第032話:未完成の玉座と、共同経営者への『特別インセンティブ』
四月二十日、土曜日。二十時三十分。
契約締結から数時間。夜の帳が下りた『レギュレーター・タワー』の最上階。
十四階のペントハウスは、まだ床に養生シートが敷かれ、壁紙すら剥がされたままのコンクリートの空洞だった。窓ガラスだけが磨き上げられ、眼下には魔力の燐光に揺れる渋谷の夜景が、残酷なほど美しく広がっている。
通は、一脚だけ運び込まれた、まだ保護ビニールが被せられたままの革張りのチェアに深く腰掛け、モノクルを【オフ・モード】に切り替えた。
「……三木さん。段取りの確認は済んだか」
「ええ、ボス。……五月二十日の完成に向けた工程表の初期承認、完了したわ」
三木怜が、足元のホコリを気にすることなく、静かな足取りで通の傍らに立った。
彼女の左腕には、月光を反射して銀色に輝く『広報兵站部長』の腕章。その瞳は、主への揺るぎない信頼と、ある「決意」を秘めている。
「それで、……クランの『看板』についてお話があります」
「ほう、聞こうか」
「候補は一人。……神代 煌。一組(Aクラス)に所属する、学園でも一際『はで』な生徒よ」
三木がタブレットを操作し、一人の少女のプロファイルを投影した。
プラチナブロンドの長髪、サファイアの瞳。圧倒的な美貌。
「……どう活用するんだ?」
通の問いは短く、冷徹だった。
三十二歳の管理職精神を持つ彼にとって、美貌や華やかさは、それ単体では何の意味も持たない。重要なのは、その「アセット」が組織にどのような利益をもたらすかだ。
三木は不敵に微笑み、事前に用意していた『広報戦略書』の次ページを開いた。
「三つの活用案があるわ。第一に、『ヘッジ(目隠し)』としての役割よ。ボス、あなたの実力はあまりにも規格外すぎて、正体が露見すれば国家レベルの干渉を招く。……だから、あえて彼女という『極彩色の太陽』を最前線に立たせるの。世間の視線、メディアの関心……そのすべてを彼女に独占させ、あなたは『影のCEO』として、静寂の中で世界のデバッグに専念できるわ」
通は、モノクルのフレームを指先でなぞった。
(個体名:三木。……提案:極めて合理的です。神代煌の『注目を集めるほど出力が上がる』という固有スキルは、ヘイト(視線)管理において最高のリソースとなります)
「……悪くない。……第二案は?」
「『品質の差別化』よ」
三木の声が熱を帯びる。
「阿部くんたちの『沈黙の騎士団』は、規律と機能美の象びに。でも、クラン『レギュレーター』が真に市場を支配するには、大衆を熱狂させる『美しき暴力』が必要なの。神代さんが巨大な大鎌を振るい、極彩色の残光で魔物を塵に変える光景……。それは、ただの討伐じゃない。私たちのクランというブランドそのものの、圧倒的な『格』を世界に刻み込む宣伝工作になる」
三木は一度言葉を切り、通の横顔を真っ直ぐに見つめた。
「そして第三案は、『オーバーキル・マネジメント』による市場浄化よ。彼女の気性は、あなたに負けず劣らず冷酷。中途半端な妥協を許さず、敵対する個体を根源から焼き払う彼女の戦い方は、他校やギルドに対する、これ以上ない『警告』になるわ」
通は初めて椅子を回し、三木と正面から向き合った。
「……三木部長。……神代 煌という個体、維持コスト(マネジメント・コスト)は安くないはずだ。彼女のようなタイプは、プライドが高く、組織のレギュレーションを乱すバグ(不確定要素)になりかねない」
「わかっているわ、ボス。……アドバイザーとしての契約、あるいは子会社化。……でも、彼女は既に、あなたの『冷徹な管理の視線』に気づいている。彼女が求めているのは、自分を『女』として扱う甘い男じゃない。……自分を『最強の部品』として完璧に使いこなす、圧倒的な『王』よ」
三木がタブレットを閉じ、通のデスクに手を置いた。
「彼女をクラン『最高執行責任者代理(COO)』として迎え入れる。……これが、レギュレーターが学園を飛び出し、世界の時価総額を塗り替えるための、最短のロードマップ(工程表)よ。……承認、いただけますか?」
深夜のペントハウス。
通は目を閉じ、三十二歳の魂で、神代 煌というアセットをシミュレートした。
プラチナブロンドの死神が、己の支配下で美しく微笑み、世界を刈り取っていく光景。
(解析。……神代煌の採用。想定ROI(投資対効果):800%以上。……結論:この『契約』は、クランにとって極めて有益な先行投資となります)
「……よろしい。承認だ」
月曜日の朝までに『暫定雇用契約』を締結しろ。……スカウトは君に一任する」
「了解、ボス。……最高の『看板』を揃えてみせるわ」
三木は一度背を向け、だがすぐに足を止めて振り返った。
その声は、有能な部長のそれではなく、微かに震える熱を帯びた、十五歳の少女のものだった。
「……それでボス。おねだりがあります」
「なんだ」
「……私に報酬をください。……今、ここで」
三木はそう言って、ゆっくりと瞳を閉じた。
月光に照らされた彼女の横顔は、剥き出しのコンクリートが支配するこの殺風景な空間で、唯一完成された芸術品のように美しかった。
通は椅子から立ち上がり、三木へと歩み寄った。
(個体名:三木 怜。……貢献度:極めて高。……特別インセンティブの支給を承認します)
通は彼女の顎を静かに掬い上げると、その薄い唇に、羽が触れるような軽い口づけを落とした。
三木が目を見開く間もなく、彼はその唇を、抗いようのない熱量で深く、深く塞いだ。
三十二歳の精神が導く、支配的で情熱的な長いディープキス。
怜の思考は真っ白に塗りつぶされ、肺の空気が奪われ、視界の端でデジタルのグリッドが激しく明滅する。ホコリ臭い未完成の部屋が、彼に触れられている瞬間だけは、世界で最も高貴な聖域へと書き換えられていく。
通がゆっくりと唇を離すと、そこには彼自身の魔力の一端――あらゆる精神的干渉を無効化する守護の結界と、彼自身のモノクルへと繋がる『専属回線』が、魂の深層に直接刻み込まれていた。
「……これが君の『特別決算手当』だ。三木部長」
「……っ、ぁ…………」
三木は酸欠気味に肩を震わせ、力なく通の胸元に手を添えた。
「君は俺の単なる道具ではない。……一ヶ月後、このビルが完成する時。……俺はこのタワーと、世界の未来を分かち合う『共同経営者』として、君の隣に座る。……その特権(報酬)を、生涯かけて使い切ってみせろ」
通の声は、どこまでも冷たく、そして誰よりも真摯だった。
三木は、自分の唇に残る熱い感触と、彼に「一生分の雇用」を宣言された悦びに、顔を真っ赤に染めて後ずさった。
「……ずるいわ、ボス。……そんなの、一生あなたに縛り付けられるって、言ってるようなものじゃない……」
「……当然だ。有能なアセットは、終身雇用が基本だからな」
三木は逃げるように一礼すると、影の中に消えていった。
一人残された通は、再び窓の外の渋谷を見下ろした。
五月二十日までのリードタイム。
その間に、彼はこの街を、そして世界をさらに「買い叩く」ための準備を整える。
「……さて。……月曜の朝が、少しばかり賑やかになりそうだな」
通のモノクルが、夜空の月よりも冷たく、そして鋭く、不敵に輝いた。
第032話:完




