03 先代の王妃
夜に、争い。
王城の寝室に相応しい重厚さと豪華さを兼ね備えたそこで抗うのは伝説の娘で、取るに足らない抵抗を封じるのは国王。
「私に触れないで下さい」
「聞けぬな。お前は私の妃となるのだ」
「嫌です、私はあの方を待っていたいだけなのです」
もう幾度となく繰り返された会話に、国王が乾いた笑いをもらす。
寝台に押さえ込まれ黒髪を寝具の上に散らす娘は、怯えと嫌悪を隠せない。
諦めろ、と国王はことさらゆっくりと言葉を紡いだ。子供に言い聞かせるように、逃げ道を塞ぐように。
「お前は私の子を身ごもったそうだな」
「いいえっ、違います。そんなはずはありません」
勢い込んで否定しても、国王の満足げな笑いの前に上滑りする。
娘の顔が絶望に染まる。今、召喚があれば確実にこの世界から消えることができるのに。抗う力も国王に押し切られついに手首が寝台に縫いとめられる。
「お前は私のものだ。私の妃だ」
息苦しいほどに抱きしめられ、首筋に熱い息とともに落とされる唇に娘は身を強張らせた。ゆっくりと寝衣の上から腹部を撫でさすられて。
「安心しろ。子がいるのに無理強いはせぬ。ただ急ぎ婚儀となるゆえ忙しくなろう」
きつく閉じた目尻から涙が流れた。
召喚されてから二年近く経過して、ようやく国王と伝説の娘の婚儀が挙げられた。
『この戦から帰れば』
そう言って戦地に赴いた婚約者の行方が分からなくなって、時間だけがいたずらに過ぎた。戦友や同じ部隊の人を必死で探し当てて話を聞いても、杳として婚約者の行方は知れない。
喪服を着ることもできず、さりとて思い切って新しい人を見つけることもできず。どこかで無事でいてくれることを祈って教会に通いつめた。
その日もひざまずいて祈りをささげていた。父から最後通牒をつきつけられた朝食の席のことは、脳裏から振り払えない。
「いい加減に諦めろ。婚約話は白紙に戻す」
いいえ。諦められない。諦められるはずもない。恋をして想いも通じ親にも認められて、式の準備だって進んでいたのだ。
皆はもう死んでいるのだろうと言うけれど、そんなはずはない。
――なら何故現れない?
きっと帰れない事情があるに違いない。
――連絡くらいはよこせるだろう?
約束してくださったもの、必ず戻ってくると。
――これだけ待っても来ないのに?
祈りの裏で猜疑心が膨らんでくる。そんなはずはないと何度打ち消しても、ぼこりぼこりと心の奥底から暗い疑念がわきあがる。あの人が自分を残していなくなるはずはない。きつく目を閉じてそう言い聞かせても、背後から肩を抱くもう一人の自分があざ笑う。
――現実を見ろ。お前は捨てられたんだ。
否定しようとして、完全にはできず猜疑が絶望に裏打ちされた。
瞬間、祈りの姿勢のままで別の世界に召喚されてしまった。国王の伴侶として。
向こうから異様な熱を帯びた眼差しで見つめてくる二人の男性がいた。
一人は全身を丈の長い服で覆い、聖職者めいた格好をしている。感激しているのだろう、ああ神よと呟いている。
もう一人は、大柄で仕立てのよい服を着ている。全身を貫きそうな視線に困惑とかすかな恐怖を感じてしまう。
「私の……妃。今ほど神に感謝したことはない。よもやこれほどとは」
ぎらついた目と興奮を抑えた口調の中に穏やかでないものを感じる。
ゆっくりと立ち上がった娘は、近づいてくるこの男性から距離をとるように後ずさる。構わずに距離をつめた男性に腕をつかまれ、痛みで顔をしかめた娘に配慮してか男性を聖職者らしき人物がいさめた。
「陛下。この方は事情も分からずに混乱しておいでです。まずは先例にのっとり、神殿が御身をお預かりいたします」
「すぐに王城に連れていきたいのだが」
会話の最中も視線をはずさずにいる男性に、すくんでいた娘は陛下とのよびかけに目を見開いた。それは国王の呼称。この男性は国王で、それが自分を妃と呼んだ。
悪い冗談だと感じた。いきなり変なところに来てしまったのだから、もしかしたらこれは夢かもしれない。
「私は家に戻ります。道を教えてはもらえないでしょうか」
「家には戻れぬ。ここはお前のいた世界ですらない。お前は私のためにここに来たのだ」
周囲の人に目をやると皆、真面目な顔をしている。悪戯や冗談の気配はみじんも感じられない。
「そんな、話を信じろと?」
