第057話:不当な市場介入と、聖域(メイン・ベンダー)の危機
1.盤面の変更と西の毒牙
二〇二四年、六月。
東京ドーム特設ダンジョンにて、クラン『レギュレーター』の圧倒的な品質証明が開始された裏側。
ギルド本部のシステムから完全に独立した暗号化回線で結ばれた、西の覇者『芦屋シンジケート』の専用VIPルームでは、次期総帥・芦屋龍牙が、ホログラムモニターの前で忌々しげに舌打ちをしていた。
「……チッ。なんやあの『強制解放』っちゅう魔法は。関東のジジイどもが用意したデッドゾーンの結界が、紙クズみたいに粉砕されよったぞ」
龍牙は巨大な戦斧を床に突き立て、苛立ちを露わにする。
画面の中では、極端に希薄化されていたはずのマナが正常値に戻り、漆黒の制服を纏った阿部たちが、水を得た魚のようにギルドの用意したAランク魔物を事務的に蹂躙し始めていた。
「若様。……やはり、佐藤通という個体と正面から物理的衝突を行うのは、極めてリスクが高いと言わざるを得ません。事前の計画通り、別のアプローチを進めて正解でした」
情報分析部門トップの水無月が、眼鏡を押し上げながら冷徹に告げた。
「関東の連中は、自らの『確証バイアス』に溺れて自滅の道を歩んでいます。我々が同じ轍を踏む必要はありません。……我々の目的はあくまで、佐藤通を無限に駆動させている特級の兵站――『神崎有栖』の獲得です」
「分かっとる。……だが、あの小娘の周りには、広報部長とかいう女が率いるバックオフィスが、鉄壁の監視網を敷いとるんやろ?」
「はい。恵比寿市場での工作員からの報告通り、彼女自身の周囲は極めて強固です。……しかし、企業買収(M&A)において、ターゲットを直接狙うのが困難な場合、最も効果的なのは『関連会社(身内)』を差し押さえ、それをレバレッジ(てこ)として強制的に交渉のテーブルに着かせることです」
水無月のモニターに、一つの個人データが映し出された。
「ターゲット:神崎剛。神崎有栖の父親であり、彼女の心理的なセーフティネット(聖域)です。すでに手はずは整っています。佐藤通たちが大会に釘付けになっているこの隙を突き、神崎家周辺に配置済みです。現在、彼は東京の自宅にて、一人で留守番をしています。……ここを急襲し、彼を『人質』として確保します。家族の命を握られれば、いかに強固なバックオフィスに守られていようと、神崎有栖は自ら我々の専属ベンダーとして下るしかありません」
龍牙の口角が、残忍な弧を描いた。
「……カカッ! えげつない手法やが、実利を出すにはそれが一番早い。……工作員は足りるんか?」
「恵比寿での失敗を踏まえ、関西から特A級の暗殺スキルを持つ精鋭五名を向かわせています。……対象は元探索者とはいえ、既に引退したロートル。数分で『差し押さえ』は完了するでしょう」
2.愛娘のための防衛戦
同時刻。東京、神崎家。
「……よしッ! 今日の唐揚げの下味は、完璧な仕上がりだッ!」
キッチンで、身長二メートル近い巨躯にピンク色のフリルエプロンを纏った神崎剛が、ボウルに入った鶏肉を力強く揉み込みながら吠えていた。
顔には、手作りの段ボール製モノクル。
「有栖のやつ、今日はあの佐藤とかいう小生意気な男の『大会』とやらの応援に行っているらしいが……。愛娘が帰ってきた時、一番に安らぎを与えるのは、このパパの特製プロテイン唐揚げでなければならんからなァッ!」
剛が、満足げに鼻歌を歌いながら油の温度を確かめようとした、その時。
パリンッ……!!
リビングの窓ガラスが、音もなく円形に切り取られ、五つの黒い影が音もなく室内に侵入した。
「……ターゲット確認。……抵抗すれば、命の保証はない」
無機質な声。黒装束に身を包んだ芦屋シンジケートの暗殺部隊だ。彼らの手には、麻痺毒の塗られた特殊な短刀が握られている。
「……何ィッ!? 貴様ら、土足で神聖なる我が家のリビングに上がり込むとは、どういう了見だァッ!!」
剛は驚くどころか、手元にあった巨大な肉叩きハンマーを握り締め、凄まじい大声で咆哮した。
「ターゲットの魔力反応、上昇……。推測レベル22……いや、数値が異常に跳ね上がっている……!?」
工作員の一人が、計測器を見て息を呑む。
剛の全身から、『娘の帰る家を汚された親バカの怒り』という名の、理不尽な感情エネルギーが爆発的に溢れ出していた。その威圧感は、一時的にAランク探索者に匹敵する重圧を放っている。
「愛娘の唐揚げを揚げるまでは、死ねんのだァァァッ!!」
剛が、肉叩きハンマーをフルスイングする。
ドゴォォォン!!
