6.
放課後の訓練場。
手合わせを終えた生徒たちが次々と引き上げていく中、リチャードは機嫌よく木剣を肩に担いだ。
「最近は調子が良さそうですね」
エリックがそう言うと、リチャードは満足そうに笑う。
「ああ」
隠す様子もない。
「順調だからな」
その言葉に、エリックは小さく首を傾げた。
「何か良いことでもあったのですか」
「そうだな」
リチャードは迷うことなく答える。
「年内にも婚約を正式なものにする話を進めている」
エリックの動きが止まった。
一瞬だった。
だが確かに、胸の奥が強く締め付けられる。
「……そうですか」
何とか声を絞り出す。
「おめでとうございます」
リチャードは満足そうに頷いた。
「オリビアも反対はしないだろう」
当然のような口調だった。
「元々その予定だったからな」
エリックは何も言わない。
言えるはずもなかった。
前の人生でも二人は婚約した。
それが自然な流れだった。
だから今回もそうなる。
本来なら、喜ぶべきことなのだろう。
「殿下とオリビア様なら、お似合いです」
自分でも驚くほど平静な声だった。
リチャードは気分良さそうに笑う。
「そうだろう」
その様子を見ながら、エリックは視線を落とした。
胸の奥が鈍く痛む。
けれど、それを表に出すことはなかった。
その日から、エリックは少しだけ距離を取るようになった。
廊下で会えば挨拶はする。
だが以前のように立ち止まらない。
本の話もしない。
図書室で見かけても声をかけない。
ただ、それだけ。
それだけのはずだった。
「あれ……?」
オリビアは廊下を歩きながら小さく首を傾げた。
向こうからエリックが歩いてくる。
いつものように会釈をする。
「こんにちは」
「こんにちは」
エリックも返してくれる。
けれど、そのまま通り過ぎてしまった。
以前ならもう少しだけ話していた。
本の話をしたこともある。
栞の話をしたこともある。
ほんの少しだけだったけれど、それがなくなっていた。
(お忙しいのでしょうか)
そう思う。
そう思うのだが。
胸の奥が少しだけ重かった。
翌日も、その次の日も。
エリックは変わらない。
優しい。
けれど近付いてはこない。
オリビアは本を抱えながら窓の外を見る。
理由は分からない。
だが、以前のように話せなくなったことが、思った以上に寂しかった。
その感情に名前を付けることは、まだできなかったけれど。
◇◇◇
図書室の窓の外は、すっかり日が落ちていた。
オリビアは本を閉じる。
気付けば今日も遅くなっていた。
最近はなかなか集中できない。
机に向かっていても、ふと婚約の話を思い出してしまう。
年内にも正式な婚約。
以前の自分なら迷うことなどなかったはずなのに。
「……帰りましょう」
小さく呟き、立ち上がる。
その時だった。
「オリビア様」
聞き慣れた声がする。
振り返ると、そこにはエリックが立っていた。
オリビアは思わず目を見開く。
「エリック様」
最近は挨拶だけだった。
こうして話しかけられるのは久しぶりだ。
エリックは少しだけ眉を寄せている。
「また遅くまで残っておられたのですか」
「え……」
「無理をしないでください」
保健室で言われた時と同じ言葉だった。
オリビアは一瞬ぽかんとする。
そして、ほっと息を吐いた。
「良かった……」
「え?」
今度はエリックが驚く番だった。
オリビアは困ったように笑う。
「何かしてしまったのかと思っていました」
「何か、ですか」
「最近、少し距離を置かれているような気がして」
言ってから恥ずかしくなる。
まるで責めているようではないか。
だがエリックは何も言わなかった。
ただ少しだけ目を伏せる。
「申し訳ありません」
「いえ」
オリビアは慌てて首を振る。
「責めているわけではないのです」
むしろ、話しかけてもらえて嬉しかった。
そう思っている自分に気付いて、胸が少しだけ騒ぐ。
しばらく沈黙が流れる。
先に口を開いたのはエリックだった。
「婚約のお話を聞きました」
オリビアの指先がぴくりと動く。
「殿下から」
そう続けられ、何となく察した。
だから最近距離を置いていたのだろうか。
エリックは静かに言う。
「おめでとうございます」
優しい声だった。
いつもと同じ。
何も変わらないはずなのに。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が苦しくなった。
「……ありがとうございます」
そう返したものの、自分でも驚くほど声が小さい。
本当なら嬉しいはずだった。
誰もが祝福する話だ。
侯爵家の娘としても、喜ぶべきことなのだろう。
それなのに、少しも嬉しくない。
頭に浮かぶのはリチャードではなかった。
ペンを貸してくれた日。
栞を贈ってくれた日。
本の話をした日。
保健室で努力を認めてくれた日。
思い出すのは、そんなことばかりだ。
そして、もし婚約が決まれば。
エリックは今よりもっと遠い存在になるのだろう。
そう思った瞬間、胸が締め付けられた。
(ああ……)
オリビアはようやく気付く。
どうして婚約の話に戸惑ったのか。
どうしてエリックが距離を置いたことが寂しかったのか。
答えは、とても簡単だった。
自分は、エリックを——。
「では、私はこれで」
エリックが一歩下がる。
その姿を見て、オリビアは反射的に口を開いた。
「待ってください」
エリックが振り返る。
けれど、呼び止めたはいいものの、続く言葉が出てこない。
何を言えばいいのだろう。
自分でもまだ整理できていない。
「オリビア様?」
不思議そうな声。
オリビアは唇を噛む。
「……いえ」
結局、それしか言えなかった。
エリックは少しだけ首を傾げた。
「おやすみなさい」
と穏やかに微笑む。
「おやすみなさい」
その背中が遠ざかっていく。
オリビアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。