「信じようが信じまいが、これは現実でお前はここに居場所が定まったのだ」
神官長と名乗る男性に部屋へと連れて行かれ、話を聞かされて、伝説の娘は本当の絶望を知った。
召喚した神官長と神殿、そして国王を厭った。
飢えた国王にしてはよく耐えて待ったのは間違いない。少なくとも最初のうちは娘の落ち着くのを待って、自分の想いを伝え切にと望んだ。ただいつまで経っても色よい返事はもらえずに、段々と焦らされることへの苛立ちも感じ始めていた。
神殿への不信感から比較的早くにそこは出ていたものの、望みはどこか静かな場所でひっそりと婚約者を想っていたいの一点張りで、王城でも人のこない端の方に入りたいと、国王の側の部屋には難色を示した。
母の時とは違う展開に国王は焦る。こちらに来た経緯が違うといえばそれまでだが、一目で心奪われ自分の伴侶と思えば笑いたくなるほどに愉快ですぐにでも腕にしたいと望んだのに、かなわない。
「ここに来る人は皆、辛い思いをしているの。だからゆっくりと、気持ちがほぐれるのを待ちなさい」
母親の助言も参考にはした。塞ぎがちな気分を引き立てるようにと、美しい色合いの宝石や服を花を贈った。道化者の手配もした。顔を合わせる機会は少ないのであいた時間に簡単に手紙も書いて渡した。
――それでも結果ははかばかしくない。
ようやくある程度まとまった時間をつくり、午後のお茶を共にすべく国王は娘にあてがった部屋へと急いだ。扉の脇の近衛が多いことをいぶかしみながら部屋に入ると、応接の間には弟がいて娘と一緒にお茶を飲んでいた。
血が沸騰するような錯覚に陥る。
国王の訪室に、二人は立ち上がり上席を譲る。そこに座り自分に用意されるお茶を待ちながら、穏やかとはとてもいえない思いで国王は二人の様子をうかがった。寡黙な弟と、いつまで経っても自分に笑顔を見せない伝説の娘。
「いつの間に親交を深めたのだ?」
詰問にならぬように、それでも弟には意図が伝わるようにとお茶を飲みながら尋ねる。ある時期を境に寡黙になった弟は、青い瞳をまたたかせた。
「無聊をお慰めするために手に入れた本をお持ちしたのです。別の世界を行き来できる物語です」
「下らぬな」
里心をあおるような真似にかっとなり、一言のもとに切って捨てる。召喚は神殿の秘術とされその原理は門外不出だ。その神殿ですら伝説の娘しか召喚できない。別の世界に人を送ったり、ましてや行き来など夢物語もいいところだと呆れる。
いや、呆れながらも恐れているのを国王は自覚した。
もしそんなことが可能になったら? 娘が自分の前から去ってしまう。
赦せるか?
「少し二人で話したい。――外せ」
有無を言わさない国王の命令に、王弟や侍従、侍女、近衛も部屋から退く。目の前には一人取り残されて不安な面持ちの娘だけ。繊細なつくりの面が、長い睫毛を伏せ気味にして陰影をつけている。
歴代の国王しか手にできない奇跡の黒を持つ娘は、無言で近づいた国王の気配に顔を上げ、吸い込まれそうな黒い瞳で見上げている。
「お話とはなんでしょう」
腕をつかんで立たせると国王は無表情のまま引きずるように娘を連れ、大股に部屋を横切った。扉をいくつか開け、最後に寝室に到着する。
色をなくした娘が抵抗するのを構わずに、寝台へといささか乱暴に押し倒して国王は娘にのしかかる。
「なに――を、陛下……」
「どれほど待ったと思っている。もう――待たない」
「い、やです。陛下、やめて――いやあっっ」
誰も踏み込めず、朝まで国王は現れなかった。
すぐに部屋が国王近くに与えられ、日毎夜毎に国王が通う。娘の憔悴ぶりはひとかたならず、涙が乾くことが無いのではと噂される始末だった。
誰の忠告も諫言も聞き入れず、執務だけは文句のつけようのない仕上げを見せるために反対のしようがない。元々国王の伴侶として召喚されたのだし――徐々にそんな諦めを含んだ空気に変わりつつあった。
婚儀はおろか、婚約を承知した覚えもないのにこのような立場に置かれた娘は、じりじりと包囲が狭まり絡め取られていくことを肌で感じながらどうしようもなかった。
厳しい監視がついていて一人になる隙がない。婚約者を想っていたくても身は汚されて、体に付けられる痕が消えることは無い。貪られると形容するに相応しい、国王の執着だった。
