8.
訓練場には風の音だけが響いていた。
リチャードは黙ったままエリックを見つめている。
『オリビア様に生きていてほしかった』
その言葉の意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかったのかもしれない。
「何を言っている」
ようやく絞り出した声は低かった。
エリックは静かに目を伏せる。
「殿下にお話ししておくべきかもしれません」
「何をだ」
少しの沈黙。
そして——
「時間を戻したのは私です」
リチャードの表情が凍り付いた。
◇◇◇
処刑の日のことを、エリックは今でも忘れられない。
曇り空だった。
広場には大勢の人が集まっていた。
その中心に立っていたのはオリビアだった。
痩せていた。
けれど最後まで背筋は伸びていた。
泣き叫ぶこともない。
許しを乞うこともない。
ただ静かに前を見つめていた。
エリックは群衆の中からその姿を見ていた。
助けられなかった。
何もできなかった。
剣を握ることしかできない自分には、彼女を救う力がなかった。
そして、処刑は執行された。
それからの日々は酷いものだった。
王宮は混乱した。
事業の失敗。
貴族たちの反発。
責任の追及。
少しずつリチャードの立場も悪くなっていく。
だが、エリックの心に残っていたのは別のことだった。
オリビアがいない。
それだけだった。
図書室で本を読んでいた姿も。
努力を重ねる姿も。
もうどこにもない。
気付いた時には遅かった。
好きだったのだと。
もっと早く気付いていれば、何かできたのだろうか。
答えは出なかった。
ある日。
王宮の古い資料庫を調べていた時だった。
一冊の古びた本が目に留まった。
革表紙は擦り切れ、題名も読めない。
何気なく開いたページに、奇妙な記述があった。
時を遡る術。
強い願いを代償に時間を巻き戻す禁術。
伝承だと思った。
馬鹿げた話だと笑うこともできた。
だが、その日、エリックは本を閉じることができなかった。
何度も読み返した。
夜が明けても。
何日経っても。
諦めることができなかった。
願いは一つだったから。
オリビアに生きていてほしい。
幸せになってほしい。
ただ、それだけ。
自分と結ばれなくてもいい。
自分を好きになってくれなくてもいい。
それでも……あの日の結末だけは変えたかった。
だから、エリックは禁術を使った。
◇◇◇
「……そして気付けば、私は十六歳に戻っていました」
静かな声が訓練場に響く。
リチャードは言葉を失っていた。
「馬鹿な」
ようやく出た声はかすれていた。
「そんなことが……」
「信じられないのも当然です」
エリックは頷く。
「ですが事実です」
リチャードは拳を握り締めた。
頭の中が混乱している。
ずっと自分が戻したのだと思っていた。
自分にだけ与えられたやり直しだと、そう信じていた。
だが違った。
エリックは静かに続ける。
「殿下は失敗をやり直したかった」
リチャードは反論できない。
「私は違います」
エリックは真っ直ぐに彼を見る。
「オリビア様に生きていてほしかった」
風が吹く。
訓練場の旗が大きく揺れた。
「幸せになってほしかった」
その言葉に嘘はなかった。
リチャードは何も言えない。
自分はどうだっただろう。
失敗をやり直したかった。
失脚したくなかった。
オリビアを失いたくなかった。
だが……それは本当にオリビアのためだったのだろうか。
初めてその問いが胸に刺さる。
エリックは木剣を拾い上げた。
「殿下」
そして静かに言う。
「オリビア様が婚約を断った理由を、もう一度考えてみてください」
それだけを残し、歩き出す。
リチャードはその場から動けなかった。
ただ風だけが、静かに吹き抜けていった。
◇◇◇
婚約の話が白紙になったのは、その数日後だった。
父は最後まで驚いていたが、反対はしなかった。
母もまた、オリビアの決断を尊重してくれた。
王家との婚約を断るなど、本来ならあり得ないことだ。
それでも、オリビアは自分で選びたかった。
後悔しない未来を。
ある日の放課後。
オリビアは小さな包みを胸に抱えていた。
焼き菓子だった。
以前のお礼ではない。
何となく持ってきてしまっただけだ。
自分でも理由はうまく説明できない。
ただ、エリックに会いたかった。
訓練場へ向かう。
だが姿はない。
中庭も見た。
校舎の廊下も探した。
それでも見つからない。
「どちらへ行かれたのでしょう……」
気付けば最後に足は図書室へ向いていた。
扉を開く。
見慣れた本棚。
静かな空間。
そして。
「オリビア様」
聞き慣れた声がした。
オリビアは顔を上げる。
「エリック様」
思わず声が弾んだ。
エリックも少し驚いたようだった。
「どうしてこちらに?」
オリビアが尋ねる。
するとエリックは少しだけ困ったように笑った。
「オリビア様を探しておりました」
「え……?」
今度はオリビアが目を丸くする番だった。
「私を?」
「はい」
短い返事。
その言葉だけで胸が熱くなる。
しばらく二人とも黙ってしまった。
先に口を開いたのはオリビアだった。
「あの」
抱えていた包みを差し出す。