空気が圧縮され、先頭にいた工作員がハンマーの直撃を受け、リビングの壁を突き破って屋外へと吹き飛ばされた。
「なっ……!? 情報と違うぞ! ただの引退したロートルじゃないのか!?」
「ひるむな! 陣形を組め! 毒を使え!」
残る四人の工作員が、剛の死角へと素早く散開する。
剛は元探索者としての勘を頼りに、フライパンを盾にして応戦するが、相手は対人戦闘に特化した裏社会のプロフェッショナルだ。
「――シッ!」
剛がハンマーを振り下ろした隙を突き、死角から放たれた短刀が、剛の太腿を深く切り裂いた。
「ぐ、おォッ……!?」
「麻痺毒が回ったはずだ。……終わりだ、親父」
剛の巨体が、ガクリと膝をつく。全身の神経が焼け焦げるような激痛と、急速に失われていく感覚。
「パパを……ナメるなァッ!!」
剛は、麻痺で動かなくなりつつある右腕を左手で強引に持ち上げ、最後の力を振り絞って工作員の一人に強烈な頭突きを見舞った。
ゴパァッ! という音と共に工作員が昏倒するが、残りの三人が同時に剛の背後から刃を突き立てた。
「ガ、はっ……ごほっ……」
床に大量の血が広がる。
肉叩きハンマーが、乾いた音を立てて剛の手から滑り落ちた。
「……チッ。手間をかけさせやがって。だが、これでチェックメイトだ」
工作員の一人が、血の海に倒れ伏す剛の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。そして、懐から超小型の魔導カメラを取り出す。
「……あり、す……。……パパは……大丈夫、だ……。……だから……お前は……」
剛が、薄れゆく意識の中で、カメラのレンズ越しに愛娘へ向けて血まみれの笑顔を作ろうとする。
工作員は冷酷にその映像を録画すると、暗号化通信で『送信』ボタンを叩いた。
3.届いた不当な買収通知(脅迫状)
「……阿部くんたち、すごい……! あの大きな魔物も、あっという間に……!」
東京ドームの地下、安全なVIPルーム。
神崎有栖は、モニターに映し出される『沈黙の騎士団』の圧倒的な戦いぶりに、両手を組んで見入っていた。
彼女の隣では、三木怜がタブレットで次々と指示を飛ばし、工藤遥が次の兵站物資の準備を進めている。
ブーッ、ブーッ。
その時、有栖のエプロンのポケットに入っていたスマートフォンが、不吉な振動を繰り返した。
「……あれ? 誰だろう……」
有栖がスマホの画面を見た瞬間。
彼女の心臓が、冷たい氷の塊に変わった。
表示されたのは、見知らぬ宛先からの短い動画ファイル。
そこには、見慣れた自宅のリビングで、血の海の中に倒れ伏し、息も絶え絶えになっている父・剛の姿が映っていた。
『――神崎有栖。君の父親の命は、我々が預かった』
動画から流れる、合成された無機質な声。
『父親を助けたければ、誰にも言わず、指定した座標へ一人で来い。……我々「芦屋シンジケート」の専属ベンダーになれば、父親の命と、莫大な報酬を約束しよう。……もし外部に漏らしたり、レギュレーターの連中に助けを求めたりすれば、次の動画で父親の首を送る』
「…………えっ……?」
有栖の手から、スマホが滑り落ちた。
カツン、という硬い音がVIPルームに響く。
「パパ……? 嘘、血がいっぱい……。どうして……?」
有栖の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ち、彼女はその場に崩れ落ちた。過呼吸を起こしたように肩が震え、声にならない悲鳴が喉の奥で詰まっている。
「有栖さん!? どうしたの!?」
異変に気づいた三木怜が駆け寄り、床に落ちたスマホの画面を覗き込む。
「……っ!? これは……!」
怜の表情が、一瞬にして凍りついた。
完璧な広報兵站部長としての顔が剥がれ落ち、激しい怒りと焦燥が彼女の顔を歪める。
「……蛍! 通信の逆探知を! 急いで!!」
怜が叫ぶと、VIPルームの影から影森蛍が姿を現し、即座に自らの端末を操作し始めた。
「……ダメです、多重のダミーサーバーを経由しています。……ですが、この手口、そして『芦屋シンジケート』という名……。間違いありません。西の巨大クランによる、メイン・ベンダーに対する『物理的な人質』を用いた不当な市場介入です」
