7.
午後の柔らかな陽射しが庭を照らしていた。
侯爵家の温室では、色とりどりの花に囲まれながら、オリビアは母と向かい合って座っていた。
紅茶の香りが漂う。
「最近、元気がないわね」
不意にそう言われ、オリビアは顔を上げた。
「そんなことは……」
「あるわ」
母は優しく微笑む。
「母親ですもの」
その言葉に、オリビアは何も返せなくなった。
最近の自分はおかしい。
婚約の話を聞いてから、ずっと心が落ち着かない。
理由も分かっている。
認めたくなかっただけだ。
「婚約のお話が進んでるでしょう?」
母はそっと尋ねる。
「ええ」
「なのに、嬉しそうではないのね」
胸が痛んだ。
図星だった。
オリビアは俯く。
膝の上で手を握り締めた。
「私は……」
声が震える。
「どうしたらいいのか分からないんです」
母は何も言わない。
ただ静かに待ってくれている。
だから、今まで胸の奥に押し込めていた言葉が溢れた。
「婚約するものだと思っていました」
幼い頃からそうだった。
王子と婚約する。
それが自分の役目。
疑問を抱いたことはなかった。
「でも……」
言葉が詰まる。
視界が滲んだ。
「婚約してしまったら」
一粒の涙が零れる。
「きっと後悔する気がするんです」
母は驚かなかった。
責めもしなかった。
ただ席を立ち、オリビアの隣へ移動する。
そしてそっと肩を抱いた。
「好きな人がいるのね」
その言葉に、オリビアは目を閉じた。
否定できなかった。
頭に浮かぶのは一人だけだったから。
「……はい」
小さな声だった。
母は優しく髪を撫でる。
「オリビア」
「はい」
「婚約は断ってもいいのよ」
オリビアは息を呑んだ。
その言葉は、今まで考えたこともなかった。
「でも」
「あなたの人生だもの」
母は微笑む。
「誰かに決められるものではないわ」
胸の奥で何かがほどけていく。
気付けば涙が止まらなかった。
◇◇◇
翌日。
オリビアは学園の中庭へ向かっていた。
手が冷たい。
心臓もうるさいほど鳴っている。
それでも足は止めなかった。
リチャードは東屋にいた。
書類を読んでいたが、オリビアを見ると表情を和らげる。
「オリビアか」
その笑顔は以前よりずっと優しい。
だが今のオリビアの心は動かなかった。
「お話があります」
真剣な声音に、リチャードは本を閉じた。
「何だ?」
オリビアは息を吸う。
そして真っ直ぐに彼を見る。
「婚約のお話ですが」
「ああ」
リチャードは当然のように頷く。
「年内には正式なものになるだろう」
その口調には迷いがなかった。
まるで決まった未来を話しているようだった。
オリビアは唇を結ぶ。
そして。
「お受けできません」
静寂が落ちた。
風の音だけが聞こえる。
リチャードは瞬きをした。
一度。
二度。
まるで意味が分からないというように。
「……何だと?」
「婚約はお受けできません」
オリビアはもう一度言う。
今度ははっきりと。
リチャードの顔から笑みが消えた。
「なぜだ」
理解できない。
そんな表情だった。
(私は前とは違うはずだ。以前より気を遣っているし、お前を大切にしている)
リチャードは本気でそう思っていた。
だからこそ分からない。
「何が不満なんだ」
オリビアは悲しそうに目を伏せる。
やはり、リチャードは最後まで気付いていない。
自分が何を望み、何を考えているのか。
一度も聞こうとはしなかったことに。
オリビアはゆっくりと顔を上げた。
「殿下」
その瞳は静かだった。
「私は、殿下に選ばれたいのではありません」
リチャードは言葉を失う。
オリビアは続けた。
「私自身の意思で、未来を選びたいのです」
その言葉に、リチャードは初めて、自分の知らない何かが動いていることを感じていた。
◇◇◇
訓練場には木剣の打ち合う音が響いていた。
エリックは一人で剣を振っていたが、不意に足を止める。
見慣れた姿が視界に入ったからだ。
リチャードだった。
だが様子がおかしい。
いつもなら真っ直ぐ歩いてくるはずなのに、今日は苛立ちを隠そうともしていない。
「殿下」
エリックは木剣を下ろして頭を下げた。
リチャードは短く頷く。
「手合わせを頼めますか」
「いや、今日はいい」
即答だった。
エリックは眉をひそめる。
よほど機嫌が悪いらしい。
「何かあったのですか」
少しの沈黙。
そしてリチャードは吐き捨てるように言った。
「オリビアが婚約を断った」
エリックは目を見開いた。
「……そうですか」
驚きはした。
だが表情には出さない。
リチャードは苛立ったように髪をかき上げる。
「理解できない」
その声には本気の困惑が滲んでいた。
「私は以前とは違う」
まるで自分に言い聞かせるようだった。
「気を遣った。贈り物もした。時間も作った」
エリックは黙って聞いている。
「それなのに、なぜだ」
リチャードは拳を握り締めた。
「何が不満なんだ」
その言葉に、エリックは小さく目を伏せる。
リチャードは続けた。
「オリビアは優秀だ。外交も得意だ。書類仕事も正確だ。周囲との調整もできる」
聞けば聞くほど胸が重くなる。
リチャードは気付いていない。
自分が何を口にしているのか。
「前の人生で思い知った」
低い声だった。
「あいつがいなくなって全て狂った」
エリックは静かに目を閉じる。
「貴族たちとの関係も仕事も何もかもだ」
そして。
「あいつがいないと困る」
その一言を聞いた瞬間、エリックは理解した。
やはり何も変わっていない。
優しくなった。
態度も変わった。
だが根本は同じだった。
オリビアを一人の女性として見ていない。
自分に必要な存在としてしか見ていない。
前の人生と同じように。
「殿下」
エリックは静かに口を開く。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「殿下はなぜ、やり直したかったのですか」
リチャードは怪訝そうな顔をした。
「決まっている」
答えは迷いなく返ってくる。
「失敗したからだ」
エリックは何も言わない。
「やり直せば失わずに済んだ。私はそう思った」
リチャードの言葉を聞きながら、エリックは遠い日のことを思い出していた。
処刑台。
最後まで気高く立っていたオリビア。
何もできなかった自分。
そして……あの日抱いた願い。
エリックはゆっくりと顔を上げた。
「私は違います」
リチャードが眉をひそめる。
「何がだ」
「やり直したい理由です」
風が吹く。
訓練場の旗が揺れた。
エリックは静かに続ける。
「私はただ」
一度言葉を切る。
「オリビア様に生きていてほしかった」
リチャードが目を見開く。
その反応を見ても、エリックの表情は変わらない。
「幸せになってほしかった」
それだけだった。
今も前の人生も変わらず。
リチャードはしばらく何も言わなかった。
まるで理解できないものを見るような目だった。
エリックはそんな彼を見つめながら思う。
オリビアが婚約を断った理由。
その答えは、もう目の前にあるのかもしれないと。