「よろしければ」
エリックは受け取る。
「ありがとうございます」
優しい声だった。
それだけで嬉しいと思ってしまう。
オリビアは小さく息を吸った。
今なら言える気がした。
「私、お礼を言いたかったんです」
「お礼ですか」
「はい」
オリビアは頷く。
「いつも見ていてくださったこと」
エリックは何も言わない。
「努力を認めてくださったこと」
胸の奥が少し熱くなる。
「無理をしないでと言ってくださったこと」
どれも忘れられない。
他の誰も言ってくれなかった言葉だから。
「エリック様のおかげで、自分のことを考えることができました」
エリックの瞳がわずかに揺れる。
オリビアは真っ直ぐに彼を見た。
「婚約はお断りしました」
静かな図書室に声が響く。
エリックはどこか苦しそうな表情だった。
「それで良かったのですか」
「はい」
オリビアは迷わず答える。
「自分で決めましたから」
不思議なほど晴れやかな気持ちだった。
以前なら怖かっただろう。
けれど今は違う。
自分で選んだ。
その事実が背中を押してくれていた。
「それに」
少しだけ頬が熱くなる。
「気付いたんです」
何に。
そう聞かれなくても分かっていた。
エリックは息を詰めたように黙っている。
オリビアは恥ずかしくなりながらも微笑んだ。
「もっとエリック様とお話ししたいと思っていることに」
その笑顔は柔らかかった。
肩の力が抜けたような。
心から安心したような。
そんな笑顔だった。
エリックはしばらく言葉を失う。
目の前の少女から目を離せなかった。
前の人生では見ることのできなかった笑顔。
守れなかった笑顔。
だから、胸の奥から自然と思いが溢れる。
(守りたい)
この笑顔を。
これから先もずっと。
◇◇◇
暖かい日差しが街を照らしていた。
王都は今日も賑やかだった。
「こちらのお店も気になります」
オリビアが足を止める。
視線の先には小さな本屋があった。
エリックは思わず笑う。
「先ほども本を買われていましたよね」
「それとこれとは別です」
真面目な顔で返され、今度は声を出して笑ってしまった。
オリビアは少し頬を膨らませる。
「笑わないでください」
「申し訳ありません」
そう言いながらも笑いは止まらない。
以前なら見られなかった表情だった。
オリビアもつられるように笑う。
二人は焼き菓子を買い、雑貨屋を覗き、本屋で時間を忘れた。
何気ない穏やかな時間だった。
帰り道。
二人は大きな広場へ出た。
中央には噴水。
子供たちが走り回り、商人たちが声を張り上げている。
「賑やかですね」
オリビアはそう言って微笑んだ。
エリックは足を止める。
この場所を知っている。
忘れられるはずがなかった。
前の人生。
ここには処刑台が置かれていた。
空は曇っていた。
人々のざわめき。
重い空気。
そして、最後まで気高く立っていたオリビア。
あの日の光景は今も鮮明に思い出せる。
けれど、目の前にいるオリビアは違った。
「エリック様?」
不思議そうに見上げてくる。
頬を撫でる風。
柔らかな笑顔。
生きている。
ここにいる。
それだけで胸がいっぱいになった。
「どうかされましたか?」
オリビアが首を傾げる。
エリックはゆっくりと首を振った。
「いいえ」
そして穏やかに微笑む。
「ただ」
「ただ?」
「今日は良い日だと思いまして」
オリビアは少し不思議そうにした後、小さく笑った。
「そうですね」
その笑顔を見て、エリックは静かに目を細める。
(良かった)
本当に。
心からそう思った。
◇◇◇
数日後。
学園の中庭を歩いていたリチャードは、ふと足を止めた。
木陰に見慣れた姿がある。
オリビアだった。
その隣にはエリックがいる。
二人は何かを話していた。
楽しそうに穏やかに、オリビアが笑う。
その笑顔を見た瞬間、リチャードは目を細めた。
前世でも今回でも、自分はあんな顔を見たことがあっただろうか。
思い出そうとしても浮かばない。
エリックが何かを言う。
オリビアがまた笑う。
ただそれだけの光景だった。
なのに、なぜだか目を離せなかった。
前世を思い出す。
事業が失敗した日。
責任を押し付けた日。
処刑の日。
そして失ってから気付いた。
オリビアがどれほど有能だったのか。
どれほど自分を支えていたのか。
だから今度こそと思った。
前より優しくした。
贈り物もした。
時間も作った。
婚約も早めようとした。
それで十分だと思っていた。
いや、それでうまくいくと思っていた。
けれど違った。
自分は最後まで聞かなかった。
オリビアが何を望んでいるのか。
誰といたいのか。
一度も本当の意味では聞こうとしなかった。
リチャードは静かに視線を落とす。
そして再び二人を見た。
オリビアは笑っていた。
幸せそうに。
それは自分には向けられなかった笑顔だ。
胸の奥が少し痛む。
だが、不思議と目を逸らしたいとは思わなかった。
あの笑顔こそが答えなのだろう。
爽やかな風が吹く。
木々が揺れ、遠くでオリビアの笑い声が聞こえた。
リチャードは小さく息を吐く。
人の心は思い通りにならない。
彼はようやく、それを知ったのだった。