「有栖さん、しっかりして! 息を吸って!」
工藤遥が、泣き崩れる有栖の背中を必死にさする。
だが、有栖の耳にはもう何も聞こえていなかった。
自分が、トールのためにお弁当を作っていたことが。自分の愛情が、結果的に大好きな父親を死の淵に追いやってしまったという、絶望的な事実。
「ごめんなさい……ごめんなさい、パパ……! 私が、私が……!」
怜は、震える指でインカムのスイッチを押し込んだ。
「……ボス。……緊急事態です」
4.CEOの静かなる激怒と、業務凍結
演習場中央。
トールは、帝都探索者学院の生徒たちが保持していた魔導装備をシステムから強制シャットダウンさせ、彼らを無力化したところだった。
観客席からは割れんばかりの歓声が響き、ギルドの管理官たちが震え上がっている。
「――チェックメイトだ。業務終了」
トールがそう宣言し、この『公開買収』を完璧な形で締めくくろうとした、まさにその瞬間だった。
『……ボス。緊急事態です』
インカムから響いた三木怜の声は、普段の冷静沈着な彼女のものとは思えないほど、悲痛な震えを帯びていた。
『……関西の芦屋シンジケートが、神崎さんのお父様を襲撃しました。現在、お父様は重体です……! さらに、有栖さんの端末に、彼女自身を専属ベンダーとして引き抜くための脅迫通信が……!』
その報告を聞いた瞬間。
トールの左目に嵌まった『深淵のモノクル』が、ピキッ、と微かな亀裂の音を立てた。
常に冷徹に事象を数値化し、合理的な解を弾き出し続けていた三十代の管理職の精神(OS)が、完全に「ショート」したのだ。
ズンッ……!!
東京ドーム全域の空気が、突然、物理的な質量を持って数トンに重くなったかのように沈み込んだ。
「……な、なんだ、これ……! 息が、息ができない……ッ!?」
「空間が……凍ってる……!?」
歓声に包まれていた観客席が、阿鼻叫喚の悲鳴へと変わる。
ギルドの幹部たちも、獅子王凱も、そして戦場の最前線にいた阿部たち『沈黙の騎士団』でさえも、突然降りかかった「絶対零度の殺意」の前に、本能的な恐怖で地面に這いつくばった。
トールの全身から漏れ出したレベル131の魔力が、コントロールを失ったかのように、空間の理を暴力的に歪めているのだ。
「……三木部長。……なんだと?」
トールの声は、怒鳴り声ではなかった。
感情の一切が剥落した、絶対零度よりもさらに冷たく、底なしに暗い、純粋な『虚無』の響き。
彼の左目の虹彩が、いつもの七色ではなく、漆黒と深紅が混じり合った禍々しい光を放ち始める。
異世界で、自らの部下を惨殺した魔王を単騎で蹂躙した時にしか見せなかった、最強の帰還者の「本気の激怒」。
「……俺の、メイン・ベンダーの『聖域』に。……彼女の家族という、何よりも尊い『インフラ』に、土足で踏み込んだというのか。……西の、レガシー企業が」
トールは、目の前で震え上がっている獅子王凱や帝都学院の生徒たちを、もはや路傍の石ころとすら認識していなかった。
全国大会の勝利。ギルド本部の失墜。黄金株の取得。
そんなものはどうでもいい。
彼にとって、有栖の日常という名の「聖域」を守ること以上の利益など、この世界には存在しないのだから。
トールはゆっくりと踵を返し、演習場の出口へと歩き出した。
「あ、阿部、煌。……この場(関東の残務処理)は、君たちに一任する」
その声に、阿部と神代煌は、恐怖で全身を震わせながらも、必死に頭を垂れた。
「……俺はこれより、現在の全プロジェクトを凍結する」
トールが一歩踏み出すごとに、東京ドームの強固な床のコンクリートが、彼の魔圧に耐えきれずに蜘蛛の巣状に砕け散っていく。
「関西の不良債権どもを、物理的にも、経済的にも……完全消去する」
血を流さぬ企業戦争は、終わった。
愛する少女の涙が、最強の帰還者の逆鱗に、修復不可能な着火を引き起こした。
西の覇者たちはまだ知らない。自分たちが「人質」という卑劣な手段で、どれほど恐ろしい『破滅の神』を自らの懐へと招き入れてしまったのかを。