そして、ついに恐れていたことが起こる。婚儀を了承するより他に、娘に選択肢はなかった。
婚儀の日、満面の笑みの国王と決して離さないとばかりに抱き寄せられた王妃の姿は、事情を知らない者にはほほえましく、知る者にはいたましいものとして映った。王妃はほどなく憂い顔が庇護欲をそそると皮肉な評価を得る。またその寵愛ぶりもだ。
無事に世継ぎをあげた王妃の立場は磐石になった。
心身をすり減らした出産の後、側に寝かされた小さな赤ん坊を王妃は眺めた。小さな小さな手を握り締め、顔中をくしゃくしゃに歪めて大声で泣いている。その声に誘われるように寝台の上に起き上がり、赤ん坊を胸に抱いてみる。
目の色も髪の色も自分のものは継いでいない。それでも自分の子。全力で庇護を求める小さな命。
王妃の胸に、こちらに来て以来初めてと言ってもいい温かい思いが生まれた。
このまま赤ん坊――王子が王妃の近くにいれば、あるいは王妃は穏やかに過ごせたかもしれない。
見舞いに来た国王は、王妃の胸に抱かれている息子を冷ややかに見下ろした。
「ご苦労だった。お前が何日も苦しんだかと思うと生きた心地がしなかった」
王妃を抱きこんで頭に口付けを落とす。間近で息子を観察し、傍らに控えた侍従に合図をした。
「子供は独立して育てさせる。そのための乳母も教育係も手配済みだ」
「生まれたばかりですので、もうしばらくは私の側で」
「ならぬ」
王族の習いだと子供は王妃から引き離された。手から去っていった温もりに代わって、国王の熱が王妃を焦がす。
「お前は私のものだ。やっと私のところに戻ってきた」
息が苦しくなるほどの口付けを受けながら、王妃は絶望の波がくるぶしを洗うのを感じた。国王の愛が怖かった。
あまりの負担にこいねがい、側室を迎えてもらったほどに国王は王妃に溺れた。
傍目には熱愛と言われるが、王妃には偏愛でしかない。実の息子でも王妃の関心を奪うものは赦さないとばかりに、国王は王妃の目が他にいくのを嫌がった。
しぶしぶと側室のところに渡っても、行為が済めば王妃のところに戻ってくる。そんな夜はさすがに何もしないが、腕に王妃を抱きこんで眠る。
「お母様」
子供達が久しぶりに会えた母親に喜んで、小さな手を伸ばして抱きついてくる。両手を広げて二人同時に抱きしめて、高い体温と柔らかな感触に目を閉じた。
愛しくて、厭わしい子供達。希望であり枷になる子供達。
あの日婚約者の不在に絶望を感じさえしなければ、得ることはなかった子供達に王妃は複雑な思いを抱く。
「お父様は地方にお出かけなの。お母様と一緒に寝ましょうね」
「はい。ご本も読んでくれますか?」
「お歌を歌って」
喜びに頬を赤くする子供達の頭をなでて、王妃は微笑む。こうして国王の目を盗むように子供達と触れ合って、幸福にはなるが同時に子供達に関われない不甲斐なさも感じる。
相反する感情は時にどうしようもなく王妃を苛んでしまう。その様子を見かねて義母である先代王妃の口ぞえで、造営された森の離宮に渡るようになった。
国王は立ち入らせない。それだけを唯一の条件に、数日間離宮にこもる。
故郷の意匠で整えた寝室で、体に巻きつけられる腕もなく一人きりで眠る。
「私が入れないのだから、息子達も入れるな」
国王の大人気ない言葉もそれが命令なら逆らえない。とにかく森の離宮での数日間で自分を取り戻し、王城へ戻る。悟られないように子供達の様子を聞きだしては、成長ぶりを想像する。
子供達が自分を求めていても応えられない。
召喚とは何なのだろう。決して自分には幸福なものではなかった。
死の床にあっても気は晴れない。この身は異なる世界で朽ち果てて土に帰る。
「私を残して逝くなど赦さない。お前は私のものだ」
痛いほどに手を握り、狂おしくこちらに引きとめようとする国王。
最期になってようやく、この迷惑な愛も受け入れられるような気がする。愛せなかったのが申し訳ないとさえ思えてくる。
もし、死後の世界があってそこで再び出会えるようなら、わだかまりを捨てて分かり合えるだろうか。それともこちらの意思などお構いなしに、再び想いを押し付けられるのだろうか。
「愛しているんだ、頼む、逝かないでくれ」
ここまで想われれば幸せなのかもしれない。
でももう伝えるすべがない。
深く吐息を漏らして王妃は目を閉じた。閉じたその目は二度と開かれなかった。