第019.5話:桃色の決意と、週末の予約(アジェンダ)
その日、私の世界は一度死んで、そして彼に拾われた。
四月初旬の代々木公園。噴水の水しぶきが赤く染まり、緑色の化け物が笑っていたあの地獄。腰を抜かし、ただ死を待つしかなかった私の前に、一人の背中が立っていた。
制服の袖を捲り、鉄パイプ一本で化け物の首を事務的に叩き潰していく後ろ姿。
左目から溢れる、恐ろしくも美しい七色の光。
「……静かにしろ。聞きたいことがある」
冷たくて、重くて、でもどこか懐かしくて、私の震える心臓をギュッと掴んで離さない声。
十五歳の少年のはずなのに、その瞳には数万の夜を越えてきたような深い孤独と、圧倒的な「大人の余裕」が宿っていた。
私を助けた後、彼は名乗りもせず、ただ夜の闇に溶けるように消えてしまった。
それが、私と『佐藤くん』の、本当の出会い。
「あ、の……佐藤、くん……?」
高校の入学式。教室の隅、一番後ろの席に座る彼を見つけた時、心臓が爆発するかと思った。
銀色のフレームのモノクル。窓から差し込む春の陽光。昨日までの「冴えない彼」の面影はどこにもなくて、彼はまるで異世界から迷い込んだ若き王様のように見えた。
正式に彼が転校してきたあの日から、私の日常は一変した。
でも、彼は私のことを覚えていないふりをした。
それどころか、クラスの女子たちが黄色い声を上げる中で、彼は一人だけ、透明な壁の向こう側にいるみたいに静かだった。
モノクルの奥で、彼はいつも誰にも見えない何かを計算している。
授業中も、休み時間も。
(……ねえ、佐藤くん。あなたの見ている世界に、私は一ミリでも映っているのかな?)
私は怖かった。彼がいつか、あの夜みたいに「亡霊」になって、どこか遠い場所へ行ってしまうことが。
だから私は、勇気を振り絞った。
彼が一番「人間」でいてくれる時間。それは、きっとご飯を食べている時だと思ったから。
「……これ、もしよかったら……食べて」
初めて屋上で二人きりになった日。私の作った卵焼きを一口食べて、彼は「美味しい」と言ってくれた。
たったそれだけの言葉で、私の視界は虹色に輝いた。
でも、彼は私を突き放した。
「俺は君たちの理解を超えた存在だ」
「ペットのように飼い慣らすには、君の力量は足りない」
モノクルの奥の瞳が、氷のように冷たく私を射抜く。
泣きそうだった。心臓が痛くて、震えが止まらなかった。
でも、私は知っている。あの夜、私の前に立ってくれた彼の背中が、どれほど温かくて、どれほど孤独だったかを。
「飼い慣らしたいなんて思ってない……!」
私は叫んでいた。
「あなたが怪物になっても、神様になっても……。あなたが『人間』として帰ってこれる場所を、守っていたいの!」
私の必死の言葉に、彼のモノクルが揺れた。
あんなに冷たかった彼の瞳に、初めて「迷い」のような色が浮かんで。
そして、彼は少しだけ困ったように、でも優しく私の頭をポンと叩いた。
「……降参だ。君には、勝てそうにないな」
その瞬間、私は彼にとっての『メイン・ベンダー』――彼だけの特別な居場所になる権利を手に入れた。
トールくんが言ったその不思議な言葉。
意味はよくわからないけど、「あなたが一番」って言ってくれたんだと信じてる。
そして、激動の金曜日。
お昼休み。クラスの女子たちが「コンペティション」なんて難しい言葉で、トールくんへのアプローチを強めていた。三木さんたちが持ってくるお洒落なカフェ弁当。私、負けたくなくて、今朝は四時に起きてローストビーフを仕込んだ。
「……神崎さん。これはもはや『提供』ではなく『共創』だ」
トールくんのその言葉を聞いた時、私は嬉しくて、床にしゃがみ込んで泣いてしまった。
私の作ったご飯が、彼の「魂」の市場で独占契約を勝ち取ったんだ。
でも、午後の放課後。
トールくんが氷室先輩に呼び出されたと聞いた時、私はまた不安になった。
生徒会室へ連行される彼の後ろを、私は必死についていった。
そこで見たのは、大人たちを言葉だけでねじ伏せる、圧倒的な「経営者」としてのトールくんの姿。
私を守るために、ギルドの人たちを睨みつける彼の横顔に、私はまた何度目かの恋をした。
「……佐藤くん」
放課後、生徒会室からの帰り道。夕暮れに染まる廊下。
トールくんは、私の不安を消し去るように、そっと手を握ってくれた。
「……怖がらせて悪かったな、有栖」
「……トールくん」
その大きな手に包まれていると、彼が誰も寄せ付けないほどに強くて、底知れない力を持った人なんだってこと、忘れてしまいそうになる。
私は、ギュッと彼の制服の袖を掴み直した。
今、言わなきゃ。
来週からは「合同演習」が始まって、彼はもっと忙しくなって、もっと遠くへ行ってしまうかもしれないから。
「あのね、トールくん。……明日の土曜日……ううん、日曜日でもいいんだけど」
私の声が、緊張で震える。
夕陽がモノクルの銀縁に反射して、彼の表情は見えない。
「……今度の土日。……私に、渋谷の街を案内してほしいな。……二人きりで」
心臓が喉から飛び出しそうだった。
これは、メイン・ベンダーとしての『定例会議』じゃない。
私という女の子から、佐藤通という男の子への、精一杯の「お願い」。
トールくんは、立ち止まった。
長い沈黙。
(……やっぱり、無理かな。忙しいよね。特Aの魔物とか、お父さんのお仕事とか……)
不安で押しつぶされそうになったその時。
「……渋谷の街か。……あいにく、俺は数日前に『入社』したばかりの新人でね。案内どころか、こっちが教わりたいくらいだが」
トールくんが、モノクルを外した。
七色の虹彩が、夕暮れの赤色と混ざり合って、見たこともないほど優しく光る。
「……いいだろう。アジェンダに追加しておこう。……ただし、俺の『休日出勤』は高くつくぞ。……お昼は、君の『スペシャル・メニュー』を期待してもいいかな?」
「……っ! うん! もちろん! デザートも、おやつも、トールくんがびっくりするくらい美味しいもの、たくさん持っていくね!」
私は、嬉しくて、その場でぴょんぴょんと跳ねてしまった。
「やったぁ!」という叫び声が、誰もいない廊下に響く。
トールくんは、そんな私を見て、呆れたように、でも愛おしそうにクスクスと笑った。
「……やれやれ。……特Aランクの討伐より、君との『デート』という名のミッションの方が、よっぽど予測不能になりそうだ」
「もう! バグなんて言わないでよ! ……大好き、トールくん!」
私は彼の腕に、思いっきりしがみついた。
夕闇が迫る渋谷の街。
どこかで魔物が鳴き、誰かが世界のために戦っている。
でも、今の私にとっては。
この温かな制服の感触と、週末の約束。
それだけが、世界で一番大切で、一番ファンタスティックな『真実』だった。
【現在の有栖視点:佐藤通との初デート(週末)の確約をゲット。メインベンダーとしての地位を盤石に。……今夜は眠れそうにない】




