受けます)
「反発魔力、か。物理法則で無理なら、論理で殴るまでだ」
通はモノクルのレンズを指先で滑らかに回転させ、設定を『魔導解析モード』へと切り替えた。
クリスタルの表面を走る、血管のような複雑な魔力回路。その激しい脈動の中で、万分の一秒だけ供給が途絶える「ノイズ」の瞬間。
通は精神を研ぎ澄ませた。
三十代のサラリーマン時代、明け方まで複雑なExcelの数式と格闘した、あの執念。
異世界の戦場で、神の結界に刻まれた数万の文字コードを読み解いた、あの集中力。
「……見つけた。バグの発生源は、そこだ」
通の掌に、大気中のマナが収束し、小さくも猛烈な密度を持った光球を形作る。
それはもはや魔法ではない。純粋な「レベル130の質量」を針のように圧縮した、純粋な物理現象だ。
「デバッグ完了」
指先から放たれた魔力の針が、クリスタルの中心核を一点の狂いもなく貫通した。
一瞬の静寂の後、巨大な結晶体は断末魔すら許されず、内側から雪崩のように崩壊を開始した。
パラパラと、美しい砂のように砕け散るクリスタルの残骸。
その中央から、通の手のひらに収まりきらないほどの、眩い純白に輝く巨大な魔石が姿を現した。
「……これは。純度95%を超えているな」
(鑑定完了。極高純度魔石。含有魔力量:12,000CF。推定市場価値……測定不能。エネルギー庁の特級換算レートによる特別精査を推奨します)
「親父が言っていた『散歩ルートに落ちているもの』としては、少し上等すぎる成果だな」
通はそれを丁寧な手つきで布に包み、鞄へと収めた。
今日の「残業」の収穫としては、十二分すぎる。
4. ボーナスと、明日の「接待」
通は周囲の痕跡を事務的に消去すると、ビルの屋上へと一足飛びに跳ね上がった。
冷たい夜風がモノクルに当たり、ヒュウと音を立てる。
眼下の道路を見下ろすと、ようやく事態を察知したギルドの緊急車両が、青いサイレンを鳴らしてビルへ滑り込んでくるところだった。
「……おっと、定時だ。これ以上はサービス残業になるからな」
通はモノクルを外し、コートのポケットにしまった。
左目の七色の燐光が消え、そこには月光に照らされた「穏やかでミステリアスな少年」の横顔だけが残る。
家に戻ると、リビングにはまだ明かりが灯っていた。
一真がソファに深く腰掛け、相変わらずタブレットを眺めながら、香りの強いコーヒーを啜っている。
「……遅かったな、通。コンビニは、そんなに混んでいたか?」
「ああ。レジで少しトラブルがあってね。……これ、今日の『お土産』だ」
通は鞄から、あの巨大な白光の魔石を取り出し、テーブルの上へと無造作に置いた。
カツン、という硬質な音が響く。一真の手が、完全に止まった。
彼はタブレットを置き、その魔石を食い入るように見つめると、通の顔を見て、獰猛な獣のように口角を上げた。
「……いい散歩ルートを見つけたようだな、通。これはうちの会社が、全財産を投じてでも買い取らせてもらう。……報酬は、お前の口座に『社会人のボーナス』として叩き込んでおこう」
「助かるよ、親父」
自室に戻り、ベッドに身を横たえる。
スマホの画面には、神崎有栖から『明日の昼休み、屋上でお弁当食べない?』という通知が届いていた。
「……やれやれ。夜の清掃より、明日の昼の接待の方が、よほど生存難易度が高そうだ」
最強の帰還者の、長く短い一日は終わらない。
だが、モノクルの奥で静かに光る彼の瞳は、次に「攻略」すべきターゲットを、すでに冷徹に見定めていた。
【現在の佐藤通:レベル130。今日の残業代:一真経由で特大ボーナス確定。神崎有栖からのアプローチ:保留。……強制スリープ開始】




